14.お手伝いすると、言ったではありませんか
気がつくと、身体は浮いていなかった。
冷たい畳に寝転んだ身体の重さに、九十九は戸惑いながら頭をあげる。辺りを見回すと、天之御中主神の姿はなく、湯築屋の廊下ですらなかった。
天照と一緒に、工作をしていた湯築屋の客室だ。まだハサミや紙が、畳に転がっている。
「天照様……」
純白の衣をまとった少女が、九十九に背を向けて立っていた。
誰かと話していたようだ。しかし、九十九が呼びかけると、すぐにこちらをふり返る。
「あら、若女将。おはようございます……まだ夜ですが」
天照は、いつもとなんら変わらぬ態度で、九十九に話しかける。
「夕餉の頃合いでしょうか。お腹は空いていませんか? 箱買いした推しのチョコならございますよ」
言いながら、天照は九十九の前に座った。どこからか取り出したチョコを並べて、「結構、美味しいのですよ」と笑っている。
さっきまで見ていた夢は……現実だろう。
天之御中主神が言うように、ここは天照の結界。天岩戸である。
九十九は天岩戸に、天照と一緒に閉じ込められているのだ。シロたちは、外で途方に暮れている。
「あの」
九十九は、気怠い身を起こし、天照の前に座る。
「どうして、こんなこと……?」
正直、天照が怖い。
今まで、お客様として接してきた。いや、連泊期間が長いだけに、それ以上の……家族みたいに感じている。
そんな天照が、どうして湯築屋でこのようなことをするのだろう。九十九には、どうしてもわからなかった。
理由もなく九十九を閉じ込めたりしないはずだ。
「あなたの神気が甘くて美味しいお菓子だから、独り占めしたくて」
ふふ、と。蕩ける表情を浮かべて、天照は答える。
だが、九十九は首を横にふって否定した。
「たしかに、天照様はわたしをいつも評価してくれましたけど……それ、本気で言っていたことなんて、ないじゃないですか」
九十九の神気は甘くて上質だと、いつも評価されていた。
けれども、それは……天照が九十九を独り占めしたいなどと、言わないのは理解している。
あれは警告だった。気をつけておかないと、他の神や妖に喰われてしまうという。天照自身が九十九を害す気などないのは、九十九にだって理解できる。
「あら、伝わっていましたの。やはり、聡明な娘。ますます食べちゃいたいです」
「真面目に話しましょう」
「真剣ですよ」
言葉とは裏腹に、茶化しているのが伝わってきた。すぐに真意を話しては「物足りない」とでも言いたそうだ。
もう少し、お遊びにつきあってほしい雰囲気を感じた。
けれども、これはお遊びではない。天照は真剣なのだとも感じている。
「では、少し別の話をしましょうか」
九十九は話題を変えてみることにした。
「ええ、そうしましょう。籠城戦ですから、楽しみがなくては」
天照は両手をあわせて、嬉しそうに応じる。
「天照様、今日は見たい番組などないんですか?」
「ありますよ。推しのライブ配信がございますから、本当はリアタイしたかったくらいです」
「ライブ配信より、大事なんですか」
「ああ、今さり気なく会話を誘導しました? もう、気が抜けない子」
浅はかだったか。すぐに気づいた天照が、九十九の頭をなでた。
「わたくしは、あなたのことも推していますからね」
いいこ、いいこ。まるで、母親みたいななで方だった。どことなく心地よくて、子供へ還った気分になる。
天照は、九十九が子供ころから湯築屋の常連だった。宿泊名簿を見ると、もっと以前。湯築屋ができたころから遡る。本当に古くからのつきあいがあるお客様であった。
「天照様は、湯築屋をお好きでいてくれているん、ですよね?」
「ええ、そうね。好きですよ」
迷いのない返事に、九十九は安心する。
そんな天照が事を起こすのだから……きっと、湯築屋のためなのだと思う。
「高天原での岩戸隠れは……須佐之男命様のためだったんですか?」
須佐之男命は、答えてくれなかった。九十九も、天照には直接聞いたことがなかった事柄だ。
天照は、初めて九十九から逃げるように目を伏せる。だが、話をそらして煙に巻く様子はない。
「それは、それは……ずいぶんと、言いにくいことを聞きますのね」
「聞いたらいけないって気はしていました……」
「では、聞かぬ。という選択はできなかったのかしら?」
聞かないつもりだった。
でも、この場でしか聞けないと思ったのだ。
「いいでしょう。その面の厚さも、わたくしは好ましいと思っていますよ。あなたは、どう考えているのかしら。それを聞くくらいは許しましょう」
あくまでも、雑談の延長線だ。天照は試すような口ぶりで、九十九へと問いを投げる。こちらが聞いているのに、逆に聞き返されてしまい、九十九は悩んだ。
「仮説でいいでしょうか」
「どうぞ」
と言っても、思いつきだ。天照が満足する仮説ではないかもしれない。
「天照様は、豊穣の神でもあります。様々な側面をお持ちで、信仰の形も一つではございません。それは、須佐之男命様も同じです」
九十九の話を、天照は黙って聞いてくれた。
須佐之男命は自らの体毛を樹木に変え、日本中に植林したという伝説を持つ。つまり、木――木の神でもあった。熊野など、須佐之男命を木の神としての信仰も存在している。
「須佐之男命様は、木の神ですから……豊穣を司り、農耕を進める天照様とは性質が相反しますよね」
人の歴史とも通じる部分がある。
森で生き、狩猟や採取で暮らしていた人々にとって、農耕は革命だ。田畑を作って定住し、集落をどんどん拡大していった。そうやって、人々は暮らしを豊かにしていき、今現在の九十九たちの歴史へと繋がっていく。
農耕は人間の歴史を育み、発展させた。
だが、その対価がある。
「人は住む地を開拓しなければなりません。森を……多くの木を切って、土地を広げて、家を作っていく必要があるんですよね」
須佐之男命は、理由もなく暴れる神ではない。
それは湯築屋にいる須佐之男命と、直接関わっている九十九には、充分理解できた。だから、彼にも理由があって、高天原での横暴に至ったのではないかと思っている。
「須佐之男命様は、天照様に抗議されていたのですよね」
彼が働いた横暴は、すべて天照を妨害するものだ。
田畑を破壊したり、神事の場を穢したり、機織りの邪魔をしたり……天照が農耕の神としての行為を妨害する目的で行われたとすれば、線が繋がる。なんの脈絡もない暴力に感じるが、すべて理由があったのだ。
木の神として、彼は天照に異議を申し立てていた。
「天照様が知らなかったはずはないと思います。だから、天岩戸に――」
「そうですわ。わたくし、逃げたのです」
天照の声音は変わっていない。表情も、可憐な少女のままであった。いつもどおりの天照。
「須佐之男とは、争えないのです。本当に駄目ですね、わたくし」
「駄目だなんて……」
「駄目なのです、本当に」
天照は須佐之男命に甘い。シロが「ブラコン」と呼ぶくらいに。須佐之男命がなにかしても、すぐに天照が折れてしまう。
「どうしようもありませんよね」
須佐之男命が海原の神の任を拒絶し、根の国から高天原へ戻った際、天照は慌てふためいたとされている。天照を侵そうと、高天原に攻め込んだと勘違いしたのだ。須佐之男命は潔白を証明するため、誓約を行い、宗像三女神を生み出した。
「須佐之男はただ、わたくしと話しにきたのです」
「話し?」
天照は目を伏せたまま、抱えるように膝を立てた。
「須佐之男はね、人が嫌いだったのですわ」
人は木を切り、森を拓いていく存在だ。狩猟していても充分に生活できるのに、自分たちのために他の生物を退け、発展を望む。そんな人間たちが、須佐之男命には忌々しく映っていたのだろう。
そして、そこに加護を与える天照も。
「でもね……わたくしは、好きなのです。あなたたちは、神々などよりも、よほど愚かで……輝いていました。利己的で傲慢で、勘違いをしていて。弱い存在なのに、強く在ろうとする。そこには、一瞬しか見えぬ輝きが宿るのですよ」
天照は、うっとりと目を細めながら九十九を見据え、人差し指を突き出した。
「それをわかってほしかった……ですが、わたくしは伝えられず、逃げてしまいました」
天岩戸に。
天照が天岩戸に隠れたのは、横暴を働く須佐之男命を恐れたからと言われている。けれども、実際は彼女が須佐之男命との衝突を避けたからであったと、天照は語った。
天照は岩戸にこもり、須佐之男命は高天原を追放されてしまう。そして、須佐之男命は地上におりて国津神の祖となっていく。その過程で、英雄的な活躍をしていくことになるのだが……最初は人間を嫌いだったのが、九十九には意外であった。
今の須佐之男命は、九十九にも気さくに接してくれる。発展した文明に対する苦言もない。人間が嫌いなどという素振りはまったくなかった。
高天原から追放され、地上におりてから考え方が変わったのだろう。
「いっそ、争ってしまったほうがよかったのかもしれません」
天照は後悔しているのだろうか。
姉弟のつきあいは続いている。こうして、湯築屋に宿泊しているときの彼らの関係は、悪くないように思える。
だが、若干の歪さをはらんでいた。
「須佐之男命様は……天照様と喧嘩がしたかったのでしょうか」
争いまでは、望んでいなかった。
しかし、須佐之男命と喧嘩ができるのは、同じ神から生まれた天照くらいだ。彼は同じ目線の神として、天照とぶつかりたかったのかもしれない。
「そうでしょうね。だから、わたくしは駄目なのです」
わかっていたのに、天照は岩戸へ逃げた。
最終的に、須佐之男命は天照の真意を理解しただろう。人間に対する考えを改め、手助けもしている。それは製鉄の神としても信仰されている彼の在り方からも見えた。
だから、事態は丸くおさまっている。高天原での岩戸隠れ――二柱のすれ違いは、もう解決していた。
しかし、互いに遺恨は残したままなのかもしれない。それが、この二柱の歪さに繋がっている。
「わたくしには、あなた方の関係に口を出す権利などないのでしょう」
あなた方とは、九十九とシロのことだ。
天照は九十九の顔に手を伸ばす。九十九に危害を加えるつもりはなさそうだ。
「ですが、だからこそ……お手伝いしたいのですよ」
天照の指先が、九十九の頬をなでる。くすっぐたいけれども、優しさがじんわりと伝わってきた。
互いの顔が近づいて、肌に吐息を感じる。
間近に迫った瞳には、太陽の色が宿っていた。
シロとは別種の美しさ。気を抜けば、いつまでも魅入ってしまいそうだった。
「もしかして、天照様がこんなことしたのって」
ぼうっとしそうになる意識を保ち、九十九は天照の肩に手を置く。軽く押すと、天照はすんなりと身体をうしろへ退いてくれた。
「シロ様のためなんですか?」
太陽の色の瞳が、ふわりと微笑んだ。
「お手伝いして差しあげますと、言ったではありませんか。わたくし、あなたのことが好きなのですよ」
その声音はどこまでも優しく、慈愛に満ちていた。




