13.身代金の要求
――シロ様。
九十九に呼ばれた気がして、シロは虚空を見あげた。
幻聴だろう。そこには湯築屋の天井があるばかりで、なにもない。九十九の姿は、客室に消えたままだ。
「どうしましょう。どうしましょう!」
足元で、コマがチョロチョロと左右に走っていた。トットットットッと、小刻みな足音が響き続ける。
「はっ……そうです。いいこと思いつきましたー!」
すると、珍しくコマは表情を明るくしながら立ち止まる。なにか妙案が浮かんだようだ。一応、聞いておこう。
「天宇受売命様をお呼びして、舞っていただきましょうっ」
天照は、いつも通販で買った荷物を受けとる際、部屋の前で従業員に踊らせている。なによりも、天宇受売命が好きで推していた。天照の元祖推しと言ってもいいだろう。天宇受売命が舞えば、さすがに出てくるのではないか? という案であった。
「受売命ちゃんなら、呼べばすぐ来るけどさ……なんか、そうじゃねぇと思うんですよね」
コマの案に、須佐之男命は首を傾げていた。
「根本的な解決になってねぇっていうか。うーん、なんて説明すりゃあいいんですかね。姉上様は、なにか理由があっておこもりしてるんじゃねぇんですか? それを解決してやらねぇと……理由もなく、こんなことする神じゃないんですよ。あの方は」
須佐之男命の言い分は釈然としないが、直感だけはしているようだ。
シロも、同意だった。
天照はただこもっているのではない。なにか理由があるはずだった。ならば、出てくるのにも、解決が必要だろう。
それはシロにもわかっていた。
だが、なにもつかめない状態では、どうすることもできない。ただ途方に暮れているだけだ。
これでは、埒があかない。
焦りばかりが先行して、なにもできなかった。
「シロ様、おさがりください」
碧が物々しい形相で一声発する。臙脂色の着物は襷掛けにし、頭には鉢巻き。刃の光る薙刀を持って現れていた。
「お客様と言えど、若女将が中にいる以上、看過できません。私は登季子から、あの子を預かっているのです」
殺気を放ちながら言い切る碧を止められる者はいなかった。神でも開けられぬ戸に挑む気迫は、さながら武者である。
九十九の修行のため、登季子はしばらく湯築屋に留まっていた。だが、あいにく、昨日のタイミングでどうしても行きたい営業先があると、飛び出したばかりである。登季子不在の今、碧が九十九を預かっていると言えるだろう。
「ひ……やっぱ、あの人間おっかねぇわ」
「お前は戦いの神でもあったはずだが」
声を裏返す須佐之男命に、シロは冷ややかな目を向けてしまった。
「やぁぁぁああッ!」
碧が叫びながら、薙刀をふりおろす。刃は閃光のごとき煌めきを放ちながら、客室の木戸を両断せんと軌道を描く。
「――――ッ!?」
だが、碧がふった刃は宙でピタリと止まる。
なんらかの力が干渉した。
否、神気の流れがある。
「みなさま、ごきげんよう」
可憐な少女の声が響いた。
客室の扉は開いていない。ただ、木戸が鏡、いや、モニターのように変化していた。縦長の画面に、天照の姿が映し出されている。純白の衣をまとい、肩に羽織った領巾が翼みたいに広がっている。
小竹葉の手草を持ちあげて、天照はうっとりとした笑みを浮かべた。
「天照」
名を呼ぶと、呼応するように天照は笑い声を転がした。
「ずいぶん、慌てていらっしゃいますね」
「どういうつもりだ。なにをしているのか、わかっておるのか」
シロの声に怒気が含まれていく。それなのに、天照は動じる素振りはなかった。むしろ、愉しむかのように、シロを見つめている。
「犯人からの要求を告げに参りました」
涼しい顔で告げられて、シロは眉根を寄せる。他の者も同じであった。
ただ、天照だけは堂々としている。
「ほら、わたくし誘拐犯ですので。要求を述べておかねば」
事もなげに主張しながら、天照は自らの胸に手を当てる。
「ふざけるな」
シロは客室に触れようと手を伸ばす。が、神であるシロは、天岩戸に触れることすら叶わない。弾かれるように、拒まれてしまった。
「大真面目ですよ」
天照はうっとりと、表情を蕩かせていた。
「大丈夫。若女将には危害を加えておりません。加えるつもりもございません」
そう言って示したには、畳のうえで眠る九十九の姿であった。両目を閉じ、ぐったりとしている。
「九十九!」
シロは思わず声をあげ、前に出る。しかし、天岩戸に阻まれて、それ以上進めない。
まさか、自らの結界内で、このような事態になるなど考えてもいなかった。ここを訪れる神々は、みなシロと天之御中主神を同一視したがる――否、同一の存在だ。シロや湯築屋を害したり、このように結界を張ろうとする者など皆無であった。日本神話の神々なら、特にそうだ。
客室の壁さえ抜ければ、九十九はすぐそこだ。
ここはシロの結界なのに。
こんなに近くにいるのに。
結界の外であれば、シロは無力だ。しかしながら、結界の内側にあって、このような事態になるなど、想定していなかった。
どうして。
「人質を返してほしければ、身代金をご用意ください」
シロの気を知ってか知らずか、天照の態度は変わらなかった。まるで、テレビのアナウンサーにでもなったかのような流暢な口調で、身代金などと宣っている。
こちらの神経を逆なでしたいのだとわかった。
挑発。否、挑戦。
天照は遊びを装っているが、本気だ。でなければ、周到に天岩戸を発現させたりはしない。宝厳寺で九十九との会話を遮断したのも、客室に二人の状況を作ったのも、シロの結界に穴を空けるためだ。
ふざけてなどいない。
天照は本気で、シロに挑んでいた。
「身代金とは」
問うと、天照は不敵に表情を作った。
「わたくしからの要求は、ただ一つです」
可憐な少女のようでありながら、凜と気高い孤高の花。しかしながら、慈しみに満ちた母性と、相反する魔性の魅惑を兼ね備えている。
決して、神は一面で語ることはできない。
天照大神も、そのような神の一柱であった。
「あなたの輝きを見せてくださいませ」
要求は単純であった。
そして、天照が常に求めているものだ。
彼女が要求しているのは、高天原での岩戸神楽ではないのだろう。もちろん、宅配の荷物を届けるときの舞でもない。
「楽しみにしておりますよ」
天照の求める輝きを。
彼女が常に愛しているのは――。
シロの眼前で、天照の顔が消える。なんの変哲もない、客室の木戸へと戻っていた。
辺りが静まり返る。




