12.選択の代償
「わたくしに、輝きを見せてくださいませ」
視界がぼやけ、身体がうしろへ倒れて……九十九を抱きしめる、天照の手がたまらなく温かかった。
覚えているのは、そこまでだ。
きっと、意識を失ったのだろう。ふわふわと、自分の身体が浮いている感覚がある。また夢の中か。月子との修行のせいか、夢と現実の行き来には慣れていた。
「中に若女将もいらっしゃるのでしょう? 早く出してあげなければ……」
湯築屋の様子が見えた。
みんな、客室の前に集まって動揺している。
九十九はそれを、うえからのぞき見ていた。身体が浮いていて、みんなに触ることができない。声も届かなかった。
ただ、ながめているだけだ。
これは現実に起こっているのだろうか。
それとも、九十九が作り出した夢?
判別できない。
「九十九……」
シロが暗い顔でうつむいている。幻か現実か定かではないが、シロにこんな顔をさせたくなかった。
触れられないとわかっていながら、九十九はシロに手を伸ばす。
シロの白い尻尾は、九十九の手をすり抜けてしまった。なにもつかめない。
「天岩戸とは、また懐かしいものを」
驚いている、というよりは、興味深く笑っている。そのような声音であった。
九十九は浮いたままの身体の向きを変え、そちらをふり返る。
「天之御中主神様」
浮遊する九十九のそばに現れたのは、天之御中主神であった。墨色の髪が宙を漂い、純白の翼がはためいている。
紫水晶みたいな瞳に、九十九が映っていた。
「……我は、なにもしておらぬよからの?」
「いえ、別に疑っていませんけど」
「そうか。ならば、よいのだ、我は誤解されやすいらしいからの」
なにを察したのか、いや、勘違いしたのか、天之御中主神はさきに発言した。以前に、言葉が足りないと指摘されたのを気にしているのだろうか。
「天岩戸って、おっしゃいましたか?」
それよりも、その前の発言が気になった。
「左様。此れは、天照の結界ぞ。斯様な代物、見るのは神代以来かの」
天岩戸。高天原での岩戸隠れの話が真っ先に思い浮かぶ。
ということは……。
「天照様が?」
夢に落ちる前、九十九の前に立った天照の顔。
甘い蜜みたいに危険な魔性が頭に過り、身震いした。慈愛に満ちた女神でありながら、奈落へと誘う危うさも備えている。
その恐ろしさを常に実感していながら、九十九は彼女に気を許していた。ミイさんのように、二面性を持ち、人に害為す可能性のある神様もいると知っていたのに。シロからも、完全には信用するなと言われていた。
でも……それでも――。
「そういうことになるかの。さてはて、どうしたものか」
天之御中主神は、成りゆきを見守るつもりのようだ。というより、この神にも、天照の真意がわからないのかもしれない。試している態度だが、様子をうかがっているというのが正しそうだった。
「天之御中主神様なら、なんとかできないんですか」
九十九の身体は、きっと客室内だろう。天照に囚われたままとなっている。
シロにはこの状況を打開できないようだ。
しかし、天之御中主神ならば。
「無理だの。この結界は、神を退ける。我も別天津神ぞ……それに、此の結界内では、我よりも檻――いや、白夜命のほうが権能が強い。我は囚人のようなものだからの」
つまり、湯築屋にいる限り、天之御中主神は無力だ。
そういえば、この神が力を行使したのは常に湯築屋の外である。五色浜でも、八股榎大明神でも、シロが天之御中主神を結界の外へと出る許可を与えていた。
二柱は表裏の存在で、力関係も単純に天之御中主神が強いというわけではない。
「だがまあ、助言くらいは与えてやろう」
天之御中主神は唇に、わずかな弧を描く。
「状況を打開する方法があるんですか?」
「ある。其方にしかできぬ」
九十九を示され、息を呑んだ。
天岩戸など、神話でしか聞かない最高の結界だ。そんなものが九十九に破れるというのだろうか。だが、天之御中主神の顔には、自信が貼りついていた。断言する口調も強く、必ずできると確信している。
「天照の神気を奪ってしまえばよい」
単純な話であった。
道後公園でミイさんから神気を引き寄せたのと、同じようにすればいいのだ。
「天岩戸を維持するのは、なかなかに神気を使う。此処は高天原ではないのだからな。持久戦には滅法弱かろうて。内側にいる利点を使えば、攻めるのは容易であろう?」
至極当然のように、天之御中主神は語る。九十九も、それが正しいと思った。おそらく、天岩戸を攻略する最適解だ。
日本神話の岩戸隠れでも、神々は天岩戸を脅かしていない。それは、神々にとって物理的に不可能だったからだ。最終的に、天照自らが岩戸から出てくるように仕向け、引きずり出している。
神に、この結界を破ることは不可能なのだ。
しかし、九十九の力であれば、できる。
「あの」
けれども、九十九には懸念があった。
天照は九十九の能力を知っている。
こんな簡単に攻略されてしまうとわかっていながら、わざわざ九十九と一緒に天岩戸に隠れるとは思えなかったのだ。
「わたしの力を、天照様に使うと……なにか、デメリットがあるんじゃないですか」
天之御中主神の、いつものやり方だ。
選択を示しておきながら、デメリットを開示しない。
「ほう」
九十九の指摘に、天之御中主神は愉しそうに顎をなでた。やはり、九十九を試していたのだ。
「……お言葉ですけど、そういうところですよ。誤解されやすいのって」
「此れはいけぬな。特に意識していなかったの」
本当ですか? 九十九は思わず、息をついてしまった。
「我は其れを不利益とは感じていなかったからの」
項垂れる九十九の前に、天之御中主神は指を一本立てる。
「天照から、天岩戸が弱体するまで神気を奪い、果たして其方は人としての存在を保っていられるかの?」
「やっぱり、そういう系ですか。そういう系ですよね。わかっていましたとも」
九十九が頭を抱えながら言い返すと、天之御中主神は口を少し曲げる。
「なんだ、対応が雑ではないか。つまらんの」
「面白がられるほうがイヤなので!」
この神様との会話には、ちょっと慣れた。九十九は、シロと同じく雑に対応しながら腕組みをする。
「却下です。そんな方法、危なくて無理です」
「何故。其方は神に匹敵する存在となるのに」
「なんのために、あなたの巫女になるのも断ったと思っているんですか。他に方法はないんですか?」
「其方にできることは、此れくらいかの」
つまり、ないんですね。九十九は納得するしかなかった。
「選択せぬとしても、最終手段にはなろう」
保険というやつだ。いざというときには、役に立つ。だが、本当にいざというときしか選択したくなかった。
「まあ……ご助言には違いないので、ありがたく受けとっておきます」
九十九は天之御中主神に言いながら、ふと考える。
――あれを神の座から、降ろす力にもなるのではないかの?
あれも、天之御中主神にとっては助言だったのだろうか。
シロを神の座から降ろす……九十九の力で?
九十九は自身の両手をかざした。
「九十九……」
そのタイミングで、シロが九十九の名を呼んでいた。九十九は、「ここにいますよ」と、シロに手を伸ばす。
しかし、シロは気づいてくれなかった。
「シロ様」
触れたいのに、触れられない。
もどかしい気がして、九十九は目を伏せた。




