8.信用
「これは、うちの新名物じゃが」
と言って、一遍上人が燈火に捨莉紙のプレゼンをしていた。「捨聖」とも呼ばれていた一遍上人に掛けている。心の執着を捨てるというコンセプトだ。捨莉紙に、捨てたい執着を書き、それを水で洗う。自分自身を見直し、原点に立ち返るきっかけとなるように。
「捨てたい執着……ライブのチケットとれなくて、悔しかったこと、とか……」
「そうじゃ、そうじゃ。いい感じの煩悩持っとるな。よし、捨てちまおう」
「そ、そんな簡単に捨てられるんですか……」
「無理じゃ! でも、形から入れば、案外上手くいくこともある」
一遍上人は、燈火の肩を叩き、「さあ、書け書け」とうながしていた。
わたしも、なにか書いておこうかな。九十九も捨莉紙をいただこうと、寺務所へ向かう。
「そういえば、若女将」
しかし、天照から呼び止められた。ふり返ると、天照は少女の顔に、慈愛に満ちた笑みを湛えている。
「どうですか。その後、稲荷神とはなにか進展はございましたか?」
「し、進展って――」
九十九は、さっと目をそらした。
シロと唇を重ねた記憶が蘇って、それだけで恥ずかしい。前と同じ関係のようで、確実に変わっている。
「別天津神は、あなたになにか言いましたか?」
天之御中主神のことだ。
九十九は、はっとしながら天照に向きなおる。
「お戯れが好きな神だから。困っているのではないかしら」
天照の言葉に深刻さはない。ただ、事実を優しげに述べているようだった。
「わたしを、ご自身の巫女にしたいと……断りましたけど」
天照に嘘をつく必要はないので、九十九は正直に答える。
すると、天照は両の目を見開きながら、口元に手を当てた。
「それはまた、どうしてでしょう。詳しく聞かせてくださいな?」
その表情があまりにキラキラしていたので、九十九は尻込みしてしまう。天照にとって、九十九の選択は異様で、同時に興味を引かれる内容のようだ。
「わたしは、湯築屋を人と神様の架橋だと思っています。だから、わたしは人でいたい。神様に、ずっと人を見守っていてほしいんです」
おおむね、天之御中主神に返したのと同じ答えだった。
天照は目を輝かせたまま、九十九を見据えている。一歩、二歩と、九十九の前へと近づき、顔を寄せた。
「愚かしいですわね」
表情も、声音も、なに一つ変わっていない。優しげな空気を保ったまま、天照は九十九を否定した。
一瞬、背筋がぞわりと粟立つ感覚。
「無意味でしょう。人ひとりが、神になにを与えられると? 思いあがりも甚だしいところですわね」
そうだと思う。
九十九は天照の言葉を、心中で肯定した。九十九の選択は、勘違いの激しい妄言だ。理想ばかりを唱えて、なにも力が伴っていない。天之御中主神からも、面の皮が厚いと評された。
「ですが」
同時に、天照は九十九の頬に手を触れる。
冬の寒さなど微塵も感じさせない、温かでやわらかい手であった。
「あなたらしい」
やはり天照は優しげに、九十九の頬から髪、頭をなでる。
「稲荷神は、そういうところを愛でているのでしょうね」
九十九にだって、正しい選択なのかわからない。
でも……そうだ。
シロはきっと、人である九十九を好きでいてくれている。なら、シロの好きな九十九でいたかった。
「愚かで、無意味で、実に人らしい。だからこそ、輝かしいのですわ。神には、この一瞬の光は出せませんもの」
天照はいつも湯築屋の部屋にこもり、アイドルを推している。彼女にとって輝かしい存在――永遠を生きない、人間の短い時間を使い、存分に輝こうとする存在だ。天照はそこにこそ輝きを見出し、愛でる価値があると判断している。
太陽の色を宿した瞳に、魅入られそうだった。
無垢で可憐な少女の姿なのに、慈愛に満ちた母の愛を感じさせる。それでいて、甘やかな蜜のごとき魔性を併せ持っていた。見つめれば見つめるほど、虜にされそうな恐怖がある。
なのに、九十九は口を開いていた。
「わたしは……シロ様を幸せにしたいです。天之御中主神様と話しあってほしくて……いつか果たすと、約束をしました」
待つのは慣れている。九十九は、いつもシロが歩み出るのを待ってきた。また一つ約束が増えただけである。
天照は微笑んだまま。やはり、「愚かしい」と思っているだろう。だが、女神は九十九に否定の言葉を発しなかった。
「そうですか」
天照は九十九から手を離す。緊張していたのだろうか。九十九の身体中から力が抜けて、冷や汗を自覚した。遅れて、身体の冷え込みを感じる。
「お手伝いしましょうか?」
「え?」
手伝い? 九十九は首を傾げた。
「若女将は、稲荷神になにかしてさしあげるつもりなのでしょう? さきほど、なにやら妙案を思いついた顔をしておりました。教えてくださる?」
話題がそらされた。いや、変わった? 九十九には地続きのように感じたが、天照の言葉は別の話題を指していた。
「なにをするおつもりですか?」
天照は人の好さそうな顔で、九十九に耳を向ける。内緒にしてあげるから、話してみろと言いたげだった。どうせ、そこらで見ているであろうシロの使い魔への配慮もありそうだ。
九十九は腑に落ちない気がしながらも、天照にそっと計画を耳打ちする。
「まあ! それなら、しっかり準備しなくてはなりませんね。なおさら、お手伝いします」
天照は嬉しげに両手をあわせた。
たしかに、計画したものの、手早く準備したかったので、人手は多いほうがいい。猫の手、ではなく、神の手を借りるのは贅沢かもしれないけれど。
「じゃあ……おねがいします」
「おまかせくださいな」
天照は、頼もしく胸を叩く。
だから、九十九もすっかりと信用してしまった。




