7.ギャラリー
なんとなく、予想はしてたけどさぁ……。
九十九の息は重かった。
燈火と天照に、穴場の映えスポットはないかと迫られ、あれこれ考えた。だいたい道後温泉界隈は、一日、二日あればめぼしい観光スポットは網羅できる。
燈火はともかく、湯築屋に長期連泊するのが常の天照は、道後を知り尽くしていると言っても過言ではない。そもそも、燈火だって道後を歩きはじめたのは最近だが、「映え」についての感度は九十九よりも高い。
そんな燈火や天照が満足しそうな場所……プレッシャーを感じながら、九十九はいくつか候補を出した。
そして、採用されたのが宝厳寺である。
道後温泉本館から、さほど離れていない。だが、アーケード街などと比べると、人通りはグンッと減ってしまう。
上人坂をのぼったところにある寺だ。時宗の開祖、一遍上人生誕の地とされている。
時宗とは、鎌倉時代末期に興った浄土教の一派だ。平安時代までの仏教は、貴族のものだった。しかし、社会が一気に貴族から武士の時代へと移る。仏教も当然、武士や民衆へと伝わっていった。その過程で、より広く受け入れられやすい形へと信仰が変化したのである。
念仏によって救われるという時宗はわかりやすく、一遍上人の遊行の甲斐あり、人々の間へと広まった。とくに、鉦や太鼓を鳴らしながら念仏を唱える「踊り念仏」は有名だ。見世物としての側面も強く、当時は保守派の人々から批判も受けている。
踊り念仏は形を変え、盆踊りの起源となったとも言われていた。
「やっぱり、九十九さん綺麗……」
パシャリと、シャッターを切る音。一眼レフのレンズから、燈火が顔をあげた。ふわふわのポンチョをまとった天照も、満足げに九十九を見ている。
「なんで、被写体がわたしなの!」
九十九は声を大にした。
落ちついた深紅の着物に、蒼い和傘。白いウールのコートを羽織り、足元はブーツにしているおかげで、寒さはそこまで堪えない。ただ、湯築屋の中と違って、吐息は白かった。
辺りには、薄らと雪が積もっている。
温暖で降水雨量が少ない瀬戸内海式気候の松山には、あまり雪が降らない。そのせいで、燈火と天照のテンションがあがってしまったのだろう。九十九に被写体になれと迫ったのである。
湯築屋での雪は見慣れているが、松山にとっては貴重な積雪だ。松山では、雪になるとはしゃぐ人もいる。単に通勤難易度があがるだけなので、嫌がる人も多いのだけど。
「だって、わたくしたちは忙しいですから」
燈火と一緒に、天照がにっこりとカメラを持ちあげた。燈火の勧めで新調したらしい。アルバイトでお小遣いを稼ぐ燈火よりも、何倍もいいカメラだと話していた。さすがは、やり手の神様。
「うう……おかしい」
被写体にされて、九十九は白い息を吐く。
しかしながら、景色は最高であった。
宝厳寺は斉明天皇の勅願によって、飛鳥時代に創建された寺だ。宗派は時代によって変わり、現在は一遍上人が興した時宗となっている。
だが、平成に入って火災で本堂と裏庫が全焼してしまった。所蔵されていた重要文化財も焼失し、大損害を被っている。現在建っている本堂と、一遍上人堂は再建されたものだ。故に、歴史の長さの反面、全体的に新しい雰囲気が漂っている。
一方の山門は火災を免れており、愛媛県指定史跡となっていた。大きな銀杏の木も圧巻で、秋になると美しい黄色が山門を彩る。
ここから見る夕陽が美しいのだ聞いて、九十九は候補に選んだのだ。情報元は、仲居頭の河東碧である。やはり、年長者にお勧めは間違いがない。
宝厳寺へ続く上人坂は、閑静な雰囲気の住宅が並んでいる。が、以前は歓楽街であった。夏目漱石の『坊つちやん』でも言及され、正岡子規も俳句に詠んでいる。二〇〇七年まで、朝日楼という遊郭の建物が残っていた。
九十九は雪化粧をした山門から坂を見おろす。
この景色は、時代を経て何度も様相を変えているのだろう。けれども、ずっと存在し続けている。常に在り方を変えていない湯築屋とは違う。
「こら」
不意に、本堂から声が聞こえた。
ふり返ると、見覚えのある姿が、こちらへ歩み寄っている。
「ああ、一遍上人」
九十九も何度か会っているので、すぐにわかった。というより、だいぶ特徴的な服装なので、間違えようがない。
一言で表すと……ファンキー? ロック?
雪の白さを跳ね返す黒い革のジャケット。袖口からのぞく手は痩せ細っているが、ごつごつしたシルバーのアクセサリーのせいか、見窄らしさはない。大きなレンズのはまった真っ黒いサングラスによって、表情は隠れてしまっているが、好意的な雰囲気だけは伝わってきた。
一遍上人は、斜めに被ったキャップを軽くとりながら、手をふる。ニヤリと唇の片方をつりあげて笑う仕草は様になっていて、かっこよさが漂っていた。
「駄目、駄目。全然なっとらんわ!」
けれども、フレンドリーな態度と、言っている内容が逆であった。九十九だけでなく、燈火も、キョトンとしている。
天照だけが、優雅に笑っていた。
「あら、わたくしですか?」
天照が答えると、一遍上人は「そうそう」と、うなずいた。
「ここはな……この角度がええんじゃ」
一遍上人は親しげに笑いながら、天照の一眼レフを奪う。かなりお高いらしいので、丁重に扱ってくださいと言いかけたが、当の天照が気にしない素振りであった。
一遍上人がカメラの位置を示し、天照と燈火が液晶画面をのぞき込む。
「な、なるほど……エモい」
燈火が感嘆の声を漏らしていた。
「ど、どうなってるんです?」
九十九もカメラの画面が気になって問う。だが、一遍上人から「アンタはポーズとって!」と、怒鳴られてしまった。九十九は苦笑いしながら、和傘を差して背筋を伸ばす。
「もうええぞ。おいで、おいで」
やがて、一遍上人の許可が出たので、九十九は山門から離れた。
「なるほど……」
撮影した写真を見て、九十九は燈火と同じ反応をしてしまった。
雪化粧した山門は、それだけで美しい。
だが、撮影の角度を変えることによって、印象が様変わりしていたのだ。
山門そのものではなく、山門の向こうに見える景色を写す。山門が、言わば額縁のように表現された構図であった。さながら絵画で、燈火の言葉を借りるなら、「エモい」。
「ほーら、これが最近流行りなんじゃ。ええ景色じゃろ?」
一遍上人が示すとおりだった。
上人坂の先に建つ寺という立地もいい。視線をさげることで、周囲の建物が構図に写り込まなくなる。そのせいか、山門の向こう側が直接、空へと通じているかのように切り取られるのだ。
日本的な景色を写しながら、非日常の空間を演出できる。
実物と写真は、印象が乖離している場合が多い。だが、これは写真であることを、存分に利用していると感じられた。
必ずしも、実物に触れればいいというものではない。視点を変えられた気がして、九十九は思わずうなる。
「で、九十九さん」
「なに?」
燈火に小声で耳打ちされる。
「このおじいちゃん、誰?」
さっき、名前を呼んだ気がするのだけど……九十九は苦笑いしながら説明した。
「ボ、ボク、日本史が苦手で……ごめんなさい」
日本史で受験勉強をしていれば、おそらく暗記した名前だ。しかし、受験勉強をしていたのは一年近く前の話。歴史学科の専攻でもない限りは、苦手科目なんて忘れているかもしれない。
「いいんじゃねぇかな。盆踊りのじいさんとでも呼んどくれよ」
当然のように、九十九と燈火のやりとりは本人にも聞こえていた。だが、一遍上人は、まったく気にしない様子だ。そもそも、彼が盆踊りをはじめたわけではないので、その雑すぎる呼称もどうかと思う。
「わ、わかりましたッ!」
けれども、燈火には響いたようだ。「盆踊りのおじいさん、優しい」と、安心した表情を浮かべていた。
「わしは、そんなに有り難がられるのも苦手じゃから」
一遍上人は、民の間に仏教を広めるため、全国遊行していた。そして、誰でも極楽浄土へ行けるようにと、念仏を唱えれば救われるという教えを説いたのだ。踊り念仏も、広く伝わりやすいようにと工夫された手段である。
そんな一遍上人にとっては、形式張った礼儀は無意味なのかもしれない。九十九が小さいころから、気さくに接してくれた。
「ここの景色も、じゃんじゃん拡散してくれのう。昔のギラギラ感はないが、捨てたもんじゃない」
一遍上人は、山門の下に立ちながら上人坂を見おろした。サングラスを外し、しわの刻まれた目元を細める。
「わしは、どっちも好きじゃ」
かつては道後にあった遊郭も、ネオン街も、すでに存在しない。住宅や駐車場が並び、面影は感じられなかった。
「今は……なにが、あるんです?」
素朴な疑問を口にしたのは、燈火だった。怒られるのではないかとビクビクしていたが、一遍上人は気さくに答える。
「ほれ。あそこに基地があるじゃろ」
基地、と言われたのは、山門のすぐ下にある円形の建物だった。三角屋根を、やわらかい木目の柱が支えている。
「ひみつジャナイ基地ですか」
道後温泉と現代アートのコラボプロジェクトの一貫で作られた施設だ。オープンスペースの交流拠点となっており、様々なイベントや講演会、ギャラリーに使用できる。ワークショップなど体験型イベントも、よく開催されていた。
「坂の下でやった、ギャラリーは覚えとるか?」
問われて、九十九はうなずいた。
期間限定で二年間開催されていたギャラリーイベントだ。商店の倉庫を丸々一つ貸し切って、障がい者施設の利用者が制作したアートを展示していた。ほかにも、商店街のシャッターや、窓などを使用して、様々な方法で街中を美術館のようにしていたのである。
九十九も覚えていた。倉庫に飾られた絵画や工作は、どれも様々な視点を持っており、興味深かった思い出だ。同じものを描いていても、人によって見え方や塗り方が異なるものだと、感心させられた。
一人のアーティストによらない多彩な視点。多様性に富んだ発想の集まり。見る人々の楽しむ姿。
ギャラリー……か。
九十九は、思い出しながら考え込んでしまう。
「あ」
そうだ。
弾けるように、九十九の頭にイメージが浮かんだ。
「いろんな盛りあげ方がある。今度はアートが身近になれば、ええのう」
隣で、そう語る一遍上人は嬉しげだった。
九十九は、逸れていた思考を一遍上人に戻す。
一遍上人の踊り念仏は、当時としては型破りで、保守派からも批判されている。けれども、一部の人間だけのものであった仏教を、広く民に知らしめた。形は整っていなかったのかもしれないが、そこは彼にとって大事ではないのだ。
高尚なものとして崇めず、身近な存在であってほしい。それは、彼が生きている間からのねがいなのだろう。
「やはり、人の考えは興味深いですわね。これも、一瞬の輝きに必要なエッセンスでしょうか」
天照がクスリと笑う。
今、一遍上人は天照たちと同じ神の立場だ。
いや、厳密には違う。一遍上人は仏に当たる。
信仰を集めて神と成った存在と、信仰の果てに仏へ至った存在。こうして、九十九の前で話す彼らは似たような存在だが、厳密には神と仏は区別される。鬼が神気と瘴気を併せ持つのに、神ではないのと理屈は似ているかもしれない。
その成り立ちの違いから、考え方には差があるのだろう。天照は、それを興味深いと評価している。
「あ、空……」
ふと、燈火が声をあげる。
松山の空からは雪がふっていた。しかし、西の空に切れ目ができ、オレンジ色の太陽が薄らと姿を現していたのだ。
燈火がカメラを構えるのを察して、一遍上人がスッと山門の柱に隠れる。九十九もさがろうとしたが、「若女将はそのまま傘を差してくださいな」と、天照からの指示が飛んできた。はい、すみません。わたしモデルでしたね。
燈火たちが満足いくまで撮影したあとで、九十九はじっくりと山門から夕陽をながめる。
スマホを取り出し、さきほど、一遍上人から教えてもらった角度で写真を撮った。四角い山門に、夕陽が切り取られているかのような構図が美しい。雪の白とのコントラストも絶妙であった。
同じ夕陽なのに、場所や角度が少し変わるだけで、こんなにも違った印象になる。昨日見た幼いころの夢だって、そうだ。夢とはいえ、背丈が違うと、湯築屋やシロが別物に感じられていた。
シロ様にも、あとで写真見せてあげよう――。




