6.須佐之男命と大樹
母屋を出て、庭の樹に向かった。
冬らしく雪化粧を施された湯築屋の庭は幻想的だ。綿のような雪が舞うのに寒さはまったく感じない。結界の中だと、景色と気温に、ずいぶんとギャップができてしまう。だからこそ、九十九は上衣も着ずに、パジャマのまま歩けるのだが。
「シロ様」
やがて、樹の下まで辿り着く。九十九は幹に触れ、佇んでいる影に声をかけた。
「あ……」
けれども、すぐ誤りに気がついた。
「人違いしてやがりますよ」
気さくに返したのは、シロではない。
精悍な身体つきの青年のお客様――須佐之男命だ。いつもは時代錯誤の学ランを着ているが、今は湯築屋の浴衣に身を包んでいた。そのせいか、よりいっそう、発達した大胸筋が強調されている。
天照大神の弟神だ。毎年、秋祭りの時期に湯築屋を利用する。昨年に続き、今年も年始まで滞在するとうかがっていた。
宿泊客である須佐之男命がここにいるのは、なにもおかしくはない。ただ、予想していなかった。お客様が、庭の樹をながめていることなど、滅多にない。
つい、シロの名前を呼んでしまったせいか、気まずくなる。
「も、申し訳ありません。お客様」
九十九が小さくなりながら頭をさげると、須佐之男命は快活な笑い声をあげた。
「いいってことですよ。俺に気にしなさるな!」
言いながら、須佐之男命は幹をバシッと叩いた。
須佐之男命は日本神話の代表的な神で、古事記には奔放な神として描写されている。
伊邪那岐から生まれた三貴子。高天原を天照、夜之食国を月読命、海原を須佐之男命が治めるよう定められた。しかし、須佐之男命はその役目を放棄したばかりか、高天原で傍若無人な振る舞いをする。そして、やがて姉である天照の岩戸隠れの原因となったのだ。
須佐之男命は高天原を追われ、地上におりたとされている。
その後は、櫛名田比売を救うため八岐大蛇を討伐する英雄的な側面を見せ、国津神の祖として活躍をしていく。
二面性……というより、つかみどころのない神様だと、九十九は感じている。
本人はサッパリしていて、憎めない性分だ。しかし、彼に付随する逸話には一貫性がなく、どれが本当の顔なのか、わからない。
「いやさあ、こいつが元気かなって様子を見たかっただけなんですよ」
須佐之男命は、湯築屋の樹を見あげた。
九十九も、釣られるように視線をあげる。
いつもここにある高い樹だ。今は、クリスマス直後だからか、千両の実が色をつけていた。やがて、別の花の樹に変化するだろう。この辺は、シロの匙加減だった。
「幻影……じゃないんですか?」
シロが作り出す庭の幻影だ。ここにあるものは、全部そうだ。
しかし、須佐之男命は、まるで命があるかのように樹を示した。
「半分は」
半分? 九十九には意味がわからず、首を傾げた。
「元の木は、俺の髪だったから。庭の紛い物に紛れていやがりますが、他にも何本か植えてやったんですよ」
須佐之男命は、自分の体毛を抜き、木に変えた。それを子である五十猛命たちに命じて日本中に植樹したとされている。
神話から見られる多面性も示しているが、彼は暴風や製鉄、戦い、厄除けなど、様々な側面を持つ神として祀られていた。多くの逸話を持ち、多くの国津神の父である。
そんな須佐之男命が、湯築屋にも樹を植えていたなんて、九十九は今まで知らなかった。
改めて、九十九は樹に近寄る。
触れると、冷たくて表面がゴツゴツとしていた。九十九が触っただけでは、生きているかどうかなんてわからない。
ただ、目を閉じて集中する。そうすると、わずかながら神気の流れを感じた。
シロの神気……だけではない。わずかながら、須佐之男命の神気が流れている。
「本当ですね……」
須佐之男命が嘘をついているとは思っていなかったが、九十九はつぶやきながら目を開ける。
「ここは、寂しかろうと思いましてよ」
それは……シロを示しているのだろうか。それとも、天之御中主神だろうか。あるいは、両方か。この結界に囚われた空間を示しているのだけは、わかった。
粗暴で破天荒な振る舞いが多い神様。だが、こうやって他者を思いやることだってする。姉の天照についても、彼はとても好きなのだと思う。
だからこそ、九十九には引っかかる。
「須佐之男命様は、どうして……高天原を追放されてしまったんですか?」
いきさつは知っている。
だが、その過程を知りたかった。どういう思いで行動し、追放されるに至ってしまったのか。
須佐之男命が高天原で働いた行いは、身勝手とも言えた。
海原の神である任を放棄し、伊邪那岐の怒りを買っている。その後、母神のいる根の国へ向かう前に、高天原へ立ち寄ったのだが……天照は、これを須佐之男命が攻め入ってきたのだと勘違いし、武装して応じたという。須佐之男命は、自信の無心を証明するため、誓約を行い、宗像三女神を生んだ。
身の潔白が証明された須佐之男命だが、高天原の田の溝を埋めたり、天照の御殿を穢したりするなどの横暴を働いた。天照は弟神を庇ったが、その後も機織りの最中に、屋根を突き破って馬を投げ入れられてしまう。
ついに天照は須佐之男命を庇い切れなくなり、天岩戸に隠れたのだ。これが、岩戸隠れの原因とされている。
天照は神々の尽力によって、岩戸から引き出された。だが、須佐之男命は高天原から追放され、地上の国津神となったのだ。
たしかに、須佐之男命は破天荒な神である。湯築屋にいる彼は、悪気なく空気が読めない性分なのかもしれない。
しかし、九十九には何度も天照を困らせ、岩戸隠れに至らせる神には思えないのだ。天照だって、須佐之男命を好いている。むしろ、弟神に甘すぎて、シロからは「ブラコン」などと称されていた。
「そりゃあ……まあ」
須佐之男命は、苦笑いしながら髪を掻いた。
「若気の至りってヤツですよ。いやあ、俺も若かった!」
誤魔化し方が露骨すぎる。だが、「言いたくない」というのが、充分すぎるほど伝わってきた。
「あのころは、俺も短気だったからさ。姉上様も、そうとう困ってやがったことでしょうよ。しょうがねぇんです」
須佐之男命は言いながら、くるりと踵を返す。湯築屋へ戻っていくようだ。
九十九には、それ以上追及することはできない。お客様が望んでいない話を続けるつもりはなかった。
「若女将様、残り数日もよろしくお頼みしますよ」
須佐之男命は、軽く手をふりながら去っていった。
その背を見送るように、九十九は立ち尽くす。
幻影の雪が、風もないのに舞っていた。




