11.気にしますよ
池に咲く蓮の花。
円い葉に溜まった水滴が滑り落ち、水面に波紋を作った。
「シロ様は、怒ってると思ってました」
客室を出て、九十九はシロに問いかけた。
シロは問いに対して立ち止まり、九十九の方へ向き直る。
「愚問だ、儂は怒っているとも。我が巫女が危険に晒されたのだ。儂の領域であればまだしも、面倒な出張までさせおって……怒らぬはずがなかろう」
「そ、そうなんですか。いや、まあ、ですよね。やっぱり思った通りな感じでした」
あ、やっぱり怒ってたんだ。
九十九は苦笑いする。
シロは不機嫌そうに腕組みし、顔をズイと九十九の方へと近づけてきた。慣れているとはいえ、あまり綺麗な顔を間近で見ると多少は緊張する。
「あ、あの、シロ様?」
「なんだ。口づけて欲しいか?」
「違いますって」
「儂は今、気が短い。端的に申せ」
「あからさまに機嫌悪くなりましたね……その、ありがとうございました」
九十九はさり気なくシロから物理的に距離を取りつつ、目線を反らした。
「好きにさせてもらって、感謝してます。助けてくれて、ありがとうございました……あと、わたしのために結界の外へ出向かせてしまって、すみません」
「あれは八咫鏡を使って結界を切り取ったのだ。別に、儂自身は結界の外へなど――」
「いや、それは知ってます。天照様から聞きました……そっちじゃなくて、最初に五色浜で堕神に襲われたときです……あれって、シロ様だったんでしょう?」
やはり、最初に五色浜で九十九と京を助けてくれたのはシロだと思う。
みんな隠していたが、なんとなくわかった。
神気や見た目が違っていたような気もしたが、腕に抱えられたときの感覚は変わらない。シロ以外にはありえないと、本能的に感じ取っていた。
「否、あれは……違う。儂ではない」
「そんなはずないです。シロ様でしたよね。なに格好つけてるんですか? 別にシロ様が結界の外ではあんまり強くないって知ってるし、ちょっと撤退したからって――」
「違う。儂では、ない」
どうして否定するのだろう?
九十九は不思議に思って、首を傾げる。だが、シロは九十九と目を合わそうとしなかった。
「儂では……ないのだ」
「でも、じゃあ誰が……?」
「それは」
シロが拳を握り締めたまま押し黙る。
沈黙。
なんとなく、それ以上、追及してはいけない気がした。
「なんで」
なのに、
「なんで、隠すんですか?」
聞いてはいけない。
そう感じながらも、九十九は答えを求めてしまった。
言ってしまった後に後悔したが、遅い。
「わたし、羨ましかった」
羨ましいと思った。
小夜子と蝶姫を見て、九十九は素直にそう思った。
「人以外の存在とも、あんな風にわかりあえてて……わたし、羨ましいって思いました。シロ様のこと、わかりたい。わたしのこと、わかってほしいって」
独善的で汚い感情だと思った。
――神である儂に、人の在り方を求めることは……酷ではないか?
きっと、一番理解していないのは九十九の方だ。
神と人は、その在り方が違う。九十九が望むようにわかりあうことなど、できないのかもしれない。小夜子たちが友として在れるのは、蝶姫が元は人の鬼だからだ。根本的にシロとは違う。
自分の尺度でしか物事を見られていない。
わかり合いたいはずなのに。
わかってる。
わかってるよ。
でも、
「なにを隠しているのか知りませんけど……わたし、シロ様のこと信じられないです」
「九十九」
「わたし、最低ですね。きっと、巫女に向いていないんです」
わかりあいたいと言いながら、相手のことを想っていないのは九十九の方ではないか。
きっと、隠しているのには理由がある。
でも、シロのことを信じて待ってあげられない。
「ごめんなさい。忘れてください」
顔を隠すように、九十九はシロに背を向ける。
そのまま逃げてしまおうと、磨き抜かれた廊下を走った。
「――――ッ!」
それは、予想外のことで。
九十九の身体は思いがけず、動きを止めた。
後ろから強い力で抱き締める腕に捕らえられて、それ以上前へ進めない。
「…………」
「…………」
痛い。ギリッと腕の骨が軋むくらい、痛い。
涙も出そうだった。
否、涙は痛いからではない。
シロの腕はいつだって温かい。
九十九を包むような神気が心地良くて、つい甘えたくなる。甘えても良いと思える。
たぶん、夫や恋人の温かさとは違う。
きっと、それは九十九がシロとの距離を感じる要因の一つで――シロにとっては当たり前の温かさ。
どんなに近くにいたって、シロは神様だから。
でも、今は違う……変。
いつもと、違う。
「すまぬ」
戸惑ったまま拒めずにいた九十九が声を発するより先に、シロが言った。締め上げるように抱き締められていた腕からスッと力が抜け、身体が自由になる。
闇の中へ独り放り出されたような感覚に陥りながら、九十九はゆっくりシロを見上げた。
「つい」
九十九が顔を見る前に、シロは踵を返した。
今度はシロの方が九十九から逃げようとしている。そう悟って、手を伸ばした。
「九十九が儂から離れるのが……嫌だっただけだ。気にするな。すまぬ」
藤色の羽織に手をかける。
だが、宙を掴むような感覚と共に、シロの姿が消えてしまう。霊体化して姿を隠したのだ。
手に残るのはシロの温かみを宿したままの羽織だけ。
「……気にするなって」
藤色の羽織は綿毛のように軽く、重量をまるで感じさせない。
「離れるのが嫌とか、気にするようなこと言って行かないでよ……」
いつもは割と平気なのに。
何故だか最後のセリフが気になって、顔面が赤く染まるのを感じる。それを隠すようにシロの羽織で顔を覆うと、ほのかな油揚げの香りが鼻孔をくすぐる。
第2章、ここで完結です。
第3章が書け次第、更新します。なにかありましたら、感想でも活動報告でもTwitterでも受け付けます。




