5.忍び寄る影。
道後公園に、ひっそりと祀られる神社がある。
その昔、そこには大蛇が住んでいた。
筍とりのお爺さんが、煙草で一服していたところ現れたとされている。木の根と間違えて吸い殻を捨てたのが、大蛇の胴体だったのだ。怒った大蛇は、お爺さんを丸呑みにしてしまったという。
大蛇は、お爺さんを呑み込んだあとも、村へおりて暴れたそうだ。次々と村人を丸呑みしていく大蛇を鎮めるために、人々は小さな神社を造ることにした。
そうやって、大蛇を神様として祀ったため、怒りはおさまったという。
これが岩崎神社の成り立ちだ。そして、祀られた大蛇は「ミイさん」と呼ばれている。
「ミイさん、粗茶にございます」
応接間に腰かけるミイさんに、九十九は煎茶の湯呑みを差し出した。新宮茶だ。四国中央市新宮町で、完全有機農法によって栽培される日本茶である。低温抽出しているので、苦みが少なく、甘みが引き立つ味わいだ。
「…………」
ミイさんは、ぼんやりとした表情で九十九に、コクリと頭をさげた。どうやら、あまり口数が多くないらしい。
「シロ様も、どうぞ」
テーブルを挟んで向かい側に座ったシロにも、九十九は煎茶を出した。
湯築屋の応接間は和室だが、革のソファとテーブルが用意されている。調度品もレトロな洋式で揃えていた。
「九十九が男を連れ込んだ……」
「語弊しかない言い方です。お客様ですよ」
シロが勝手に機嫌を悪くしているので、九十九は訂正しておく。
「わかっておる。それにしても、珍しい」
シロは煎茶をすすりながら、ミイさんを見据える。
「シロ様はお会いしたことがあるんですか?」
「まあ、傀儡だったが」
シロは湯築屋の外には出られない。結界外での行動は、動物の姿を借りた使い魔か、傀儡を介していた。
「あれ以上、人間を喰われては堪らぬからな。当時の巫女と共に、儂が鎮めた」
神話や伝承は、人々の間で正確に語り継がれているとは限らない。事実とは歪められているケースも往々にして存在している。
けれども、ミイさんの場合は伝承が正しいようだ。人間を丸呑みにしたなんて話は、今のミイさんからは想像もつかない。
「案ずるな」
密かに、九十九が身構えたのを悟ったのだろう。シロは安心させようと微笑してくれた。
ここは湯築屋だ。シロ以外の神様は神気が極端に制限される。好き放題はできない仕組みになっていた。
それに、恐ろしい側面を持った神様はミイさんだけではない。温厚そうな神様でも、荒々しい逸話を持っていたりする。日々の業務で、九十九だって慣れていた。
「湯築屋へのご来館は、初めてですよね?」
九十九の記憶が正しければ、ミイさんの名は湯築屋の来館名簿になかった。名前を知っているのは、立地が近いからである。
存外、そんなものだ。いわゆる、「ご近所様」は、なかなか湯築屋へいらっしゃらない。近すぎて、旅行気分にならないからだろう。道後の湯には神気を癒やす効果があるけれども、入浴は湯築屋でなくともいい。足湯や本館の浴場でも、同じ効果を得られる。
「そうだったかな」
ミイさんは、ゆっくりとした動作で腕を組んだ。
「そうかもしれない」
そして、遅れて九十九の言葉を肯定した。
とてもマイペース……のんびりとした性格のようだ。表情に乏しい気もするが、「ただぼんやりとしているだけ」にも感じる。
「ミイさんは、燈火ちゃんを助けてくださったんですか?」
「燈火……? 嗚呼、あの?」
九十九の問いに、ミイさんは首を傾げたが、ほどなくしてうなずく。やはり、燈火を何者かから助けたのは、ミイさんだったみたいだ。
ならば、燈火を追っていた影の正体も知っているのではないか。
「そのとき、他になにかいましたか? おかしな気配とか、存在とか……」
悪い妖なら、対処が必要だ。けれども、ミイさんは不思議そうにするばかりだった。
「他に? 彼処には、僕しかいなかった」
「本当ですか?」
「……間違いない」
ミイさんの話が本当なら、燈火をつけ狙う存在などなかった。勘違いだったということになる。
それなら、心配はまったく必要ないのだが……燈火の不安を取り除けば、すべて解決する。邪な存在など、ないほうがいいのだ。
「…………」
だが、ミイさんと九十九のやりとりを聞くシロは、険しい表情だった。明らかに、なにか引っかかっている。
「シロ様、なにか気になりますか?」
「いや……」
煮え切らない態度だ。
シロがこんな答え方をするのは……九十九は直感した。天之御中主神が関わっているときだ。
しかし、今回の件に天之御中主神が直接なにかしているとは考えにくい。あの神様は自らトラブルを起こすようなタイプではないと、九十九は理解している。
だったら、どうして?
「…………」
不意に、ミイさんが顔をあげた。
「ミイさん? どうされま――」
九十九が言い切る前に、ミイさんが白い光を放ちはじめる。みるみるうちに、身体が細くなり、形が変わっていくのを、九十九はながめていることしかできなかった。
ミイさんは、白い蛇の姿に変じる。かと思ったら、しゅるしゅるっと、すり抜けるような動作で、素早く部屋から出ていってしまった。
いったい、どうしたのだろう。九十九はミイさんのあとを追おうとする。
「使い魔が――」
立ちあがった九十九の背で、シロがなにかをつぶやいている。
「呑まれた」
使い魔が、呑まれた。
それって……。
九十九はギョッとして目を丸くする。
「燈火ちゃん……!」




