9.八尺瓊勾玉は、どこですか?
「ありがとう、シロ様」
引き絞った矢を放つ。
光の白矢は風を貫き、闇を集める瘴気の真ん中へ吸い込まれていく。渦を巻くような神気によって勢いを増した矢は、まっすぐに白い蟹を射抜いた。
「九十九?」
矢は堕神である蟹を貫いた。
だが、シロは眉を寄せて九十九を覗き込んだ。諫めるような響きを持っている。
九十九は自分のしたことを自覚しながら、サッと目を反らしてしまった。
「甘い」
「あ……」
ふわり。と、空気が揺れた。
シロが身を翻し、九十九から離れたのがわかった。とっさに手を伸ばしても、掴み取れたのは藤色の羽織だけ。
「我らは人に容赦はせぬ。故に、人も神に情けをかけるものではない……特に、自らの宿命を受け入れず、足掻く類の輩にはな。人にとっても、此れは害であろう?」
白い蟹の甲羅は割れ、ひびが入っている。しかし、ひびの間からドス黒い瘴気が溢れ続け、留まることを知らなかった。瘴気は霧のように、雲のように、大きく広がっていく。
九十九の放った矢は確かに堕神の外郭を貫いた。
だが、堕神たる核を壊すには至っていない。
「待って、シロ様……!」
九十九はシロを追って走る。
黒い瘴気が身体に纏わりつくが、構わず地を蹴った。
「堕ちたと言えど、神は神だ。此れを野放しにするつもりか?」
シロは振り返らずに、まっすぐ蟹の方へと跳躍した。シロが通った後は道筋のように瘴気が晴れ、清められていく。
その光景があまりに綺麗で……九十九は思わず歩みを止めた。
黒い瘴気を発する蟹にシロが触れる。
神――とは思えない。けたたましい獣のような声が響き渡った。
普段、お客様として接する神々の神聖さなど欠片もない。そこに在るのは、消滅から逃れようと足掻くただの「存在」だった。
元々持っていたであろう神気は消え失せ、鬼の力を変換した瘴気のみが暴走している。
ここで消しておかなければ、この猛獣は迷いなく人に牙を剥くだろう。
九十九は思わず目を現実から逃げるように、目を閉じた。
九十九はあの堕神を貫けなかった。
壊してしまうことを躊躇した。
――此れを野放しにするつもりか?
違う。
違う、違うんです!
「九十九。終わったぞ」
いつの間にか蹲っていた九十九の頭を、ポンと温かい手が撫でる。
いつもと同じ。
いつも通りの、温かい手だった。
「どうした?」
「いえ……ごめんなさい」
なにか言いたかった気がするが、言葉が出てこない。九十九は恐る恐る瞼を開けて、目の前に立つシロを見上げた。
琥珀の瞳にかかる睫毛が長くて、ドキリとするくらい綺麗だった。
黄昏色の空に映える銀の髪が蓮の香りを纏って揺れている。
「……そういえば、シロ様。なんで――」
「悪いが、刻限のようだ。寄り道せず、早く湯築屋へ帰って来るのだぞ」
「え? え?」
唐突に話を切り上げられてしまう。
藍色の空が揺らぎ、蓮の花が散っていく。無音であった空間に、少しずつさざ波の調べが流れ込んできた。
「はい、くるり。選手交代ですわ」
次の瞬間、シロが立っていた場所には、青銅の鏡を持った天照がいた。
天照の持った鏡にぼんやりと映り込んでいる自分の顔を見て、九十九は目を瞬かせる。
「へ?」
「良い反応です。ふふ」
「えーっと……今のは、天照様……?」
「いいえ、わたくしは外側にいましたから」
ちょっとよくわからない。
なんの変哲もない五色浜の景色の中で、九十九はポカンと口を開けていた。
「さて。用事は済みましたし、帰りましょうか。あとで草薙剣と一緒に、この八咫鏡も宅急便で送ってくださる?」
「は、はあ……え、八咫鏡? それ、八咫鏡なんですか!? しかも、やっぱり、宅急便で送るんです? いいんですか!?」
「だって、わたくしが持っていくと怒られてしまいますし……便利な世の中になったのです。活用しない手はございません。違います? 最近はスマートフォンで追跡も出来るし、安心です」
「いやいやいや、全然安心できませんから!?」
八咫鏡も言わずと知れた三種の神器の一つだ。
それを宅急便で送れと言い渡され、九十九は目が回りそうだった。美術品や骨董品の移送と言えば、厳重に梱包して細心の注意を払うものだ。
いいのか、宅急便で。三種の神器を宅急便で送って大丈夫なの!?
あとで登季子に相談しよう。
「この鏡は、わたくしを映した分身のようなもの。わたくしが太陽ならば、この鏡は月と言えましょう――でもね、ここに映るのはわたくしだけではないのよ」
八咫鏡は天照の分身を作り出すもの――しかし、対象は天照に限らない。
「じゃあ、さっきのシロ様って……」
「八咫鏡で映した稲荷神とその結界です。あれは、正確には稲荷神自身ではありません。しかし、稲荷神と同じ存在。と言っても、誰にでも使えるわけでもなく、ある程度の神格が必要です。普段の変身とは別の術だと思ってください」
シロは結界を維持するために、外界へ出ることができない。だから、八咫鏡を使ってその力を分身として切り取り、離れた場所に結界ごと出現させるという手段を取ったのだと理解した。
何故、わざわざそんな面倒なことを。
天照が同行しているのだ。彼女が(少々オーバーキルだと思うが)草薙剣で薙ぐことだってできたはずだ。
「やっぱり、あれはシロ様だったんですね」
はじめに五色浜へ来たとき、使い魔を通じて九十九を助けたのは、やはりシロだったのだ。
結界の外では、シロはほとんど力を発揮することができない。九十九を守り、撤退するのが精いっぱいだっただろう。
「愛し巫女を庇護するのも、神の務めですからね。きっと、意地があったのでしょう。それに、わたくしは本来、この地の瘴気に干渉するのは好ましくありません。一応、領域というものがありますから」
「すみません。付き合わせてしまって」
「いいのです。ずっとDVDばかり見ていて、そろそろ外で遊びたかった頃合いですので」
だったら、そろそろ八咫鏡を持って伊勢神宮に帰ればいいのに、とは言い出せず、九十九は曖昧に笑った。助けてもらったことには変わりないので、文句は言えない。第一、彼女はお客様だ。
「さて、若女将。そろそろ帰りましょうか。今から電車に乗れば、夕餉の支度に間に合いましてよ」
「そうですね。帰りましょうか」
「今日は、じゃこ天をお願いします」
「はい……」
「ああ、でも……」
天照は華奢な身体を、くるりと翻す。
「お客様がおいでになっているようですわよ?」
天照が振り返った先。
五色浜の白い海岸沿いにコンクリートの堤防が続いている。
その先に立つ、見覚えのある制服。
紺色のスカートに、首元が広めに開いた半袖ブラウス。臙脂のネクタイが遠くから、よく映えた。
九十九の学校の制服だった。
「朝倉、さん……?」
堤防沿いにこちらへ歩いているのは、同じクラスの朝倉小夜子。
そういえば、彼女は学校で九十九に向かって「白い蟹を見つけたら、教えてね」と言っていた。
まるで、五色浜に棲みつく堕神について知っていたかのようではないか。
「あれは――」
潮風に混じって流れ込んでくる神気、いや、瘴気?
神気と瘴気の入り混じった気配を感じる。
「鬼ですわね」
今更ながら、小夜子の背後を歩く人物に気がついた。
蝶の模様をあしらった十二単。
遠くからでもわかるほど美しい装いの姫君だった。だが、その顔は鬼の能面によって覆われており、見ることができない。
小夜子が連れる鬼の存在を、九十九はしばらく見つめ続けた。




