3.調子は平気です!たぶん!
湯築屋は道後温泉街の一画にある宿屋だ。
外から見ると、木造平屋でなんの変哲もない建物。しかし、門を潜って内側へ入ると、景色が一変する。
晴れていた青空は、藍色に染まった。乾燥して肌を刺す冬の寒さも、どこかへ消えてしまう。九十九は暑くなってくる前に、マフラーを外した。
ここは、結界によって外界と切り離された空間だ。四季がなく、気温も基本的に一定である。藍色の空には、月も星も存在せず、朝陽が昇ることもない。
本来は、なにもない虚無の世界だ。
しかし、ここには湯築屋がある。
九十九の前に、木造三階建ての近代和風建築が現れた。窓には色とりどりの、ぎやまん硝子が嵌まっており、中の明かりがぼんやりと透けている。障子には花札の柄が浮かんでいて風流でもあった。
湯築屋の結界に季節は関係ない。だが、庭には木が植えられ、花も咲いていた。現在は赤いシクラメンが、華やかに景色を彩っている。これらはすべて、幻だ。宿を訪れるお客様が、この湯築屋でも四季を感じられるように、シロが作り出した幻影である。
九十九は美しい幻の庭を横切って、勝手口へと回った。
「ただいまー」
九十九は勝手口から入るなり、グレーのロングコートを脱いだ。さすがに、暑い。庭を歩く間に、ちょっとばかり汗をかいてしまった。いつも春のようにぽかぽか暖かいのも考えものだ。
「おかえり、つーちゃん」
出迎えてくれた声に、九十九はパッと顔をあげる。
「あ! お母さん!」
湯築登季子。湯築屋の女将でありながら、海外営業を担当している。湯築屋へは、滅多に帰ってこないため、久しぶりの再会であった。
登季子はしっとりとした檜皮色の着物をまとっている。いつも活発な印象の私服が多いのだが、これは湯築屋で働くときの装い……つまり、
「……お母さん。いいえ、女将。またメールを忘れていましたね?」
わざとていねいに問うと、登季子は「あっはっはっ!」と開き直るように笑い声をあげた。いや、笑いごとじゃないんだってば。誤魔化されないんだからね。
「そうかも!」
「それなりに準備するんだから、連絡忘れないでって、いつも言ってるよね!?」
ここまで、通常運行。
登季子は海外営業をしており、お客様を湯築屋へ連れ帰る。だが、たまに……いや、頻繁に事前連絡を忘れてしまうのだ。
と言っても、湯築屋のお客様には予約客が少ない。だいたい飛び込みのお客様なので、やることはあまり変わらなかった。大きな問題はないはずだ……だからこそ、登季子は忘れるのだと思う。
「今回は、どちら様をお連れしたんですか」
「アフロディーテ様お一人だよ。今、お部屋でお着替え中さ」
ギリシャ神話のオリュンポス十二神。愛の女神と称される神様だ。湯築屋の常連客の一柱で、九十九もよく知っている。いつもは、ペアで宿泊するのだが、お一人の宿泊とは珍しい。
「だったら、わたしが接客を代わります。帰国したばかりで疲れているでしょうから、女将は休んでいてください」
「そんな気をつかわなくていいんだよ。あたしがやっておくから、つーちゃんこそ、ゆっくりしておいで」
「でも」
九十九は湯築屋の若女将だ。お客様のお世話は、九十九の責任である。
「せっかく、女将がいるんだ。この機会に、若女将は休んでいいんじゃないのかい?」
登季子は女将なのに、普段は湯築屋にいない。こういう機会でなければ、若女将に休む時間はない、と言われているのだろう。
実際、登季子の言うとおりだ。けれども、登季子だって家に帰ったときくらい休むべきではないか。反論しようと、九十九は前に出る。
「そうだ、そうだ。九十九は儂とイチャイチャして休むべきなのだ」
休息の譲りあいをする親子の間に、割って入る者があった。
どこから、わいて出てきたのやら。いつの間にか、九十九の隣に紫色の着流しが見えた。
絹糸のように滑らかで、サラリとした長い白髪。頭の上には、狐の耳がぴょこりと動き、背後の尻尾がモフリと揺れている。九十九の両肩にのった手は、たくましいけれども美しくて、一見では男とも女とも断定できない艶があった。
「シロ様……ご冗談もほどほどにしてください」
九十九は呆れてため息をつきながら、シロの手をペッペッと払った。その様子を、登季子がクスクスと笑いながら見ているので、居心地悪い。
「あたしはお邪魔みたいだし、退散するよ。シロ様もそう言ってることだし、つーちゃんはゆっくりしておいで」
「あ、ちょっと。女将! お、お母さん!」
さっさと手をふりながら歩いていく登季子に、九十九は手を伸ばした。なぜだか、負けた気分になる。
「九十九は、儂と来るのだ」
伸ばした九十九の手を、そっとシロがとった。自然な動作でにぎられて、九十九はどきりとしてしまう。声が裏返り、「ひゃ!?」などと漏れた。
「来るって、ど、どこです」
いつも通りに受け答えしようとするが、動揺を隠せない。シロのスキンシップなんて、今にはじまった行為ではないのに。
――よくシロ様は我慢できるよね……神様だから?
不意に、頭を燈火の言葉が過った。
九十九はどうして、逃げてしまうのだろう。
だって、九十九はシロが好きで……シロも、こうやって九十九に触れてくれる。誰にも渡したくないと、言ってくれる。一緒にいたいと、抱きしめてくれる。
逃げる理由、ないよね。
頭では理解しているし、九十九だって嫌じゃない。
シロに触られるのは嬉しい……気がする。それ以上に、気が動転して頭が爆発しそうになるのだ。心臓もバクバクと鳴って、寿命が急速に縮んでいく気がした。
ただ恥ずかしいだけ?
考えるだけで、頭がクラクラとしてくる。
「むむ。九十九、どうした?」
九十九の様子がおかしいと気づき、シロが顔をのぞき込む。神秘的な琥珀色の瞳が、すぐそこまで迫ってきた。なんでもない動作なのに、それすらも、息を呑むほど美しい。
シロの肩からこぼれ落ちた髪が、九十九の頬に触れた。
「い、いや、そのぉ……」
九十九はシロから目をそらせず、しどろもどろと受け答えする。
「様子が変だ」
「い、いつも通りですよ!」
虚勢を張るが、シロは「ふむ」と顎をなでて考えはじめた。
「いつもならば、ここらで一発殴られるのだが」
「ぐ……」
お決まりパターンだった。たしかに、いつもの流れなら、ここでガラ空きになったシロの顎にアッパーを入れる。
「わたしだって、いつも、そんなに暴力的じゃ……ないですよ……」
「どこか具合が悪いのならば、なおさら休んだほうがよいな」
「いや、体調が悪いわけでは……」
「遠慮はよくない」
あれ、これ。割とマトモに心配されているのでは?
普段の九十九が暴力的だと言われている気がして癪だが、ちょっと申し訳なくもなる。まったくもって、体調面は良好だし、働く気も満々なのに。
「へ……!?」
九十九が戸惑っていると、身体がヒョイと浮きあがる。
シロが九十九を抱きあげていた。お姫様抱っこで。
「な、な、なに、やってるんですか!」
「床へ運んでやろうと思って」
「いいです! そこまでは、いいです! 結構ですってば!」
「暴れると落ちるぞ」
と、言いながらも、シロの腕は力強く九十九を支えている。
何度も拒もうと、手が出かけるが……そのたびに、燈火から言われたことが気になってしまう。寂しげなシロの顔まで重なってきて、身体からどんどん力が抜けていく。
ふわっと、風が吹き抜ける感覚。
気がつくと、九十九は母屋の私室にいた。すでに布団が敷いてあり、いつでも寝られる状態だ。
雛鳥を巣へ戻すように優しい手つきで、シロは九十九を布団のうえにおろした。
な、なんか……シロ様、すごく優しい……。
本当に心配されていると実感して、居たたまれなくなる。
「えっと……ありがとうございます……」
九十九は萎むような声で告げる。
すると、シロはますます九十九の顔をのぞき込んできた。両手で頬に触れ、まっすぐに見つめてくる。
どんどん顔が近づいてきて、額と額が触れてしまった。
「ふむ……熱はないのに、やはり九十九が変だ」
シロが目を伏せると、まつげの動きがよくわかる。それくら、お互いの距離は近づいていた。
「普段であれば、ここでまた殴られるはず」
「いや、そう……かもしれませんけど……」
なにその心配の仕方。九十九は苦笑いした。
シロは、喫茶店で九十九たちの会話を盗み聞きしていなかったのだと思う。九十九がそう言ったので、守ってくれたのだ。だから、理由がわかっていない。
「九十九の元気がないと、儂も調子が出ぬ」
元気の基準が拳なのも、おかしな話だけど。
「シロ様。本当になんでもないので……大丈夫です」
「添い寝すれば元気になるか? それとも、接吻か? 案ずるな。儂のガードはいつでもガラ空きだ」
「もしかして、殴られたいんですか?」
「よいぞ」
「え? 殴られたいんです?」
どうぞ。と、言わんばかりにシロが両手を広げてきた。なにこの状況。ちょっと思ってたのと違うんですけど。めんどくさい。めんどくさ!
九十九の困惑を余所に、シロはなぜか得意げだった。
「まるで、わたしがシロ様を殴るのが趣味かなにかみたいな……」
「そこまでは言っておらぬ。スキンシップの一種であろう?」
え、そうなの? そうじゃなくない!?
「ツンデレ、というのであろう? 天照が言っておった」
あまりに堂々と言い放たれて、九十九はポカンと口を開ける。
「天照様、また変なこと教えてる……」
もっとマトモなことを教わってほしい。九十九は額に手を当てて天を仰いだ。わたし、妙な誤解されてるぅ……。
「儂は心の広い夫だからな。九十九からの愛であれば、どのような形で受け入れる」
「言ってることはもっともらしいのに、内容は実にくだらないんですが、それでも神様なんですかっ!? いい加減、学習していただけませんかねぇ!?」
九十九は、ついつい声を張りあげてしまう。すると、シロはパァッと表情を明るくした。
「九十九に元気が戻ってきた!」
「そろそろ、黙ってくれますか!?」
もうここまで来ると、猫を被る気などサラサラなかった。一人で悩んだのが馬鹿みたいだ。九十九は嬉しそうに畳を叩いているシロの尻尾をつかまえて、「えいっ!」と引っ張ってやった。
「あひぃん!」
シロは犬っぽい声をあげながら、身体を飛び跳ねさせる。尻尾を引っ張るのが、一番効く。あと、掃除機で吸うのも有効だ。
だが、九十九に尻尾をつかまれて、シロはどことなく嬉しそうで……元気がないと思われていたので、そういう意味はないと理解しつつも……そういう意味に見えてきてしまうから、あまりよろしくない。
「九十九が元気になった」
「あー、はいはい。ありがとうございます」
なんだかんだ、通常運行が一番みたいだ。九十九は雑に答えながら、息をつく。
ふと、首からさがった肌守りが視界に入る。
お姫様抱っこなんてされたものだから、服の下につけていたお守りが出てきてしまったようだ。いつも首飾りにして身につけている。
一つは、紺色の肌守り。幼いころから、ずっと身につけており、守りの盾を呼び出す術を使用できる。シロの髪をおさめていた。
もう一つは、純白の肌守り。
こちらは、天之御中主神から授かった。
天之御中主神とシロは表裏の存在だ。もとは神使であったシロが、神様となったのは、天之御中主神と融合した存在だから。二柱は同じであり、別の存在でもある。成り立ちそのものが特殊だった。
シロの巫女である九十九にも、天之御中主神の影響が及んでいる。
九十九に宿る神気の特性に変化が生じていた。引の力――引き寄せる性質を持った神気が顕れている。
力を借りるのではない。神様の力を引き寄せて、自分のものとする――そのせいで、八股榎大明神のお袖さんにも、迷惑をかけてしまった。
天之御中主神が授けてくれた肌守りには、九十九の髪が入っている。天之御中主神の影響で神気に変化が生じたが、これは紛れもなく九十九の力だ。純白の肌守りは、九十九自身がきちんと力を制御するために与えられた。
あれから、暴走は見られない。九十九が作る力の結晶も、無色透明を保っていた。
「シロ様」
「どうした?」
九十九は、肌守りを両手でにぎりしめながら、シロの名を呼んだ。シロは何気ない表情で、九十九の目を見る。
「天之御中主神様と……一度、お話ししませんか?」
途端、シロの顔が曇った。眉根を寄せ、困惑している。そして、はっきりとした嫌悪感も感じとれた。
シロは天之御中主神が嫌いだ。同一の存在なのに……いや、同一の存在であるのを嫌がっている。
それは、神様然とした天之御中主神の態度や言動によるものだが、九十九には二柱は対話が足りないのではないかと感じられた。
ずっと続いてきた関係だ。いまさら、改善されても意味はないかもしれない。改善するとも限らなかった。
だが、九十九はこのままではいけないと思っている。
シロが天之御中主神を嫌う。それは、シロが自身を好きになれないということだ。
神様として、この先も何百年、何千年……気の遠くなる時間を過ごすのに、自分のことが嫌いだなんて、あまりに寂しいではないか。
九十九は人間だ。シロと同じ時間を生きられない。
だから、九十九にできるのは……シロがこの先、少しでも幸福でいてくれる手伝いだ。これが正解かどうかはわからないが、今はそう思っている。
「…………」
シロはあからさまに口を曲げて、黙ったままだ。九十九の提案に、なにも答えてくれない。
「お嫌、ですよね……?」
聞かずともわかっているが、九十九は確認してみる。
シロは口を閉ざして、なにも言わない。
九十九の提案意図を、たぶんわかっている。だからこそ、拒否せずに黙しているのだ。けれども、肯定もできない。
「考えておいてください。今すぐじゃなくて、大丈夫なので」
九十九はそう言いながら、シロの着物の袖をつかんだ。すがりつくみたいな格好になってしまうが、あまり体重はかけないようにする。
シロは、なにも答えない。
九十九からも、顔をそらしてしまった。
「……考える」
やがて、聞き漏らしそうな声で、返事がある。
か細く頼りない。
でも、九十九を不安にさせまいとしているのは、なんとなく伝わってきた。




