2.でも、結婚してるんでしょ?
という話を聞かされて、九十九は目をパチパチと瞬かせた。
「湯築さん、あの神様の名前……わかる?」
燈火はもじもじとしながら、向かいの席に座っている。初めて来るお店だと、だいたい彼女は落ち着かない様子なので、慣れた光景だ。
燈火の話には嘘はないと思う。おそらく、本当に身の危険を感じるような「なにか」に出会い、そして、助けてもらったのだろう。
しかし、九十九の記憶には、燈火の言ったような見目の神様は思い当たらない。
中性的な雰囲気の神様と言えば、シロや火除け地蔵が浮かぶものの……地面につくほど長い灰色の髪や、縦に長い瞳孔……合致する神様に覚えがなかった。
九十九の会ったことがない神様。つまり、湯築屋のお客様ではない。あるいは、九十九が生まれてから、湯築屋を訪れていないだけか。
「せめて、お名前があったら、うちのお客様かわかるんだけど……」
人間の寿命は短い。常連のお客様であっても、一人の従業員が生きている間に、何度も訪れてくれるとは限らなかった。そのため、湯築屋では昔から名簿でお客様の名前が管理されている。九十九はそのすべてを暗記していた。
「なにも言わずに消えちゃったんだよね……」
燈火は、シュンと肩をさげて落ち込む。
そもそも、本当に神様だったのだろうか。
燈火に神様や妖の知識を教えているのは九十九だ。燈火は、人ならざる存在を見る力を持っているが、たしかではない。善悪の区別もはっきりとつかないことが多かった。
だからと言って、燈火の勘違いだとも思わない。彼女が身の危険を感じるほどの存在は、おそらくいた。そして、それを退けた「白い神様」も。本当に神様かどうかは置いて、きっと話自体に嘘はない。
「堕神や、悪さをする妖かもしれないし……燈火ちゃんが心配かも」
夜、燈火をつけ狙っていた存在が気になる。「白い神様」は、たまたま通りがかっただけかもしれない。次も燈火を守ってくれるとは限らなかった。
誰か一緒にいてあげたほうが、いいかもしれない――。
そのとき、視界の端を白い影が横切る。
古い内装の喫茶店は、道後温泉街のハイカラ通りに面していた。開きっぱなしの扉から、一匹の猫が店内に入り込んできたのだ。
ふさふさの白い毛をまとった猫は、堂々とした態度で店内を歩く。そして、当たり前のように、ソファ席に座った隣に飛びのった。前脚をチョンと揃え、顔をあげる姿は可愛らしいが、憮然としていて一種の不貞不貞しさも感じる。
「儂を呼んだか」
燈火が口をあんぐり開けたまま、白い猫を凝視している。なにせ、猫が人語を話したのだ……そういえば、まだ紹介していなかった。
「シロ様、いきなり出てきてしゃべらないでください!」
九十九は店の人に見つからないよう、シロのうえにマフラーを被せた。大判のストールにもなるあったかマフラーである。おかげで、白い猫の姿をすっぽりと覆い隠すことができた。
「あはは……燈火ちゃん。これは、その……うちの神様です」
どんな説明の仕方だ。と、自分でも思った。
稲荷神白夜命は、湯築屋のオーナーであり神様だ。元々のルーツを辿ると神様ではなく、神使なのだが……細かい説明は燈火にしなくていいだろう。
今は猫の姿をしているが、これはただの使い魔である。本体であるシロは、湯築屋の結界から外に出られない。普段はこうやって、使い魔や傀儡を操って、九十九をストーカー、ではなく、見守ってくれている。
「九十九に呼ばれた気がしたのだが」
「シロ様のことは呼んでませんけど……」
「なに。今の流れは、儂に相談する感じではなかったのか。儂、こうしてスタンバイしておるのだぞ」
「スタンバイどころか、フライングじゃないですか!」
マフラーの下で、猫が白い尾をふっている。
たしかに、誰か見守ってくれたら安心だと思った。だが、パッと最初に思いついたのは、燈火と顔見知りの火除け地蔵や、自宅付近に祀られている義農作兵衛などの面々に注意を呼びかけることだ。
「燈火ちゃんをおねがいしても、いいんですか?」
「九十九の頼みだからな」
シロの使い魔は、当然のように顎をあげてふんぞり返った。猫の姿なので可愛らしいが、湯築屋で実物も得意げなのを想像すると、ちょっとばかり憎たらしい。
トントン拍子に決まってしまったが、やや腑に落ちなかった。
シロはとにかく九十九を甘やかすし、独占したがる。使い魔で四六時中見守っているのだって、九十九を大切にしてくれているからだ。なのに、今回はすんなりと燈火の見守りを自分から買って出た。
なにかありそう……。
しかし、それは今、問い詰める事柄ではない。
「え、えっと……その……?」
燈火は、話に置いていかれている。目を瞬かせながら、九十九とシロの使い魔を交互に見据えていた。
「儂が九十九のご主人様である」
「言い方! シロ様、言い方! 変です!」
誤解されるような自己紹介をされ、九十九はマフラー越しにシロを押さえた。
燈火には、何柱かの神様を紹介したが、シロはまだである。話せる範囲で、九十九は燈火に説明した。
「つまり、その猫……じゃなくて、神様がボクを守ってくれるの?」
「そうしてくれるってさ。他の神様にも、わたし声かけてみるから安心だよ」
ようやく、燈火の顔に安堵の色が浮かんだ。よほど怖かったのだろう。今朝から、燈火はずっと不安そうな顔をしていた。
「あと、もしかして……」
つけ加えるように、燈火はもじもじと九十九の顔色をうかがう。
「その神様が、その……湯築さんの旦那さん……なの……?」
言いながら、燈火は声を小さく窄めていった。顔どころか、耳まで赤い。そして、質問された九十九まで恥ずかしくて、顔が熱くなってきた。
「な、な、な、ななななな、なんで……?」
「だ、だ、だだだだ、だだ、だって、前にお袖さんが……湯築さん、結婚してるって……」
以前、燈火は八股榎大明神のお袖さんに会っている。そのとき、ポロッとお袖さんが漏らした言葉を気にしていたのだろう。九十九としては、誤魔化したつもりだったのに、掘り返されて恥ずかしい。
「シ、シロ様、あっち行ってもらえませんか……」
「む。何故? これから、九十九が儂の素晴らしさを語る流れであろう?」
「そ、そ、そんなもの語りませんよ!」
「そんなもの……だと……!?」
シロがいると気まずすぎる。九十九は退席をうながしたが、シロは居座るつもりだ。
「恥ずかしいから、向こう行ってください。盗み聞きも禁止です――店員さーん! 猫ちゃんが入ってきちゃいました!」
強硬手段として、九十九は喫茶店の店員に声をかけた。
使い魔は普通の動物のふりをしている。九十九が声をかけたことで、店員が猫に気がついた。シロは
「ぐぬぬ……」と、うなりながら店内から退散していく。
「で。湯築さん……」
シロがいなくなったところで、急に燈火が前のめりになった。両手をテーブルにのせ、興味津々の様子だ。思わず、九十九は身体をうしろに引いてしまう。
い、嫌な予感が……。
「キスとかするの? その先は? 湯築さん、大人っぽいと思ってたんだよね……! やっぱり、神様って人と違うの? ねえ、どんな感じなの?」
すごい勢いで捲し立てられて、九十九は顔を両手で覆った。
や、やっぱり、こういうヤツですか~!
「と、燈火ちゃん。落ち着いて。ステイ、ステイ」
自分にも言い聞かせるつもりで、九十九は燈火を宥める。
「シロ様とは、そんなんじゃないし……」
視線の先が定まらないまま、九十九はお冷やを一気飲みした。冷たい水が食道から胃に流れ込んでいく感覚は、少しだけ気分を落ち着けてくれる。
「でも、結婚してるんでしょ……?」
「そ、そうだけどぉ……そうなんだけど……うん……キスだけ……」
消えそうな声でつぶやくと、燈火は不思議そうに首を傾げた。
「それだけ?」
「そ、それ以上は、ちょ、ちょ、ちょちょちょっと!」
九十九はシロの巫女であり、妻だ。
けれども、それは湯築家の掟であって、結婚にお互いの意思は介在していない。あくまでも、湯築の巫女とシロはビジネスライクな関係なのだ。
だから、九十九にはシロと夫婦という感覚が、最近までなかった。祝言は物心つかないうちに挙げたので覚えていない。ずっと、「ちょっとスキンシップの多い同居人」みたいな感覚だったのだ。
それでも、九十九はシロを好きになってしまった。
シロも、九十九を好きになったと言ってくれた。
湯築屋の成り立ちや、シロの秘密も知った。
あれから――まだ一年も経っていない。
九十九にとって、シロとちゃんとした夫婦になったのは、最近の話なのだ。少なくとも、九十九にとっては……。
「もう半年は経つんだよね……?」
「ま、まあ……」
「よくシロ様は我慢できるよね……神様だから?」
燈火の何気ない一言に、九十九は頭を殴られた気がした。
九十九はいつも、シロから逃げてばかりだ。シロが過剰にスキンシップをとろうとしても、理由をつけて逃げている。
九十九はシロを好きになったのに。
他の巫女に嫉妬して、誰よりも一番になりたいと思ったのに。
なのに、肝心なことから逃げている。
「あ、ごめん……なんかちょっと、言い過ぎた……よね?」
九十九が暗い顔をしていたのだろう。燈火は不安そうに目をそらした。
「漫画とか、小説だと、そういうのすごく早かったから……ご、ごめん。ボク、カレシいないし、つい聞いてみたくって……」
「いいよ、燈火ちゃん。怒ってないから」
大学に入るまで、燈火にはあまり友達がいなかったらしい。対人関係が苦手なのは、九十九もよく知っていた。だから、怒ったりはしていない。
ただ、考えさせられた。
喫茶店の窓を見るが、シロの姿は見えない。どこかに隠れているのだと思う。おそらく、この会話も聞いている。
「お待たせしました」
気まずい沈黙が流れた頃合い、店員が注文の品を持ってきた。
黄色い薄焼き卵に包まれた、オムライスだ。最近主流のふわとろオムライスではなく、昔ながらの形である。いかにも「洋食屋さん」と言った雰囲気だ。
燈火はオムライスが来た瞬間、鞄から一眼レフのカメラを取り出す。この間、バイト代で買ったらしい。
「これ、すごくいい!」
燈火はオムライスに手をつける前に、いろんな角度からカメラを向けはじめる。横から、背景が映るようにしたり、真上から撮ったり、様々。そういえば、お店の外観もたくさん撮影していた。
「今どき、こんなレトロなお店も少ないから」
燈火の言うとおり、この喫茶店は古き良き昭和の時代を思わせる。ノスタルジックで懐かしい雰囲気があった。
ショーウインドウに食品サンプルが並ぶ外観や、タイル張りの壁面など、映画の中でしか見ない風景だった。
燈火いわく、「こういうのも、映える」ようだ。
「またSNS?」
「うん。これは、たぶんインスタよりツイッター映えしそう」
近ごろ、燈火のSNSはフォロワー数が急増中だった。複数のSNSを使いこなし、そのどれも非常に人気なのだとか。インフルエンサーと呼ぶのだろうか。こういうのは、九十九よりも、常連客の天照大神のほうが詳しい気がする。
「ネットだと、みんな……ボクがこんなんだって、知らないから……」
燈火は自信なさげに笑って、カメラを置いた。もう写真は気が済んだらしい。スプーンでオムライスを崩しはじめる。
「あ、でも……この前、一人身バレしちゃって」
「身バレ?」
「えっと、身内……知りあい、かな。アカウント持ってるのが、ボクだってバレちゃったんだよね……」
「それ、大丈夫なの?」
要するに、個人情報がバレたということだ。燈火は自分の顔を載せないみたいだが、行動範囲などでわかってしまったのだろう。ネットの怖いところだ。
「あ、ううん。心配ないよ……小学校のころの、同級生……」
「お友達? だったら、大丈夫かな?」
「友達というか、うん……友達かな。たぶん」
歯切れが悪かった。燈火はもじもじとしながら、オムライスをスプーンですくう。恥ずかしがっていると言うよりは、言葉を選んでいるようだ。
「前に、伊予万歳の話した、よね? クラスの子から馬鹿にされたって」
「うん」
覚えている。燈火は伝統芸能である伊予万歳を好きで踊っている。だが、クラスメイトから「ダサい」と言われたのをきっかけに、人前で踊りたくなくっていた。
「謝ってもらったんだ。浜中さん……あ、社会学科の子なんだけど……tokaがボクだって知って、あのときのこと、謝ってくれたんだよ……」
tokaは、燈火のアカウント名だ。九十九も一応、フォローしている。
お洒落な写真が多いが、地元の観光案内やPRの側面も強いアカウントだ。九十九と一緒に松山のお店や名所を回るうちに、「自分でも発信したい」と思ってくれたらしい。
「よかったね!」
「うん」
伊予万歳について、燈火はもう吹っ切れている。しかし、昔のクラスメイトと仲よくできたなら、素晴らしいと思った。
「SNSのおかげだけど……」
「そんなことない。燈火ちゃんが一生懸命だからだよ」
燈火は不器用で自信がないだけで、すごいのだ。少々周りが見えない面もあるが、一途であきらめない心がある。
九十九に褒められて、燈火は照れた様子だった。
嬉しそう笑いながらオムライスを食べる燈火は、九十九にとってはキラキラと輝いて見える。
もっと、燈火が自信を持てるようになればいい。
そう思った。




