7.おかえりなさい。
今日は十五夜だ。
もう少ししたら、秋祭りで神輿の鉢合わせがある。
秋を意識させるように、湯築屋の庭には色とりどりのコスモスがゆらゆら揺れていた。だが、風もなく、虫の音も聞こえない。赤やピンク、白の花が庭を埋め尽くしている。
縁側から九十九が空を見あげても、なにも見えなかった。
ただどこまでも続いていく藍色の空間があるだけ。暗いような、透き通っているような、よく見ると不思議な色合いでもあった。
結界の外では、中秋の名月が出ているだろう。お客様と従業員が何人か、月見団子を作って道後公園へ持って行っていた。今ごろは、楽しいお月見大会をしているはずだ。
九十九は――湯築屋にいる。
本当なら、お月見に行ったほうがいいと思う。公園でのお月見も、前々から九十九が企画したものなのだ。
でも、今日はここにいたかった。
「シロ様、おかえりなさい」
何者かが近づく気配がして、九十九は声を出した。相手の顔を見なくても名前が出てきたのは、本当に無意識だ。当然のように、そう呼んでしまった。
「…………」
返事がなかったので、九十九は視線を縁側から室内に移す。
琥珀色の双眸がこちらを見ていた。ガラス細工のように繊細で美しく、光源の少ない薄闇でもはっきりと浮きあがっている。
けれども、進み出て輪郭が浮きあがった髪の色は、墨色で。藤の着流しをまとった姿も、細身で華奢な印象を受けた。
九十九は立ちあがり、歩み寄る。
寂しくおろされた手を取って微笑む。
「シロ様、月見団子を食べましょう。わたしが丸めた分を、取り置いてますから」
縁側には、串に刺さった月見団子が用意されている。
九十九の言葉を受けて、ようやく――シロは九十九から視線を外した。
「まだ――」
「早く、こっち来てください」
有無を言わさず、九十九はシロの手を引いた。肩から墨色の髪が落ち、繋いだ九十九の手に触れる。
「シロ様を、待っていましたから」
天之御中主神が結界の外へ出ることによって損なわれた神気を完全に回復するには時間がかかる。シロがシロとしての形を取り戻すだけでも三日と聞いた。
だが、その意識が表側へ戻ってくるのには、せいぜい一日か二日である。
そう聞いていたので、九十九はずっとシロを待っていた。
シロが目覚めて、最初に声をかけるのは、九十九でありたかったからだ。
「九十九」
縁側へ連れて行こうとする九十九に対して、シロは気がのらない様子だった。戸惑い、一歩一歩が重くなっている。
シロの意識は戻ってきたが、姿は天之御中主神と変わりなかった。そのせいか、シロは九十九に触れられるのを嫌がっている素振りを見せる。九十九の手を軽く振り払おうとしていた。
「月見団子を食べましょう。あとで、湯浴みのお手伝いもします」
けれども、九十九は両手でしっかりと、その手をにぎる。
「わたしは人ですから。神様みたいに本質とか、真理とか、よくわからないです。見た目や表面上の性格で、相手を判断しがちなのも否定できません。だから、わたしがいくら言っても重みはないと思いますけど……シロ様を、間違えたりしません」
しっかりと、琥珀色の目を見据えながら九十九は力強く言った。
九十九は、ちゃんとシロをシロだと思っている。不意に表裏が変わると戸惑うこともあるが、今までだって、彼を天之御中主神と間違えていない。
大丈夫。
シロ様は、シロ様だから。
シロは九十九に、その一面を見られるのを嫌がる。
でも、それもシロの一部だと、今は思うのだ。天之御中主神も稲荷神白夜命も別々であり、違う神様だけど……その在り方も含めて、九十九は目の前にいるシロを受け入れたいと思っている。
「……すまない。待たせてしまったな」
やっと、シロの足どりが軽くなった。
九十九に導かれて、縁側に隣同士並んで座る。間には、月見団子のお皿をはさんで。
「シロ様。助けてくださって、ありがとうございます」
伝えたかった。シロが帰ってきたら、一番に言おうと思っていた。
「否。儂はなにも――」
「わたしは、シロ様に救ってもらったんです」
もちろん、天之御中主神にも。
シロの意思がなければ、天之御中主神が結界を出られないのだ。シロの下した判断は間違っていないと思う。
痛みは伴った。
しかし、マイナスではないと思いたい。
「今日は、みんな外へお月見に行っているんです」
「そうか」
元気に言ってみるが、シロはまだぎこちない様子だった。
九十九は串に刺さった月見団子を持ちあげる。つぶあんがたっぷりかかった串団子だ。しかし、その一つからあんこを丁寧に落とし、串からていねいに外す。
「ほら、月です」
指でつまみあげた団子を、宙に向ける。
空に浮かぶ月に見えるように。
あまり行儀がよろしくないし、子供騙しで、月にはほど遠い。
「月か」
「月です。今日の月は美味しいんです」
I love you.を、『月が綺麗ですね』と訳した文豪がいるという話。諸説あって定かではないが、国語の時間で聞いた。
どういう意味かと考えて、九十九は「シロと同じものを見て、同じ感想を抱いてみたい」と思ったのだ。
同じものを同じ感性で、「綺麗ですね」と言える関係になりたい。
そういう告白だ、と。
だから、「今日の月は美味しい」でも、いいような気がした。シロと一緒に月を見るのは叶わないけれど、月見団子を一緒に食べるのはできる。
それでも、シロは嫌がるだろうか。
シロは月が嫌いなのだと思う。
月子が亡くなった夜を思い出してしまうから。あのときの月の美しさは、シロの記憶で鮮明に焼きついているのだ。
だから、お月見もしたがらない。
「そうか……そうだな。今日の月は美味だな」
シロが、やっと笑ってくれた。皿から月見団子を手に取り、一つ口に含む。九十九と同じく、団子を月と呼び、美味と評する。
それだけで胸がいっぱいになりそうだった。
不意に、湯築屋の中に風が吹く。
結界に風は存在しない。だが、九十九は突然吹いた風に、目を閉じてしまった。




