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5.そうなっただけの話さ。

 

 

 

「ふむふむ。ここが湯築屋さんか。なるほど、なるほど。こんなに近いのに、初めて来たよ。興味深いね。観察し甲斐があるね」


 湯築屋へ運ばれてきたときには、ぐったりしていたお袖さんだが、翌日には、このようなことを言いながら、湯築屋を歩き回っていた。

 変化したときの、スラリとモデルみたいな美人ではなく、丸みを帯びた小さな狸姿だ。まだ変化できるほどの力は回復していないらしい。

 お袖さんは化け狸が信仰を集め、神となった存在だ。隠神刑部なども似ているのだが、そのような成り立ちをしていると、神気と妖力の両方を使えるらしい。神気が消耗していても、妖としての力で動けるので、ちょっと便利な体質だった。


「お袖さん、寝ていたほうがいいんじゃないでしょうか」


 とはいえ、お袖さんの神気はほとんど回復していない。湯につかり、安静にしていたほうがいいはずだ。

 廊下でばったりと会った九十九は、苦笑いで提案した。

 しかし、お袖さんは九十九の言葉など聞き流して、楽しそうに庭のほうを見物している。忙しない。


「だって、楽しいじゃないか。いやあ、近いからいつでも来られると思って、はや数百年。結局、こういう機会でもないと来ないものだよね。今のうちに満喫しておこうと思ってさ。なにせ、私はタダで泊めてもらえるって話だからね。ありがたい話だよ」


 お袖さんが神気を失った理由が理由なので、宿泊費はとれない。これは九十九の精一杯の計らいだった。

 楽しげに廊下を歩くお袖さんは、九十九のことなんてまるで気にしていない。以前となにも変わらなかった。


「あの、お袖さん……わたし、お袖さんに謝らなきゃいけないことがあるんです」

「ん? なんだい? だいたいの話は聞いたけど?」


 廊下に飾ってある壺の中に飛び込み、お袖さんは顔を出す。砥部焼とべやきの壺だ。それなりの重量と大きさなので、ちょっとやそっとでは倒れないが、九十九は思わず壺を手で押さえてしまう。


「すみません、お袖さん……わたしのせいで、こんな目に遭わせてしまって……」

「嗚呼、そのことか。なんだよ、改まって。いいんだよ。私は私で、こうやって現状を楽しんでいるんだから」


 お袖さんにとって、危ない目に遭ったことよりも、湯築屋の見学のほうが大事のようだ。好奇心旺盛で観察が好きなお袖さんらしいとも言える。


「それから、八股榎大明神にいた堕神ですが……」


 そう切り出すと、お袖さんの顔から初めて表情が消えた。


「残念だよ」


 たった一言、お袖さんはつぶやいた。

 様子から察するに、堕神の話は聞いていなかったのだと思う。あそこに堕神がいたのを知っているのは、お袖さんと九十九、そして、天之御中主神くらいだ。

 しかし、予感はしていた。

 お袖さんの態度は、状況を把握して、ゆっくり呑み込んでいるように感じる。


「わたしに、もっと力があればよかったんです」


 天之御中主神を説得する時間があれば。あるいは、止められたなら。

 けれども、お袖さんは首を横にふって微笑した。


「気にしなくていいよ。遅かれ早かれ、そうなっただけの話さ」

「でも」

「数週間が、一瞬になっただけのことだよ」


 お袖さんが寂しそうな表情を作ったのは、ほんの数秒だけだった。いつものように、饒舌に語りながらウインクしてみせる姿は、本当に彼女らしい仕草だ。だが、九十九にはそれが本意なのか判断できなかった。


「ただ、ちょっと嬉しかったよ」

「嬉しい?」

「そうさ。嬉しいさ」


 なんで? 九十九が首を傾げると、お袖さんは砥部焼の壺から外に飛び出た。壺がグラッと傾きそうだったので、九十九は慌てて押さえる。

 廊下に、二本のうしろ脚で降り立って、お袖さんは前脚を広げた。


「今まで、同居していたわけだけど、彼と私は意思疎通できたことがないからね。いや、彼なのか彼女なのか、よくわからないけれど。とにかく、こういうのは初めてだったわけさ」


 八股榎大明神にいた堕神は、ただそこに存在するだけだった。なにも起きない日々が過ぎ、消滅を待つのみ。


「私は同居人なんて呼んでいたが、実のところ、あちらはどう思っていたのか、まったく知らなかったわけだからね。初めてだよ。彼の意思のようなものが見えたのは」


 あの堕神は、お袖さんを守ろうとしていた。

 それまでは、お袖さんが一方的に「同居人」と読んでいた存在だったのだ。しかし、あのとき、初めて堕神のほうも、お袖さんと同じだったのではないかとわかった。実際に対話したわけではないので詳細はわからないが、少なくとも、お袖さんはそう思ったのだろう。九十九も、同意見だった。


「私が彼になにかを与えていたのだとしたら、それはとても好ましいと思うよ」


 九十九は、ぼんやりと去年の秋祭りを思い出す。

 八咫鏡を使って、堕神を神輿の鉢合わせへお連れした。九十九は、あのとき堕神に対して、充分なおもてなしができたのか不安だった。


 ――ありがとう。


 堕神が消える瞬間、聞こえたような気がしたのだ。

 九十九の空耳かもしれない。けれども、堕神――お客様は、そう告げて消滅していった。

 お袖さんと話しながら、一年前をふり返ると……九十九も、あのお客様に、なにかを与えられたのかもしれないと思えた。


「お袖さん、ありがとうございます」

「ん? どうしたんだい。なんで、急に君がお礼を言うの?」

「いえ、なんとなくです」

「変な子だな。だが、人から感謝されるのは嫌いじゃない。わけがわからないまま、気分よく受けとっておくよ」


 お袖さんは軽く声をあげて笑った。


「しかし、ふむふむ。神々が訪れる宿に勤める人間たち。うんうん、なかなかどうして興味深い人材揃いじゃないか。もちろん、君を含めて。見学すると、さらにいろいろわかって参考になるよ」


 お袖さんは足どり軽く、廊下を進んでいく。


「でも、寝ていたほうがいいですよ」

「性にあわないんだよ。これから、板前の顔を見に行くんだから」

「お父さん、いえ、料理長はですか」

「そうそう。私の見立てだと、優しい雰囲気の優男。もしくは、繊細な感性を持った女性なのだけれど。今の君との受け答えで、女性説が消えたね」


 お袖さんは、また勝手に人間の分析をはじめているようだ。おそらく、幸一の料理から、人となりを想像しているのだろう。優男かどうかはわからないが、幸一はたしかに優しい雰囲気だ。


「仲居頭の女性も、そうとうに面白そうだ。品がよく奥ゆかしい雰囲気だが、血のわき立つ強者つわものの空気もまとっている。彼女は武人じゃないか?」


「ええ、そのとおりですよ。碧さんは、とてもお強いんです」

「ふむふむ。いいね、面白いよ! きっと、彼女は人に言えない秘密を抱えている。おそらく、墓場まで持っていくつもりなのだろうね。とても、はかどるよ!」


 そろそろ、創作の部分が多くなってきたか。

 だが、お袖さんの分析は的を射ている。

 碧さんの秘密……なんだろう。たぶん、ないと思うんだけど?

 まあ、あまり深く気にする必要はないか。

 このあと、九十九はお袖さんにつきあって、湯築屋を案内した。

 

 

 

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