4.不器用。
九十九はどうすればわからなくて……自分で考えるのも嫌になって……言われるままに、目を開けた。
涙は不思議と出ていなくて、しかし、身体の震えで視界が揺れている。
天之御中主神が九十九の傍らに座っていた。やはり、その身体に男女の特徴はない。が、それゆえの言葉にできない美しさがある。
瞳は紫水晶と同じ色で。
九十九を見据える双眸には、わずかだが感情のようなものが読みとれた。
困ってる……?
今まで、天之御中主神からはっきりとした感情が伝わることがなかった。けれども、そこに浮かんだ色に、九十九は目を瞬かせる。
「天之御中主神様……困っていらっしゃるんですか、今?」
恐る恐る、問う。
『我が?』
天之御中主神がわずかに眉を寄せた。怪訝そうだ。困惑しているという自覚がなかったのか、しばし考えはじめる。
『なるほど。其方があまりに脆すぎて、なにを選ばせればよいのか思案はしておったの』
「それは、困ってるって言うと思います……たぶん」
弱いの次は脆いと評されて、若干傷つきはしたが。
ちょっとだけ緊張が解けてきた。
九十九は改めて、自分の両手を見おろす。
「天之御中主神様は、わたしの神気の特性に気がついていたんですか」
『無論。我の影響だからの』
シロよりも、天之御中主神のほうが早く九十九の変化に気づいていた。
「どうして、教えてくれなかったんですか」
シロは、天之御中主神に影響された九十九の変化を認めたくなかった。加えて、未知の部分が多く、九十九にはっきりと告げられなかったという。
でも、天之御中主神は違うはずだ。この神は、九十九の変化にも能力にも気づいており、シロのように黙っている必要もなかった。
天之御中主神は「ふむ」と、考え込む。
『教えなくとも、そのうち力は発現するではないか。実際、自力で檻から力を引き寄せたこともあった。まぐれではあったが、遅かれ早かれ、其方は自分で知ったはずだからの。我はその助力をすればよいと思ったのだが』
それで、能力を引き出しやすいように肌守りを授けた――。
落ち着いて天之御中主神の話を聞きながら、九十九は確信した。
「天之御中主神様って、申しあげにくいのですが……口下手ですね」
『…………』
天之御中主神の顔が、やや怒った気がした。口角がわずかにさがっている。だが、怒りで九十九を害するつもりはないらしい。九十九の話を聞き入れてくれている。
今まで、天之御中主神とゆっくり会話する機会などなかった。シロがすぐに入れ替わろうとするか、天之御中主神自身がすぐに裏側へ戻っていくからだ。
シロの過去を見たこともあり、九十九は今まで、天之御中主神について知った気分になっていた。しかし、実のところ、まともに対話していなかったのだ。
「わたしは、死にたくないです。弱くて脆いかもしれませんが、もう少しがんばれると思います」
『そうか』
とりあえず、先に示された選択に答える。そのころには、九十九の震えはおさまり、背筋を伸ばして天之御中主神を見られるようになっていた。尻餅をついて、濡れた着物が気持ち悪いと、思う余裕もできている。
「天之御中主神様は、わたしのお手伝いをしてくれていたんですね」
九十九がしっかりと力を使えるように。
肌守りを授けたのは、九十九が力を制御する必要があったからだ。天之御中主神が言ったように、九十九の能力は神から力を奪うものである。早めに制御できるに越したことはない。
言葉は足りていなかったと思う。九十九にとって必要な説明がすっぽりと抜けていた。けれども、天之御中主神にとっては「過程はどうであれ、結果的に九十九が能力を扱えればいい」のだ。それならば、不要であったかもしれない。
それなのに、天之御中主神は今回の件を「自らの過失」と評した。
天之御中主神が自分で判断して九十九に助力し、過失を認めている。今までの印象からは、考えられない行動だ。
そして、九十九には思い当たる節がある。
――身勝手じゃないかな。
――天之御中主神様はシロ様に役目を押しつけている気がします。
月子は天之御中主神の責任を指摘し、咎を負わせようとした。そうして、湯築屋の結界が創られたのだ。
九十九も、天之御中主神の怠慢を指摘している。
天之御中主神は神らしい考え方でありながら、指摘されるたびに受け入れているのではないか。
決して、この神様は非情などではない。
宇迦之御魂神も言っていた。天之御中主神は伊波礼毘古にも力を貸していた、と。時折、月子のように気に入った人間を見つけて問答もしていたらしい。
ただそこに存在するだけの神――だが、決して人間を見放したり、突き放したりしていない。
不器用なんだ。
こういう接し方しか、できないんだ。
そう理解すると、天之御中主神に対する見方が変わる。これまで、得体が知れないと思っていた相手の解像度があがり、より鮮明な人物、いや、神様として対峙できた。
今も天之御中主神は、どうすれば九十九が立ちなおるのかわからず、困惑しているのだ。わかってくると、いろいろな面が見えてくる。
『其方の安い理解など要らぬが』
口も悪い気がする。
九十九が苦笑いすると、天之御中主神は小さく息をついた。
『理解したなら、よい。どうせ、すべて些事だからの』
どうせ、些事だ。
いずれ、すべて元通りになる。
三日も経てば、道後の湯によって神気を回復させたシロが戻ってくるだろう。お袖さんも、時間をかけて湯治をすれば元気になる。
大きな変化はない。
天之御中主神はそう言うが、本当にそうだろうか。
「堕神は……消滅してしまったんでしょうか」
『其方も見たとおりだと思うが』
天之御中主神があっさりと述べるので、九十九は胸が締めつけられた。
「堕神を消さずに助けることは、できなかったのでしょうか」
『何故。その必要があったか』
「天之御中主神は知らなかったかもしれませんが、お袖さんは堕神を同居人と呼んでいました。堕神も、八股榎大明神の住人のようなものだったんです」
『だとしても、すぐに消えるか、少し先に消えるかの差ではないか。なにが問題だ?』
天之御中主神の回答は、淡泊で神様らしかった。もしかすると、シロですら、同じように答えるかもしれない。
けれども、そこに悪意はないと思う。純粋に、どうして九十九がこのようなことを言うのか問うているのだ。
『彼の堕神が瘴気を放っていたのは事実。人に害を与える危険もあったのだぞ。それを、其方は野放しにせよと?』
「そうは言っていません。なにか他の方法がなかったのかと思いまして……たとえば、湯築屋へお連れすれば、人に害は及びませんよね?」
『理解できぬ。が、其方は前にも同じことをしていたな』
九十九は天照から八咫鏡を借りて、堕神を湯築屋へお連れした。一度目は、五色浜の堕神。二度目は、柿の木に憑いた堕神だ。いずれも、すぐに消滅していった。
「堕神であろうとも、神様ですから。だったら、湯築屋のお客様です」
『ほう。それは、我が領域を穢す価値のある神か』
これは試す質問だと思った。このような質問を唐突に投げかけるのも、天之御中主神の神らしさだろう。
「この結界に入る者を、シロ様――天之御中主神様は拒めます。あなたは、シロ様から、その権利を奪ってしまうことだってできますよね。そうしなかったのは、わたしの行いを許してくださった。もしくは、穢すとも呼べない些事だと判断したんじゃないんですか?」
天之御中主神は、自分の意思で表に出られるのだ。気に入らないなら、九十九が堕神を連れてくるのを拒否できた。
『なるほど。たしかに、我が赦したのかもしれぬの』
問答の答えを、天之御中主神は気に入ったようだ。唇の端を少しつりあげて笑うような表情を作った。
『存外、弱い娘だが……強いところもあるの。ふむ。興味は尽きぬ』
天之御中主神は言いながら、湯の中へ戻っていく。熱さを感じないのか、長湯していても平気みたいだった。
『ひとまず、落ち着いたようで、我の面倒が減った。続きを頼もうか』
髪を洗う手伝いをうながされ、九十九は慌てて立ちあがる。着物を整えてから、もう一度、浴槽の傍らに膝をつく。すると、濡れていたお尻が乾いているのにも気づいた。天之御中主神が気を利かせたのか。
やっぱり、悪い神様じゃ……ないよね。
『我が間違っていたとは思えぬが、其方の考えはわかった。次は、それを貫く力を身につけることだな』
堕神について、天之御中主神は自分が悪いとは思っていない。そこは、あくまでも九十九との信条の違いだと、一線を引いた。
『その助力ならば、考えてやらぬこともない』
天之御中主神の髪に、九十九は再び日本酒の溶け込んだ湯をかける。さきほどまでは、落ち着かなくてわからなかったが、そのたびに、墨色の髪に神気が宿っていくのがわかった。きらきらと、銀のような色彩を放つ瞬間もある。
「ありがとうございます」
次に、似たような場面に出会ったとき――九十九に力があれば。
九十九に、自分を通すだけの力があれば、きっと……焦ってはいけない。それは、月子や登季子にも、其の必要はないと言われている。
ゆっくりかもしれないが、昨日できなかったことが、明日できるようになりたい。
もっと、力をつけたい。
そして……やはり、天之御中主神とシロは一度、対話するべきではないか。その思いも強まった。
この二柱は話しあえるはずなのだ。
その助力を九十九がしたい――。




