3.天之御中主神。
「あの……いまさらですけど、ありがとうございます」
九十九は小声になりながら、お礼を告げた。天之御中主神には助けられたのだ。しかも、これは二度目である。
シロの過去や、月子の言動から、どうしても天之御中主神には苦手意識がある。緊張して、上手く接するのがむずかしい。
でも……。
天之御中主神様だって、悪い神様じゃないんだよね……?
在り方が特殊で、考え方も神々のそれだ。九十九には理解しがたく、シロも忌み嫌っている。
それでも、この神様は九十九を救ってくれたではないか。
話しあえると、思う。
『我は、檻の選択に従っただけだからの。礼を受けとるべき相手ではなかろうよ』
「でも、救っていただいたのは事実ですので」
『其方が弱いからな』
弱いとはっきりと言われ、九十九はきゅっと唇を噛む。だが、それは事実だ。九十九はあの場では無力で、なにもできなかった。そして、湯築屋へ帰ってからも、なにもできずただ泣いていたのだ。否定なんてできない。
『知っておったがの。思った以上ではあった』
とはいえ、追撃が辛辣すぎる。九十九は、ぐっと堪えながら、無心で天之御中主神の髪を洗った。
『我のほうこそ、其方の性質を見誤ったのだ。あれはその埋めあわせだと思っておくとよい』
「見誤った、ですか?」
『だから、存外弱かったなと言ったであろう』
何度も何度も弱いと言われると、さすがに傷ついてくる。だいたい、いくら巫女と言っても、神様に比べれば弱いのは当たり前ではないか。
それとも、
『月子はこのようなことで取り乱したりはしなかったからの』
ああ、やっぱり。
九十九はつい視線をさげた。
シロも天之御中主神も、月子、月子と言う。それは九十九の神気が月子に似ているからだ。
シロは、九十九と月子が違うと認め、そのうえで好きだと言ってくれた。正直、まだ比べられているのではないかと疑問に思うこともあるけれど……天之御中主神の口からも、何度も月子の名が出てきたら嫌になってくる。
「わたしは、月子さんではありませんので……」
あんな風にはなれない。
九十九には、月子の強さはなかった。
『嗚呼、そうだ。月子は我を受け入れなかったからの』
天之御中主神は、意外とあっさりと認める。淡々として、感情ののらない言葉であった。
『だから、本質を見ず、見誤った我の過失であろう』
「過失……天之御中主神様の?」
天之御中主神の口から出た言葉に、九十九は眉を寄せた。
『おかしいか?』
「おかしいというより……すみません。天之御中主神様は、そのようなことを言う神様だと思っていなくて」
天之御中主神の考え方は九十九に理解できない。他のどんなお客様よりも、神様らしい。いや、月子やシロに対して「無責任」とさえ思えるものだった。
他者に選択を示して、結果に対する責任を負うことがない。あくまでも、外側から俯瞰した立場で観測し、選択だけを提示する。九十九に、巫女としての選択を強いたときも、同じような態度であった。
その天之御中主神から、「過失」という言葉が出てきた。
これは九十九にとって、意外なことである。
『肌守り《あれ》については、我の意思で与えたものだからの』
あくまでも、天之御中主神はスタンスを変えていないと主張する。これが九十九の選択の結果であったなら、この神はいつもの観測者の顔をするのだろう。
「では。どうして、あの肌守りを授けてくださったんですか?」
『必要だと判断した』
不意に、天之御中主神がこちらをふり返り、九十九の手をつかんだ。
九十九はドキリとして、思わず身体をうしろに倒してしまう。着物のお尻がビショリと濡れるのを感じたが、それよりも、漂う緊張感に息が止まりそうだった。
動悸がする。
心臓を耳元に押し当てられているかのような気分だ。
『其方の、お前の、この手は神を殺すぞ』
そう告げられて、背筋に悪寒が走る。
想像したくもなかった。けれども、「引」の説明をされたとき、薄々、そうなのかもしれないと感じていたことだ。
九十九の力は、神から力を奪ってしまえる。
それは――神を殺す力にだってなるのだ。
身体の震えが止まらなかった。
どうしようもなく、九十九は力なく目を閉じる。
『あれは、力を強めるためのもの――其方の能力を扱いやすくするために創ったのだ』
天之御中主神が説明を重ねるが、九十九は目を開けたくなかった。聞いていたくない。もうやめてほしかった。
『制御は早いほうがよかろう。自ずと、其方はあれの使い道に気づくと思っておったが……其のときよりも、偶然のほうが早かったの』
水の音がする。
天之御中主神が湯船から這い上がったのだと気づいたときには、九十九の顔に濡れた感触があった。
顔に触れられ……次に、頭をなでられる。
『案ずるな。今の其方に、その力はない』
目を閉じていると、倒れたお袖さんの顔が浮かんだ。そして、霧のように消滅させられる堕神の姿。九十九を責め立てるみたいに。
『こちらを見ろ』
天之御中主神の声は、どこまでも平坦だった。
怖い。
『ならば、死を欲するか? さすれば、其方の恐怖は取り除かれるぞ』
強い言葉に、身体が余計に萎縮する。
『此れも選べぬのか。だが、こればかりは、選ぶべきではないのか。其方は檻を孤独にせぬのだろう?』
シロ様のこと、檻なんて呼び方しないでください……。
そう頭に描くだけで、声にはならなかった。




