2.なんだ、こういうことですか……。
まあ、結局。
変な意味はなかったのだが。
「はあ……なんか、疲れた……」
変な勘違いをさせられて、九十九はどっと疲労を感じた。けれども、気を取りなおして脱衣場に用意してある、従業員用の下駄を履く。濡れないように、茜色の着物の袖も襷掛けにした。
男湯の入口に、「貸し切り」の札をかけておく。今、男神のお客様は宿泊していないのだが、念のためである。
そして、浴場へ……。
立ち込める湯気が、もわっと肌をなでる。湿気を多く含んだ、独特の空気だ。しかし、温泉らしくて、九十九は好きだった。
「あのぉ……?」
九十九はおそるおそる声をかけた。天之御中主神に対しては、いつも緊張していたのだが、なんだか、さきほどの勘違いのせいで、すっかり気が抜けてしまった。そして、いつの間にか涙も止まっている。
今、シロは眠っている状態だと、天之御中主神は言った。
稲荷神白夜命は湯築屋の結界そのものであり、天之御中主神は「檻」と呼んでいる。天之御中主神は自らを檻の中に置いているのだ。
だから、シロは結界から出られないが、天之御中主神は出られる。いや、出られると言うと語弊があるだろう。神気を消費して檻を歪め、一時的に出入りが可能となる。制約が非常に多いため、長時間、外に出るのは不可能らしい。そうでなければ、檻の意味がないので、当然と言えば当然だった。
ケース・バイ・ケースだが、堕神とて神だ。
シロの使い魔や傀儡では、堕神の瘴気に対応するのは不可能である。ゆえに、近づかぬのが得策なのだが……今回は、九十九やお袖さんがいた。
『来い』
湯気の向こうから返事が聞こえたので、九十九はゆっくりと歩み寄る。下駄がカランコロンと音を立てた。
湯築屋の岩風呂には道後の湯が引いてある。藍色の空には月も星も出ていないが、木々を染める紅葉の赤がとても映えた。
湯船に、紅葉が一枚はらりと落ちる。
一重に、二重に、幾重にも、水面に波紋が広がり、広がって――いつの間にか、紅葉は塵のように消えていた。幻の葉だ。いつまでも残っていない。
長い髪が湯に落ちている。
墨が水に広がるように、湯を髪が漂っていた。けれども、おぞましさや禍々しさはなく、淡い神気の光によって幻想的な儚さをまとっている。
紫水晶の瞳が、ゆっくりと九十九に向けられた。
「遅くなりました……お持ちしました」
見蕩れていた。そう自覚しながら、九十九は手に持ったものを天之御中主神に差し出す。
お酒だった。一升瓶に入った市販の日本酒で、シロが母屋に溜めこんでいる一本だ。栄光の特別大吟醸なので、かなりいいものなのだが……一本拝借してきた。
天之御中主神が外へ出るには、シロの許可が必要になる。
シロは……九十九とお袖さんを八股榎大明神から速やかに連れ帰るために、天之御中主神を結界の外に出したのだ。そして、天之御中主神が九十九たちを湯築屋へ連れ帰った。
しかし、それは檻の役目を持ったシロを一時的に害する行為だ。
短時間とはいえ、天之御中主神を外に出したシロの神気は著しく損なわれてしまう。だから、今は天之御中主神が表に出ているのだ。神気が回復しなければ、シロは戻ってこられない。
道後温泉の湯は、もともと、天之御中主神が発生させたものだ。シロや天之御中主神との親和性は、他の神々とりも高い。神気を害されても、早く回復できるのだ。
天之御中主神は回復のために、しばらく湯につからなければならない。それは、シロのためでもあるのだ。
だから、九十九は手伝いを「つきあえ」と言われた。
シロ様は余計な一言が多いけど、もしかして、天之御中主神様って言葉が足りないんじゃないのかな……九十九はもやもやしながら、天之御中主神に日本酒を渡す。
『案ずるな。大したことではない。三日もすれば、元に戻るかの』
「三日……もしかして、五色浜のときも、こうしていたんですか?」
五色浜で九十九が天之御中主神から助けられたとき。九十九は三日寝込んでいた。そのとき、シロは九十九の前に姿を現さなかったのだ。わざわざ、天照に代役を頼んだりして……ちょっとおかしいと思っていた。
『其方の考えておるとおりだ。あのときは、すぐに代わろうとしなかったがの』
シロは天之御中主神が表に出るのを嫌っている。代わりたくなかった理由は、九十九も察することができた。
天之御中主神は、日本酒の瓶を開封する。しかし、飲むのかと思えば、そのまま瓶を逆さにしてしまった。
お酒が勢いよく、湯に溶けていく。九十九は、ただただその光景を見ているしかできなかった。
『髪を洗ってくれぬかの』
お酒をすべて湯に流し込んだあとで、天之御中主神が九十九に背を向けた。
真っ黒な墨のような髪は、湯船に広がって漂っている。シロの髪とは真逆の色だ。なのに、同じように美しい。
「は、はい……えっと、お湯で流せばいいのでしょうか?」
『手ですくって流せよ。巫女の神気が必要だからの』
九十九はうなずき、浴槽のすぐ近くに膝をついた。着物は濡れないように膝までたぐるが……天之御中主神は向こうを向いているので、見られないだろう。
道後の湯は熱めで調整してある。熱い源泉と冷たい源泉を混ぜあわせて、各施設へ配管しているのだ。湯築屋も、同じようにを引いていた。
手で湯を少しずつすくって、天之御中主神の髪にかけていく。湯に漂っている髪も、ていねいになでるように整えた。
五色浜のときは、登季子が洗ったのだろう。これが巫女の仕事だ。
「お湯加減は、どうでしょう」
『それは意味がある質問か?』
「ない……です……」
や、やりにくい。
なにか話そうと思うと、ボロが出てきそうだった。九十九は苦笑いして、作業に没頭することにした。
天之御中主神の身体は美しい。
肌は陶器のように滑らかだし、翼は輝いていないのに光をまとって見える。神々しいとは、このことだろう。どこをとっても芸術品みたいだ。
シロも、綺麗だ。
どちらも。
ただ、違いがある。
天之御中主神はシロよりも、少し細い。身体に丸みがあり、女性的な面があった。シロも中性的な見目をしているが、それ以上に天之御中主神には性別の概念がない。
別天津神は独神だ。
男神でも、女神でもない存在である。
改めて、この神が原初であり、終焉を見据える存在なのだと理解させられた。
ただ存在するだけで役目を果たす――それ以外、なんの役目を持たぬ神。
在り方が特殊で、湯築屋のお客様たちとは枠が違う。
不思議だ。
九十九はたくさんの神様を見てきたのに、そう思えてしまう。




