8.瘴気の根源
海開き前の砂浜の寂しさを目の当たりにするのも、今年は二度目か。
隣にいるのは無邪気な学友ではなく、お客様――日本神話の太陽神天照大神。長い髪を結うリボンの具合を気にしている表情が可憐でありながら、魅惑の魔性を醸している。
「それで? 探し物をしに来たのでしょう?」
天照は初夏の日差しの下で眩しそうに目を細め、九十九を見上げた。
九十九は自信なく――しかし、やがて確信を持って顔を上げる。
「先日の瘴気は鬼のものでした」
「そうね。この辺りには、確かに鬼が棲んでいるのでしょうね。そういう匂いがしていましてよ」
小さな鼻でスンと息を吸い込んで、天照は一歩、二歩。
「でも」
「でも?」
振り返った少女のリボンが解け、漆黒の髪が風に溶けるように広がった。
「鬼の瘴気を煽った存在がいると思うんです」
少女の白いワンピースが砂のように消えていく。代わりに、ゆったりとした白い衣を纏った姿となる。肩から羽織った領巾が翼のように広がり、日差しを遮る大きな影となった。
「そうね。流石は稲荷神の巫女です」
小竹葉の手草を掲げ、天照は魅惑的な笑みを浮かべていた引き唇をキュッと結ぶ。そのまま九十九に背を向けた。
「ストレートに鬼退治などと本質からズレたことを言いはじめたら、このまま神気を吸い尽くして差し上げようかと思っていましたわ」
シレッと怖いことを言い放ちながら、天照は右手に持った手草を振る。
強い神気が空気を揺らし、光の粒が結界と成った。神聖なる太陽の光に退けられるように、背後から忍び寄っていた瘴気が弾かれる。
「結界の外であれ、別天津神が鬼などに引くことは有り得ませぬ」
天照が笑う。
またシロのことを違う神の名で呼んでいる――と、九十九は朧げに引っかかりを覚えるが、それを問いただす場合ではない。黒くはっきりとした瘴気が蛇のようなうねりとなって、天照に迫っていた。
「であれば、それなりの持て成しをしなければなりません」
天照が握る手草が眩い光を放った。
「あつっ――」
圧倒的な熱量の物質が急に現れたので、思わず声を上げてしまう。まるで、近くで炎が生じたかのような熱量だ。
手草が燃え落ち、手品のように青銅の剣が一振り現れる。
「天照様!? そ、それって……く……く、くさな……」
「ん? ああ、これですか? こんなこともあろうかと思って、熱田神宮から拝借しておいたのです」
「熱田神宮って、やっぱそれ草薙剣じゃないですか!? 三種の神器を、そんなにホイホイと……」
「大丈夫。あとでちゃんと宅急便で送りますから」
「宅急便で良いんですかぁ!?」
ちょっと友達のDVD借りてきた、とか言い出しかねないノリでサラッと流される。
草薙剣と言えば、言わずと知れた三種の神器だ。日本神話に登場する由緒正しき剣であり、宝物中の宝物。相手が神様とはいえ、そんなものがポンッと出てくるとは思っておらず、九十九は苦笑いした。お客様のスケールには、時々驚かされることがある。
因みに、道後温泉本館には皇室専用の浴室と玉座があり、三種の神器のレプリカも置いてある。浴場を楽しむだけではなく、見学コースもあるため観光客の満足度は高い。
「まあ、このまま両断しても良いのですが……根源を断ちたいのでしょう?」
瘴気を草薙剣で払い除けながら、天照は九十九を振り返る。
試すように問われ、九十九は服についた砂を払って立ち上がった。いつの間にか、腰を抜かしていたようだ。まったく、情けない。
「白い蟹が」
天照の向こう側に見えるのはドス黒い瘴気。
そして、波間に浮かんだ白い影。
はっきりと、蟹の形をしていることがわかった。
白い蟹――五色浜で命を落とした平氏の姫君が探したという蟹だ。
その蟹を踏み潰し、源氏への復讐としたい姫が探した蟹。
しかし、実際に見つけることは叶わなかった。
「姫君は自害した後も怨念を遺し――鬼となった」
――アレは御せぬ鬼だ。
シロの言葉が思い出される。
五色浜の姫は自害したあと、鬼としてこの地に留まっていた。鬼は神気を操る存在だが、怨念が強すぎると瘴気を発し、人々に害を撒く存在となる。
「ですが……この瘴気は鬼のものでは、ありませんね」
「はい」
天照の言葉を肯定して、九十九は前に歩み出た。
「本来は実在していないものを発生させることで、鬼を誘い出しているんです」
姫が探した白い蟹は実在していない。
アルビノ種など、それに該当するものはあるだろうが、それは彼女が求めたものとは違う。
「わたくしたちには理解できない思考ですが、稀にこのような足掻きを行う愚者は存在します――名を失い、死にかけた神が再び畏怖を取り戻そうなどと」
神に与えられる死は、人間のそれとは概念が違う。
全ての信仰を失い、名前を忘れられた存在――堕神となったとき、その死が決定する。
堕神は神気を徐々に失い、ただ消えていくだけの存在だ。多くはそれを受け入れ、消えていく。人々が神への信仰を捨てはじめた日本では、珍しい現象ではない。
だが、稀に抗うものがいた。
白い蟹を探す五色浜の鬼を誘い、強い瘴気で厄災を引き起こす。
既存の伝承に乗ることで、自らを延命しようとしているのだ。
もすぐ海開きのシーズンだ。人が集まる場所で瘴気による怪異を起こし、恐怖と畏怖の感情を起こさせる。そうすることで、五色浜の鬼を印象づけ、白い蟹に扮した自身の存在を認知させようとしているのかもしれない。
「……そんなこと、させない」
「流石は稲荷神の愛し巫女。ちゃんと見抜いていてくれて、安心しました。ただの甘いお菓子では、飽きてしまいます」
「それは、ありがとうございます」
九十九はポケットの中に右手を入れる。
温かい神気が宿った肌守り。
シロの髪の毛を依り代に、神気を集めた。
「稲荷の巫女が伏して願い奉る 闇を裂き、邪を砕きし破魔の矢よ 我が主上の命にて、我に力を与え給え」
紺色の肌守りが光り、大弓へと変じる。
九十九は弦を引き絞り、白い蟹へと矢を向けた。
「さて。そろそろ約束が違うなどと文句を言われそうなので……選手交代といきましょうか?」
九十九の横で天照が笑い、懐からなにかを取り出す。
丸い鏡。
光を反射する鏡面が輝き、一瞬、九十九の目が眩んだ。
瞬間、甘い香りがふわりと舞い上がる。
「……花?」
初夏の海辺は黄昏の藍に染まっていた。いや、先ほどまで存在していた海辺が見えない。波音も聞こえない。ただただ虚無のような藍が広がり、甘い香りだけが漂っている。
視界に映るのはピンクの大きな花――蓮。
この時期、湯築屋の結界に咲いている幻影だと気づき、九十九は瞳を見開いた。
「仕上げと行こうか。九十九」
九十九の細い肩に触れたのは、思いのほか力強い腕だった。
天照の華奢な声ではない。
振り返ると、銀糸のような美しい髪が一房。琥珀色の瞳が微笑んでいた。
「シロ、さま……?」
ここは五色浜だ。シロの結界が及ばぬ範囲である。
だが、この結界は間違いなくシロのもので、ここにいるのはシロで……九十九は混乱した。けれども、隣のシロは「あとで説明する」と言いたげに、黙ったまま九十九の矢の先を見据えていた。
そうだ。集中しなきゃ。
九十九は弦をじりじりと引き絞り、再び標的を見据えた。
肩に置かれた掌から、シロの神気が流れ込んでくるのを感じる。
白い蟹の姿をした堕神の瘴気が濃くなり、九十九へと迫って来るのを感じた。こんなに濃い瘴気が、これから訪れる海水客を襲うと考えると、放っておくことなどできなかった。
「ありがとう、シロ様」
一言。
はっきりと発してから、九十九は矢を放った。




