10.あやまち。
シロの使い魔を出した結果、学校に肌守りは落ちていなかったそうだ。
それでも、念のために九十九は、翌日、大学内で自分が行きそうな場所を隈なく探した。大学の事務局や、守衛にも声をかけてみるが、それらしいものは見つからない。
では、やっぱり八股榎大明神で落としたのか。ラーメン屋ではジャケットをすぐに脱いで掛けていたので、落としていないはずだ。
八股榎大明神で落としたとすれば、お袖さんが拾っておいてくれると思う。
あの肌守りには、九十九の髪の毛がおさめられている。どうしてなのかは、知らないが、天之御中主神そうしてくれたのだ。
――九十九に顕われたのは、引の力だ。
話は聞けたけれど、なにも詳しい説明をされていなかった。
引って、なんだろう。引く? PULL?
イマイチ、しっくりこない。もしかすると、シロにもよくわかっていないのかも? 九十九の力は未発達だと言っていた。どんな力なのか、シロにもよくわからないのかもしれない。
まさか、天照様……よくわかんないから説明を投げた説が……いやいや、そんなそんな。天照様なら、やりそうだけど、そんなはずないよねぇ……ね?
などと、思考が脱線する一日だった。
九十九は普通に大学で授業を受け、そのあと、八股榎大明神へ向かう。路面電車でごとごと揺られながら見る松山の風景は、九十九の好きなものの一つだ。人々の生活と息づかいを感じる。
路面電車は愛媛県庁前から、松山市役所前へ向かう。県庁には、愛媛らしくみかんの木が植えられている。その橙色を通り過ぎると、堀端が見えてきた。
「え……?」
堀端が見え、その奥には堀之内公園の木々。いつもの松山市の様子だ。
けれども……九十九は、いつもと違うと気づいた。
「…………!」
思わず、九十九は路面電車の座席から立ちあがる。
料金をICい~カードで支払い、松山市役所前に停車した路面電車から飛び降りた。そして、市役所前に佇む――八股榎大明神を見据える。
空気が、黒い。
すぐに瘴気が立ち込めているのだと悟った。普通の通行人には見えていないが、九十九にはわかる。
息苦しいぐらいの濃密な瘴気。
こんな瘴気を発する存在を、九十九は知っている。
五色浜での出来事が思い出された。蝶姫に憑いた堕神が、瘴気によって人々を害そうとしていた。あのときと状況が近い。
八股榎大明神には、堕神がいる。
嫌な予感がした。
お袖さんは、あの堕神を「同居人」と呼んでいた。害はないと、お袖さんが認めて榎に住まわせていたのだ。実際、今まではそれで問題がなかった。
なのに、なにがあったのだろう……?
八股榎大明神の前に立ち、九十九は固唾を呑む。
もしかして、これ……わたし、危ないかな?
堕神の瘴気など、九十九に対処できるわけがない。五色浜のときは、天照の助力があったが、今は一人だ。九十九に使えるのは、退魔の術くらい。自分の神気を結晶化できるが、それを活用する術は使えなかった。あとは、夢の中で羽を少し扱える程度である。
「し、シロ様……いらっしゃいますか?」
おそるおそる呼びかけると、すぐ足元に白い犬が現われた。シロの使い魔だ。九十九はひとまず安心して、使い魔の前に膝をつく。
「九十九、疾く逃げよ」
使い魔は八股榎大明神を確認して、九十九に一言告げる。
「やっぱり、これ……堕神なんですか?」
「そうだ。しかし……思っていたよりも、不味いことになったな」
不味いこと?
「単なる堕神の暴走ならば、どれだけよかったことか」
シロの使い魔はぶつぶつと、つぶやく。その実、九十九には目線で「疾く逃げろ」と示す。九十九はどうすべきか混乱しながら、立ちあがった。
ここはシロにまかせたほうがいい。九十九には、どうすることもできないのだから。
でも、シロは……堕神をどうするのだろう。こんな街中で瘴気を放った堕神を放っておくとは思えない――お袖さんの同居人なのに。
「…………ッ」
迷う九十九の視界に飛び込んだ者がある。
八股榎大明神の狭い敷地内。榎へとおりる階段に、誰かが倒れていた。
「お袖さん!」
それがお袖さんだと確認すると、九十九は居ても立ってもいられず、走り出してしまう。シロの忠告を無視して。いけないと、わかっていながら……。
それでも、苦しそうな表情で倒れているお袖さんを、そのままにはしておけない。
「お袖さん、お袖さん! 大丈夫ですか!」
九十九はお袖さんに呼びかけながら、身体を起こした。
「ん……君は……」
お袖さんが薄らと目を開いたので、九十九は安堵の息をついた。
「いけない。早く逃げるんだ」
「お袖さんを連れて逃げます」
幸い、堕神は瘴気を発するばかりで、襲ってくる様子がない。九十九は、今のうちにと、お袖さんの肩を担ぎあげた。
「お袖さん、歩けますか?」
「あ、ああ……でも……」
お袖さんは立ち止まり、不安そうに榎を見あげる。九十九も、つられるように視線を向けた。
榎に住みついている堕神が瘴気を放ち、黒く蠢いている。
やはり、瘴気の発生源は堕神なのだ。
けれども、そればかりではない。
瘴気が脈打つような、波動となっている。堕神の周りには、黒い触手のごとくなにかが絡みつき、締めあげていた。
苦しそう……。
堕神は瘴気で人を害そうとしているのではない。
今にも消滅しそうなか細い力で、なにかに抗っている。
どうなっているのか、わからない。いったい、ここでなにが起こっているのだろう。九十九には、さっぱりわからなくて混乱するばかりだった。
ただ、一刻も早く離れたほうがいい。
そういう予感だけはした。
「九十九」
階段の上に、シロの使い魔。
前脚をちょんとそろえて、お座りしている。その見目は白い犬なのに、雰囲気はいつもと違っている気がした。
清らかな神気がシロの使い魔を包んでいる。神の御使いは、九十九に「こちらへ来い」と道を示しているかのようだった。九十九の足は、自然と引き寄せられるように一歩二歩と、進んでいく。
「九十九、すまなかった」
「え?」
シロの使い魔が口にした謝罪は、九十九の予期しないものだった。なぜ、謝るのか、九十九にはちっともわからない。
「儂の判断が甘かったかもしれぬ」
判断?
とにかく、九十九はお袖さんを抱えて階段をのぼる。
「九十九の神気は引だと言ったな。その力は字のとおり、【引き寄せる力】、すなわち引力だ」
シロ様、今その話、必要なんですか?
大事な話だと理解していたが、シロの意図がわからない。今は、九十九の力について知るよりも、堕神をなんとかしなければならない。
なのに、九十九はシロにそう言い出せなかった。
シロは駄目でだらしがない神様だ。けれども、こんなときに無意味な話をするとは思えなかったのだ。
「考えてみれば、生まれたときよりその力は、九十九に備わっておった。神気の波長が違うはずの、ほかの神々や妖たちまで、九十九の力に惹かれやすかったであろう?」
つまり、九十九の神気には周囲の好意を引き寄せやすい力があった、と。シロの説明から、九十九はそう理解した。
「その力が最近、変質しておった。それを知りながら、儂は気に入らずに黙っておったのだ。否、力の変化を認めたくなかっただけだ」
どうして、九十九の力が変質してしまったのか。その答えは、すでに知っていた。
天之御中主神の力に触れるようになったからだ。そして、シロはそのせいで変わっていく九十九の力を快く思わなかった。
彼が天之御中主神を心から忌み嫌い、嫌悪しているから。
「アグニ神をもてなした際、色の違う結晶ができたであろう?」
覚えている。アグニと火消し対決をしたとき、火除け地蔵は九十九の力を使っていた。そのとき作った結晶の一つは、明らかに違う輝きを放っていたのだ。
あの神気は九十九のものではなかったと、天照から聞いた。
じゃあ、あれはなに?
けれども、じわじわと……認めたくない仮説が九十九の頭にも組みあがった。それが本当だとすると……まさか……。
「あの結晶は、儂の神気を【引き寄せて】作られたものだった」
あの時点で、九十九の神気は底を尽きていた。そういう実感があったのに、結晶を作ることができたのは――九十九が無意識のうちに、シロの神気を引き寄せていたからだ。
九十九は神様の力を引き寄せられる。
力の結晶にしてしまったということは、借りているわけではない。九十九の力として変換したのだ。
普段使用している退魔の盾は、シロの髪の毛を依り代にして力を借りている術である。八雲が風を操るのも志那都比古神によるものだ。そうやって、神様から力を借り受けて術を使う。
けれども、九十九の引の力は違うのだ。
神様から引き寄せた力を、自分のものにしてしまえる。
身震いした。
そして、おそるおそる、お袖さんの表情を確認する。
お袖さんは朦朧とした意識で、足どりも覚束ない。顔が青白くて、肩で呼吸しているのが痛ましい。
次いで、榎に憑いた堕神をふり返る。
黒く蠢く瘴気の中心。目を凝らすと、白色が見える――肌守りだ。
「シロ様……わたし……」
天之御中主神から授けられた肌守りには、九十九の髪が入っていた。
あの髪に、お袖さんの神気が引き寄せられてしまったのだ。それで、堕神が肌守りを排除しようとして、あんなに瘴気を放って……そんな仮説は信じたくなかった。シロに、違うと言ってほしい。九十九の考えすぎであってほしかった。
『条件が重ならねば、こうはならぬ。これは、いわゆる、其方らの想定外という事案よのう』
シン、と場が静まり返った気がした。
「あ……」
シロの使い魔が座っていた場所に、別の影が現われる。
墨色の髪が、ふわりと風に揺れた。
白い装束の背中には、純白にも、銀色にも見える翼が広がっている。九十九を見おろす双眸は、紫水晶を嵌め込んだような色彩だった。
天之御中主神が、現われていた。
『今日はいやに素直に明け渡しよって。よほど、巫女が大事と見えるな』
「天之御中主神様……どうして……」
天之御中主神は、普段、表に出てこない。シロと表裏一体の存在だ。シロと同じく湯築屋の結界から出られないのではないか。
『我が、斯様に姿を現わすのは、其方の前では二度目だが?』
五色浜で助けてくれたときのことを示していると、気がつくのに時間がかかってしまった。
『檻は其処から動けぬが、我は檻を破れるからな。あまり長居はできぬが』
天之御中主神は言いながら、九十九とお袖さんに近づく。九十九は、つい身構えてうしろへさがってしまう。が、天之御中主神は構わず、九十九の手首をつかんだ。
『あの守り袋は、其方が力を御しやすく作ったものだ。だが、其れがこの結果を招いた。多少の接触ならば害にはならぬが、此処には堕神がいる。あれは、巫女の神気には毒だからの。運が悪かったやもしれぬ。そのうえ、丸一日もこの状態にしてしまった』
力を御しやすく? 九十九が、神気を使いやすくするための肌守りだったということか。そんなものを、天之御中主神は、なぜ九十九に授けてくれたのだろう。
けれども……それが、この状態を招く原因になったのだと、今の説明でわかった。
肌守りは、やはり放置してはいけなかったのだ。探しに行くべきは大学ではなく、八股榎大明神だった。
あれは九十九の力を補助する役目があったのだろう。それを神様や堕神のいる場所に長時間放置してしまった。肌守りは堕神の微弱な瘴気に刺激され、近くにいた袖さんの力をじわじわと引き寄せた。そして、お袖さんから肌守りを引き離すために、堕神が瘴気を放っている。
天之御中主神は、九十九の身体を軽々と持ちあげる。まるで、重量など感じていないかのようだ。
もう片手で、お袖さんに触れる。天之御中主神に触れられた瞬間、お袖さんの身体はみるみるうちに縮んでいき、丸っこい見目の狸へと変化した。
「な、なにを……」
『帰るのだ』
天之御中主神が短く答えると、背後に神気の塊が現われた。それが空間の裂け目を作り出し、異界――湯築屋の結界へと通じる門となる。五色浜のときと同じだ。天之御中主神は、ここに湯築屋の結界への道を開いたのである。
九十九たちを抱えて、天之御中主神は門をくぐった。
『嗚呼』
しかし、ふと、うしろをふり返る。
『返してもらおうかの』
淡々と、作業をしているかのような声音だった。感情がない。というよりも、あまりにも些事で、気にする事柄ですらない。
天之御中主神が視線を向けた瞬間、榎に宿っていた堕神の本体が弾け飛ぶ。黒い身体が霧散して、辺りを漂う空気に溶けていく。
「――――!」
刹那の出来事で、九十九は声さえあげられなかった。
あまりにも簡単に……呆気なく……事務的に……堕神の存在は消滅する。純白の肌守りだけが、その場に残った。
肌守りは、吸い寄せられるように天之御中主神の手へと。
そして、なんの感慨もない顔で、天之御中主神は門を閉じた。
19章終了です。
20章は5月更新です。




