7.蜃気楼のようなものですか
部屋はもぬけの殻。
誰もいなくなった娘の部屋を見て、登季子は似合わず狼狽する。夫が娘のために作ったみかんのゼリーを畳にこぼしてしまった。
「つーちゃんったら!」
九十九が昏睡状態で運ばれたときは、気が気ではなかった。
普段は家を空けてしまうことが多いが、九十九が眠っていた三日間は精一杯看病した。久々に親らしいことをしてみると、慣れないものだと思ったが……やはり自分は彼女の親なのだと実感する。
親。
自分の前に存在し得なかったかもしれない、選択肢。
「…………!」
追いかけないと。
瞬時に判断して、登季子は身を翻した。上質な着物の袖が揺れ、纏め上げた髪が一房落ちる。
けれども、登季子の目の前に突如として気配が現れた。
「放っておけ」
意外な相手からの、意外な言葉。
登季子は眉間にしわを寄せる。
「放っておけ、ですって? まさか貴方から、そんな言葉を聞くとは思っていませんでしたねぇ。私は……シロ様」
登季子がまっすぐ睨んだ先で、シロは浅く息をついていた。
「左様か? 儂は大抵、巫女には自由にやらせているつもりだがな」
シロは当然のように言い、登季子の肩に手を置く。
その途端、自分の中から沸き立っていた神気がシュッと消えていくのがわかる。無意識のうちに、自分の神気を焦りで乱していたようだ。
湯築の中でも神気を御することに関しては随一であると自負していたが……それほど、我を忘れていたということか。
「なにかあっても、また守ってやれるとは限りません。シロ様の神気だって、まだこんなに傷ついて……」
「結界の外に関して言えば、儂ほど無力な神も居るまいよ。先日の件に関して言えば、結界の外に出た儂の失策だろうな」
「だったら、なんでつーちゃんを外に――!」
「箱庭で巫女を飼うことが庇護することであり、人がそれを望むならば、そうしてしまっても構いはしないが?」
シロならば、そうすることができる。だが、敢えてそうしていない。
そうするならば、最初から九十九に自由など与えてなどいないと言っているかのようだ。いや、言っている。
つまり、例外は作らない。
神はいつも思想が極端で融通が利かない存在だ。
悪い意味で公平であり、平等。
そのような振る舞いに、登季子はいつも頭を悩ませてきた。これが人と神の違いであると実感する。
「ちゃんと、最初に行くべきではないと忠告はした。それでも、巫女は我が手を離れた。そして、危険が襲っても曲げることはなかった。困ったものだ」
シロは言いながら、銀の髪を指ですくう。
光の加減だろうか。否、神気が一瞬揺れ、毛先がわずかばかりか黒く見えた。
シロは九十九のために結界の外へ出た。
結界の内側であれば、彼は創造神すら凌駕する神気を発揮する。だが、強すぎる結界を維持しながら、結界の外で神気を使用することは摂理に反することであり、拘束と損害を強いられた。
結界。否、封印とでも呼ぶべきか。
「であれば、巫女の行いを見定め、手を貸すことが儂の役目であろう? その結果が悪いことばかりでもないと、そなたも知っておろうに。登季子」
「……ああ、もう……シロ様は、本当いつもズルいね。そう言われると、あたしはなにも言い返せない。そういうところ、本当に嫌いだよ」
白くて大きな尻尾が登季子の手に触れる。
登季子は悔しさで目を伏せながら、その尻尾をそっと撫でた。
――良い。好きにするがいい。
あのときの言葉が思い出される。
シロは登季子が神の巫女ではなく、人の妻となることを赦した。動物アレルギーの振りをしているのは、巫女とならない建前を作るため。
その結果が悪いものであったと、登季子には言うことができない。
シロにしてみれば、全て同じ。同等の事象なのだろう。
「それに、儂は策もなくただ巫女を危険に晒さぬ」
琥珀の瞳を細めて、シロは登季子に背を向けた。
† † † † † † †
松山市には「松山」を冠する駅が二つある。
JR松山駅と、松山市駅だ。一般的に「松山駅」と言えばJR、「市駅」と言えば伊予鉄道が運営する松山市駅。そして、「駅近で遊ぶ」と言うと、松山市駅周辺のことを意味する。
繁華街やアーケードのある商店街が近く、百貨店が併設される松山市駅の方が賑わっているというのが、市民の認識であった。
松山市駅のホームは平日の昼間であっても、それなりに人目がある。
「ふふ。これは、所謂デートというものでしょう? もっと、楽しみませんか?」
キャッキャッ。
そんな黄色い声で笑う少女を、九十九は落ち着かない視線で眺めた。なんだか、周囲の視線が痛い気がする。
真っ白なマーメイドワンピースに赤いリボンがよく映える。広がった裾が歩くたびに揺れて、白くて細い足が見え隠れしていた。長すぎる黒髪は凝った三つ編みで纏められており、リボンについた鈴が清涼な音を立てている。
「で、デートって……わたしも天照様も、女の子じゃないですか……」
「あら、男の姿であれば問題ないのでしょうか?」
真面目に突っ込んだつもりだったが、天照はキョトンと首を傾げている。
くるりと見開いた目が少女らしくて、とても愛くるしい。だが、同時に蜜のように甘い魔性の艶を感じてしまい、九十九は息を呑んだ。
控えめに言って、天照は美少女の類である。それなりに人目を惹いている自覚はあるのだろうか。
「若女将が望むなら、そのように」
天照は妖艶に笑う唇に人差し指を当てた。そして、くるりとその場で一周。
「望む姿になってみせようか?」
ふわりと神気が舞い、蜃気楼のように少女の姿が揺れる。
すると、天照の姿は妖艶で可憐な少女から一転。爽やかな笑顔の青年へと変じた。細身で背が高く、アッシュブラウンの髪がよく似合う柔和な青年だ――よく見ると、天照が好んでいるアイドルグループのメンバー。
「ちょっ!? 天照様、こんなところで!?」
姿が変わるだけでも、普通の人には不可思議な現象だ。そのうえ、人気アイドルが目の前に現れたとなると、混乱は避けられない。
「え? ああ、大丈夫、大丈夫。俺のことは誰も気にしないからさ」
「へ?」
青年の姿になった天照はヘラリと笑うと、周囲の人を視線で示した。
駅のベンチに座ってうたた寝するおばあさん。スーツを着込んだ営業っぽいサラリーマン。暑そうに新聞で扇ぐポロシャツ姿のおじさん。小さな子供を抱えた若いお母さん……誰も、天照を見ていない。
天照が両手を広げて好きなアイドルの歌を歌っていても、誰も振り向かなかった。姿かたちがどうあれ、こんな声量で歌っていれば、誰か振り向いてもおかしくないはずなのに。
「誰も気にしません」
少女の姿に戻って、天照はニコリと笑う。
この現象を見て、一種の結界のようなものかと、九十九は理解した。天照がどんなに目立つことをしても、誰も彼女を気にしない。そこにある「当たり前のもの」として認識するようになっている。
よくよく考えれば、時々、店舗限定のグッズを買い求めて外出していた。天照が人の世を乱すような振る舞いをするはずがない。
「言ってくだされば、望む姿に」
「い、いや……そういうの、別に良いんで……」
「そう言わず。ほら、稲荷神と一緒にデートしたいとか、そういう願望がおありなのでは?」
「ないですってば!」
「ええ~?」
目を輝かせながら、ズイッと顔を寄せる天照。九十九は苦笑いしながら顔を反らした。
――悪い子。でも、好きよ。
九十九が再び五色浜へ行くことを察して、天照は一緒に行くことを申し出た。
理由は「だって、面白そうですから」とか「暇を持て余した神々の遊びです」などと言っている。
たぶん、シロ様に言われたんだろうなぁ。
天照が九十九のことを気に入っていることは、前から感じている。だが、それだけの理由で一緒に外出するとは思えない。
シロが絡んでいることは明白であった。
「まあ、そう気に病む必要もなくてよ。稲荷神も、あなたを心配してわたくしを同行させているのだから」
心でも読まれているかのように、アッサリと答えが返ってきた。
「敢えて聞かなかったんですけど」
「そうだったの? ごめんなさいね。でも、疑問は些細なことでも解決しておいた方がいいと思いまして。聞かれても答えられないこともありますが」
「はあ……ありがとうございます」
「まあ、稲荷神もあなたを心配していますのよ。多少の束縛は許して差し上げて」
一番線のホームに電車が滑り込む。
二両編成のオレンジ色の電車が停車すると、バラバラとホームに人が流れ出る。「一番戦に到着の電車は、郡中港行きです」とアナウンスが流れる頃、九十九は入れ替わるように電車の中へと足を踏み入れた。
「わたし、これがシロ様の束縛だって思ってませんよ。むしろ、いつも必要以上にベタベタしてくる方がウザいです」
座席に座りながら、九十九は天照に言った。
天照は興味深そうな顔をしながら、九十九の隣に座る。
「これは思いっきり好きなようにしていいってことなんだと思います。だから、天照様を付き合わせることになって、逆に申し訳ないです」
はっきりと、言い切る。
九十九の言葉を聞いて、天照はくるりとした双眸を二度瞬く。
だが、次には楽しそうに笑っているのだった。




