2.温泉地に住まうお稲荷様
この地の湯には、神気が宿っている。
文字通り、神の力だ。
人にとっては神経痛やリウマチ、貧血、痛風などが改善するという、ごく一般的な効能。
しかしながら、この湯は神にとって疲弊した神気を癒すという効果があるらしい。また、神に近しい妖や鬼の類にも、同じようだ。
白鷺の姿を借りた神が傷を癒すために舞い降り、そこから湯が湧いたことが起源だと言われている。メインの観光地である道後温泉本館には白鷺をシンボルとした装飾もあるほどだ。
そして、やがて土地に流れてきた稲荷神が自らを癒すため、湯に浸かるようになったという。
後に、稲荷神は人間の力を借りて、この地を快適な住処とするようになった。それがはじまりで、評判を聞きつけた妖や神々が訪れるようになり、旅館「湯築屋」は成立した。
湯築家は稲荷神に仕えた巫女の家系だ。
それが今では温泉旅館を経営する一族になろうとは。
「あの」
九十九は、「はあっ」と溜息をついて目の前に転がる者を見た。
者、いや、違う。物だ、物!
「邪魔するくらいなら、働いてくれませんかねぇ!」
一応敬語ではあるが、雑に言いながら九十九は掃除機のスイッチを入れた。結界の中であっても文明の利器が使えるのは、とてもいいことだ。電化製品万歳! 現代社会万歳!
「少し待ってくれぬか。今、ちょうど良いところなのだ……こら。掃除機は辞めよ、五月蠅くてテレビの音が聞こえぬ!」
そんなことを言いながら、寝転がったソレが、もぞりと起き上がった。
藤色の着流しの上に、絹束のような白い長髪が落ちる。神秘的な琥珀色の瞳が不満そうに、九十九の顔を見上げた。
一見すると男か女か判別し難いが、体躯の逞しさで男であるとわかる。
息を呑むような美青年。肩に羽織りをかけ、年代物の煙管を口に寄せる様は、実に妖艶で絵になるものであった。
頭の上に乗った白い耳と、大きくて長い尻尾が人ならざるものであることを強調している。
稲荷神白夜命。
敷地に道後の湯を引き、湯築家の人々と共に神々の温泉宿を築いた稲荷神その人だ。所謂、この宿の「オーナー」のようなものか。
湯築家の者や従業員は畏怖と親しみを込めて「シロ様」と呼んでいる。犬の名前みたいだが、一応は狐の神様だ。
『あなた……私を騙していたのね……! この泥棒猫! 返しなさい、私の夫! 返しなさいよ!』
『騙されたのは、あなたでしょう? それに、あの人はもうあなたのところへは帰らないわ。愛想尽かされたって、いい加減に気づきなさいよ』
「だから、掃除機を止めよ。今、良い修羅場なのだ」
「神様が昼間から不倫ドラマの再放送見て興奮しないで頂けます!?」
「だって、面白いではないか。人はなかなかどうして面白いものを次々生み出してくれる。お陰で飽きぬ……やはり、先代の意を汲んで宿に電気を引いたのは正解だったな。云千年と生きた甲斐がある」
「不倫ドラマで云千年の感慨に耽らないでくださいよ」
「不倫は文化という言葉がある」
「それ、結構新しい人の言葉ですからね!?」
文明の利器最低。現代社会は神をも堕落させる!
九十九はいよいよ腹が立って、掃除機のスイッチを「強」に切り替える。そして、ヘッド部分をポンッと外した。
「客室でくつろぐなぁぁああ!」
叫びながら、シロの背後に掃除機を寄せる。
「ぬあっ!?」
ゴボボォッと嫌な音を立てて、シロの大きくて立派な白い尻尾がスッポリと掃除機に吸い込まれていく。
シロは慌てて立ち上がり、必死で尻尾を掃除機から引き抜いた。
「辞めよ!? 魂を吸い取られる心地がして好かぬ!」
「わたしはただ、お掃除をしていただけです。そこに、たまたまシロ様が転がっていたのです!」
「嘘申せ!? 今、思いっきり叫びながら尻尾を吸っていたではないか」
「テレビの音ですよ」
「儂を莫迦にしておろう?」
「有体に言えば、はい」
九十九は半目になりながら、再び掃除機を構える。
シロは柄に似合わず、怯えた様子で自分の尻尾を手で庇う。
昔から、シロは掃除機で尻尾を吸われるのが嫌いなのだ。初めて発見したのは、幼い頃の九十九であった。
「これが俗に言うDVというヤツか!? 儂は妻に虐待されるのか!?」
「いいえ、わたしは客室に転がる邪魔なゴミを掃除機で排除しているだけです」
「今、さり気なく儂をゴミ扱いしたか」
「気のせいと言うことにしてください」
それでも退散しないので、九十九はジリジリとシロの方へとにじり寄る。
「むう。本気で怒らせてしまったか」
シロは九十九が本気と悟ってか、むむっと表情を改めた。妖艶な容姿と相まって、表情を引き締めると非の打ちどころのない美しさになる。これで、言葉を発さなければ、完璧なのだが。
そんなことを思っている隙に、九十九の目の前からシロが消えた。
恐らく、神気を使ったのだ。
掃除機から逃げるために神様の力を使うなんて、無駄遣いにも程がある。
「仕方がない。妻の機嫌は取り戻しておくべきだと、先日、天照から忠告されたからな」
呆れている九十九の背後に、気配。
急いで振り返るが、そのまま覆い被さるように抱き締められてしまった。咄嗟に落とした掃除機が空振りの音を立てている。
「ひゃ」
自然な流れで顎をクイッと持ち上げられる。間近に迫った琥珀色の瞳が艶やかな笑みを浮かべていた。
「こうすれば、妻の機嫌が取れるらしい。この間のドラマで見たぞ」
「うっ……んッ!」
九十九の悲鳴を塞ぐように唇を重ねられた。
湯築家は稲荷神白夜命に仕える巫女の家系だ。
妖しの力を操る神気を持つ家系。
代々一番強い神気を持つ巫女は、皆、稲荷神白夜命へ嫁入りしてきた。
そして、当代の巫女は九十九であり、生まれたときから稲荷神白夜命――シロと夫婦なのだ。
「どうだ? 機嫌は直ったか?」
唇を離すと、シロがニッコリと笑みを作った。清々しいくらい爽やかな笑顔だ。
一方の九十九は笑みどころか、全ての憎悪を顔面に乗せた阿修羅の形相でシロを睨みあげていた。
「……真面目に掃除させてよぉぉおお!」
このあと、有無を言わさず掃除機で尻尾を吸いまくったあとに、夫を無慈悲に部屋の外へと放り出した。
概ね日常である。