8.ナイショ話。
書籍版2巻の内容がwebと変わっているため、web版では意味のわからない場面になっています。
申し訳ありません。
幸い、隠神刑部の他に、お客様は常連の天照くらいしか宿泊していなかった。
天照は推しのアイドルが監修したという宅配ピザを頼んでいるので、夕餉が必要ない。なにやら、コラボグッズがランダム封入なので、十枚頼んでいた……もちろん、グッズだけ抜いて残すなどということはしない。神様たちは基本的に食事が不必要で、いくら食べても太らないし、満腹にならなかった。本当に便利な体質である。
というわけで、厨房は将崇の好きに使えた。幸一に見守られながら、今日は将崇が一人で隠神刑部の夕餉を用意する。
厨房で作業する将崇に応援の声をかけ、九十九も通常業務を粛々とこなした。
「若女将、お客様はお部屋でお寛ぎしています」
仲居頭の碧が、お淑やかな笑みで教えてくれる。彼女には隠神刑部を部屋まで案内してもらっていた。これから、九十九が若女将として、隠神刑部にごあいさつをする。
「ありがとうございます、碧さん」
「いえいえ」
碧は品良くお辞儀をした。
女将・登季子の姉に当たるが、神気を操る力がない。ずっと、湯築屋で仲居頭を務めてくれる頼もしい女性だった。
神気が扱えないと言っても、碧には武術の才能がある。剣道、薙刀、空手、柔道などをマスターしており、その腕前は湯築屋へ訪れる神々をも唸らせるほどだ。「時代が違っていれば、英雄となれた逸材かもしれない」とまで評価するお客様もいる。
無論、接客でも尊敬すべき点が多く、九十九もまだまだ習ってばかりだ。
不思議なのは、ずっと結婚せず独身でいることだろうか。番頭の八雲もそうだが、現在の従業員には独身が多い。結婚が人生の幸せとは限らないため、あまり深く追求する必要はないと思うのだが……そういえば、碧が結婚していない理由は聞いたことがなかった。
どうして、こんなことが気になってしまったのだろう。
それは九十九が、今更ながらに「結婚」というものを意識しはじめたからかもしれない。
九十九は湯築の巫女で、生まれたときにはシロとの結婚が決まった。婚儀は物心つかない時期に行われ、どういうものだったのか記憶にもない。
九十九にとっての結婚はそういうもので……当たり前に付随してきた。だから、特別意識する機会がなかったのだ。
シロとの夫婦関係を意識しはじめたのも、最近で。シロに対する感情が恋心だと気づいたころだ。その時期から、九十九はシロとの関係や、結婚について意識しはじめた。
ウエディングドレスを着てチャペルのヴァージンロードを歩き……それとも、白無垢での神前結婚……世間一般の結婚式は、九十九にはなかった行事だ。
なんだか、不思議。
シロとは気持ちも確かめあったけれど、未だに信じられない。
実感がなかった。
「いやいや、仕事仕事」
なに考えてるんだろう。
九十九は首を横にふって、思考を切り替えた。両頬を、ぱんぱんっと叩く。将崇ががんばっているのに、九十九が呆けてどうする。
必死に気持ちをリセットして、さあ行こう。隠神刑部は、石鎚の間に案内されている。
「失礼します」
石鎚の間へ着くと、九十九はいつもと同じく室内へ声をかけた。
「なんぞね」
声がしたので、九十九は中へと入る。
隠神刑部は座椅子で、テレビを見ていた。丸い身体が座椅子からはみ出て、もふもふの尻尾が揺れている。
隠神刑部はテレビの番組に夢中のようだったが、九十九の姿を見るなり表情を変えた。嬉しそうに、ふにゃりとやわらかくなる。
「お客様、改めてごあいさつします。若女将の湯築九十九と申します。ご宿泊のお世話をさせていただきます。なにかお困りごとやご要望がございましたら、お気軽にお申しつけください」
そう言って、三つ指をついて頭をさげる。
「ほうほう。めんこいねぇ」
九十九のあいさつを聞く隠神刑部は嬉しそうだった。
玄関で抱きつかれた件もあり、九十九は一瞬身構えてしまう。が、今回は平気そうだ……再犯があれば、どこかで見ているシロが即座に飛んできて、面倒なことになるだろう。それは、お客様のためにも避けたい。
隠神刑部は伊予八百八狸の総大将だ。松山城に住んでいたが、お家騒動に巻き込まれ、久谷の山へ封印されたという伝説がある。
だが、実際のところは違うと、九十九は将崇から聞いていた。
隠神刑部はその昔、湯築の巫女に一方的な恋慕を抱いていたらしい。贈り物をして気を惹こうとしたらしいのだが……湯築の巫女は、漏れなくシロの妻である。隠神刑部の恋は叶うことなく、ショックで自ら山へこもってしまった、というものだった。
湯築の巫女は神気が強い者が選ばれる。隠神刑部は、きっとその神気に惹かれたのだろう。そして、あえなく失恋した。
その話を知っているせいか、なんとなく、目の前のお客様には威厳がないように感じられてしまった。情けない、とまでは思っていないけれど……。
「顔よう見せてくれんかね。なんか、懐かしいわ」
隠神刑部は九十九の顔を観察しようと、座椅子から身を乗り出す。
「あのぉ……」
や、やりにくいなぁ……。
「少し、珠希に似とるん?」
珠希? 九十九は目を瞬かせた。
遅れて、自分のご先祖様――湯築の巫女の名だと認識する。隠神刑部がかつて恋したという、当時の巫女だ。
湯築屋ではお客様の来館が世代を跨ぐことも多い。そのため、かつての巫女の名を呼ぶお客様もいた。
「湯築の巫女を継ぎましたので」
「ほうやね。似た匂いがするわい」
隠神刑部はすんすんと鼻を動かしてみる。
「珠希はええ子やったよ。あんたみたいに、はきはきしゃべる美人やったわい」
「そうですか……」
「ほうやけど、やっぱり違うところも多いんやねぇ」
隠神刑部はしみじみと言いながら、テーブルに用意していた茶菓子に手を伸ばす。今日は道後夢菓子噺を用意していた。白鷺と椿をモチーフにした、可愛い桃山菓子である。甘くて可愛いが、甘すぎない素朴さが九十九も好きな和菓子だった。
九十九は呆けていたが、思い出したように煎茶の準備をする。
「さっきは、驚かせてしもうたけど、こうやって見ると違う子やわいね」
隠神刑部は、言いながら白鷺の菓子を口に放り入れた。とても幸せそうな顔で咀嚼する様を見ているだけで、ちょっと癒やされる。見目が丸いので、余計に。
九十九がお茶を出すと、それも、ずずずと美味しそうに飲んでくれた。
「珠希さんは、いい方だったんですか?」
「そりゃあもう。ええ子やったよ。あんなええ子は、なかなかおらんわい」
珠希を語る隠神刑部の口調は、思っていたよりも落ち着いていた。一方的な失恋で山へ籠もったと聞いていたので、九十九にとっては意外である。
「無念ではなかったんですか?」
将崇が「爺様の無念を晴らす!」と言っていたので、こういう聞き方になってしまった。隠神刑部は少しだけ目を見開いたが、やがて穏やかな表情で答える。
「あるにはあるけど……人間やけんね。もうおらんなったもんは、しょうがないわい」
あ。
その語り方に既視感を覚え、九十九は手を止める。
大切な人が、もういない。
同じ思いを抱えている神様を、九十九はよく知っていた。
「まー坊は息巻いて里を出て行ってしもうたけど、ワシは珠希がよかったんじゃ」
隠神刑部は懐かしむように、慈しむように笑いながら、どこか寂しそうだ。
「なかなか自分の名前も言えんでのう。それでも、ワシの贈った品を、珠希は必ず褒めてくれたんよ」
「素敵な人だったんですね」
「ほうやねぇ。ええ子やったよ。ワシが結婚しようって言っても、怒ったりせなんだわい」
隠神刑部は珠希にプロポーズしていたのか。それは意外だったので、九十九はびっくりしてしまった。結果はわかっているのだが……。
「そのときの顔がのう。なんとも言えんかったんよ」
「顔……表情ですか?」
九十九は、つい隠神刑部に聞き返した。ふぁ、隠神刑部はすぐには答えてくれない。
「ワシには、あれがどんな気持ちやったんか、ようわからん」
ようわからん。
わからなかった……ということか。
「ただ、〝もう結婚してるの〟とだけ。そのあと、初めて湯築の巫女は稲荷神の妻やと知ったから、悪いことをしてしもうたと後悔したんよ」
湯築の巫女に選ばれると、シロと結婚する。
九十九はシロが好きだ。シロも、九十九が好きだと言ってくれる。しかし、他の巫女たちがどうだったか、実のところ九十九は知らない。
ビジネスライクな関係で、シロをなんとも思っていなかったら……この婚姻は、幸せなのだろうか。登季子のように、別の男性と結婚してしまえる巫女など、そういないだろう。
「ワシはあの子を幸せにする方法が、わからんかった……松山を出たんは、もう関わらんほうがええと思ったからなんよ」
隠神刑部の言葉が、九十九の胸を締めつける。
「まー坊には、内緒にしといてくれぞなもし。こんなに情けない爺様は、見せれんけんね」
隠神刑部は、ニシシと笑って煎茶を美味しそうに飲んだ。彼が将崇に言ったことは事実だったが、きっと伝え方が違うのだろう。隠神刑部なりに、将崇の尊敬する「爺様」で在ろうとしている。
「かしこまりました。将崇君には、黙っておきます。今、とっておきのお料理を作っていますので、楽しみにしていてください」
「まー坊の料理か。里では、一番いもたきが上手かったんよ。楽しみやわい……と言っても、まだ人間の店なんぞ認めとらんけど」
「それは、将崇君のお料理を食べてから、ご判断ください」
急にぽこぽこと怒りはじめた隠神刑部の丸い背を、そっとなでた。隠神刑部は、とりあえず機嫌をなおしたようで、九十九の手にすりすりと頬ずりする。
「お夕飯の前に、入浴はいかでしょうか? 湯築屋は、道後の湯を引いております」
「おお。そうじゃのう。そうしようか」
そうと決まれば、と言わんばかりに隠神刑部は早速テレビを消した。九十九はクローゼットに用意された浴衣とタオルを湯籠に入れて、隠神刑部に持たせてあげる。




