5.お客様は――。
燈火とのティータイムを終えて湯築屋へ帰ると、いつもと違っていた。
「ただい……どうしたんですか? シロ様?」
従業員用の出入り口から入る九十九を、待ち構えるようにシロが立っていたのだ。普段は、あまりない。無意味に構って構ってと絡んでくることはあるが、帰りを待っていたのは初めてだ。
九十九は不審に思いながら、靴を脱ぐ。
「九十九」
「はい、なんでしょう」
首を傾げる九十九を、シロが真剣に見おろしている。なんだろう。なにか、大事な話でもありそうな雰囲気だ。
途端、シロの表情がフッと緩む。片目をパチリとウインクさせ、チュッと軽く指を当てた唇を鳴らした。投げキッスだ。え、投げキッスだよね?
「え……本当に、どうしたんですか? シロ様?」
思わず、本気でもう一度聞いてしまった。いや、シロはこれでもそうとうに顔がいいので、投げキッスはさすがに絵面がいい。しかしながら、「なぜ?」という不思議さのほうが勝ってしまった。
「な! こうすれば、九十九が喜ぶと聞いて」
九十九が思ったとおりの反応してくれず、シロは慌てた表情を浮かべた。そして、九十九は察する。この場合の「と聞いて」は、天照だ……。
九十九は大きな大きなため息をついた。
「だから、天照様には、もっとマトモなことを教えてもらってくださいよ……」
図星だったようで、シロは「な、なんだと……」と驚いている。絶対に、これは天照に遊ばれているのだ。面白がられている。きっと、今もこの様子をどこかから、こっそりと見ているのだろう。
これぞまさしく、暇を持て余した神々の遊戯だ。
「まったく……これからお仕事なんですから、ふざけないでくださいよ」
「ふざけてなどいない。儂は九十九に喜んでほしくて……!」
九十九はさっさと中へとあがる。もふもふと揺れるシロの大きな尻尾が邪魔なので、ペッと雑に手で避けた。
「儂は九十九に言いたいことがあるのだ」
けれども、シロは妙に食い下がった。九十九から相手にされず意地になっているが、ちょっと必死そうにも見える。
言いたいこと。それを聞いて、なぜだか、今朝の天照との会話を思い出した。本当に、どうしてかはわからないが、頭の中に浮かんでくる。
九十九の神気の特性について。
夜にでも、シロに聞くつもりだった。
もしかして、シロのほうから言ってくれるのだろうか。
九十九は、いつだって待ってきた。
今度はシロから打ち明けてくれるかもしれない。そう思うと、なにもしていないのに、じんわりと胸の奥が熱くなってきた。
「聞いてもいいですか?」
九十九は立ち止まり、シロのほうを向きなおった。
すると、シロも神妙な面持ちで応えてくれる。
「九十九のことだ」
どくん、と心臓が高く鳴った。九十九が期待していた言葉だ。
決して、色気のある話ではないのに、とても嬉しい。なにも聞く前から、先に「ありがとうございます」と言いかけた。
「それ、わたしも聞こうと思っていました」
なんとか、嬉しいという意図を伝えたかったが、これでいいだろうか。素っ気ない言葉を選んでしまった気がした。
しかし、シロはやわらかな微笑を浮かべる。
シャン、シャン。
と、ここで鈴の音が聞こえた。
お客様が湯築屋へ来館したのだ。今日のご予約は聞いていないので、飛び込みのご新規様だろう。湯築屋のお客様は、あまり予約しない。突然、ふらりと現われるお客様が多数だった。
九十九は戸惑いながら、玄関のほうを見る。今までなら、迷わず接客を優先していただろう。だが、せっかく、シロが九十九に話をしてくれようとしている……そう思うと、躊躇してしまった。
「行ってこい」
珍しく判断できずにいる九十九の背を、シロがポンッと押した。
身体が少しだけ前傾姿勢になる。すると、着物の裾がふわりと揺れた。今まで、洋服を着ていたはずなのに、九十九はいつの間にか、紅葉柄の着物をまとっている。シロが着させてくれたのだ。
スッと背筋を伸ばすと、金色の紅葉の髪飾りがしゃらりと鳴った。
「急ぎの用でもない。あとで聞かせてやる」
ちゃんとあとで続きを話す。そういう約束だった。
「ありがとうございます!」
九十九は大きくうなずきながら、玄関へと向かった。着物なので歩幅が狭くなるが、そこは慣れている。九十九はずっと、この湯築屋の若女将をしているのだから。
廊下をまっすぐ進んで、玄関が見えてくる。
ちょうど、玄関が開き、お客様が入ってくるところだった。いつものペースの感覚なら、門から玄関までのお客様の進む速さは、もう少し遅い。幻影だが、日本庭園や四季の花々が堪能できる庭を見ているからだ。今日のお客様は、ちょっとせっかちらしい。
九十九のほかに、従業員は辿り着いていない。
「いらっしゃいませ、お客様」
九十九は元気にあいさつしながら、玄関でお客様を迎えた。
お客様は大きなお腹を揺らし、老年男性の姿をしている。背が低いため、全体的にまんまるの印象だ。ほっぺたも、ほんのり赤くてツヤツヤしている。口にはしないが、愛嬌があるマスコットキャラクターのような見目だった。
「おお……おお!」
けれども、どうやら様子がおかしい。
お客様は、九十九の姿を見るなり、なぜだか大きな声をあげはじめた。目がうるみ、感極まっているように見える。なにが起こっているのかさっぱりわからず、九十九は眉間にしわを寄せてしまった。
次の瞬間、お客様の身体が跳ねた。跳びあがったというより、文字通り、ボールのようだ。
「巫女じゃわいー!」
「え、え、えええ! お客様ぁ!?」
突然で、九十九は反応できなかった。
お客様は、動けない九十九に、覆い被さるように抱きつく。ぎゅーっと、まんまるな身体が九十九を包むようだった。
ここで初めて気づいたのが、お客様に尻尾があるということだ。
もふもふで、ふさふさ。シロやコマとは違う。茶色くて、可愛らしい尻尾だった。
「お客様、もしかして……」
お客様は、狸だった。




