6.選択のとき
「天之御中主神様」
九十九はその名を呼び、スゥっと息を吐く。呼気が細く長くなるように心がけると、自然に鼓動がおちついてくる。そして、吸気がスムーズに肺に取り込まれていった。
顔をあげると、紫水晶のような瞳が見おろしていた。不思議に透き通り、魅入られてしまいそうだ。迷い込めば後戻りできない。そんな恐怖を感じる。
「一度、お話したいと思っていました」
今度は、大丈夫だ。
天之御中主神を前にしても、言葉を発することができた。
九十九は空気に呑まれぬよう、必死に背筋を伸ばす。もちろん、虚勢だ。九十九には抵抗の術などないが、だからと言って萎縮していては話もできない。
天之御中主神が薄く笑う。
『我の巫女となる気になったか?』
やはり、九十九を試すような問いだった。
間違えたら、どうしよう……。
怖くてたまらなくなってしまう。
「それは……正直なところ、わたしには答えが出せません」
だが、九十九には正しい解を出す自信がなかった。自分が絶対に間違えていないと、胸を張れないのだ。
「天之御中主神様はシロ様に役目を押しつけている気がします。実際に長い時間を過ごしているのはシロ様で……ずっと、役割を放棄しているじゃないですか。それで、今度はわたしに巫女となれと言うのは、どういうおつもりなのか知りたいと思いました」
正解は出せない。
九十九の虚勢など、見透かされているだろう。
嘘を言えば、きっと見破られる。
だったら、正直に言うしかない。
逆鱗に触れてしまうだろうか。しかし、九十九には天之御中主神が自分を害するようには思えなかったのだ。
『我に問うか』
天之御中主神は興味深そうに九十九をながめ、自らの顎に触れた。意外、という反応だ。
『月子に似ているような、まったく異質のような……其方は難解な女だの』
そんなに難解だろうか。九十九は眉を寄せてしまった。
『どういうつもりか。我は其方の欲する選択肢を与えたつもりであったが。其の結果に対する責を負うのは我ではない。無論、決断するのも――我が決める事柄ではないのだ』
気まぐれ。戯れ。そのような言葉が透けて見えてきた。さして意味はなく、すべては些事だと言いたげだ。
天之御中主神らしい、というより、神様らしい返答だと感じる。
それをおかしいとも思っていない。丸投げだとか、怠惰だとか、そう感じる感性がないのだ。
天之御中主神は常に自分を物事の外側に置いている。
誰かに選択を迫るが、自身では決めない。
それが天之御中主神の在り方だからだ。原初より世に出で、終焉まで見守るのが役目の神様。自ら事を成すのではなく、助力し、選択を迫り、災いももたらす。
実には神様らしい思考であった。
この神に、九十九の問いは無意味であるとわからされる。
『我は其方が望むものを与えようと言っておるだけだ』
この言葉に他意はないのだろう。この神は、与えた選択肢に対して起こった物事を、ただ見ているだけなのだ。
その責を問うた唯一の人間が月子であった。それだけだ。
九十九は月子にはなれない。あんなに強くなんかない。
「わたしは……」
九十九はシロが好きだ。
どうしようもない駄目夫で、だらしがない。神様の威厳も、ときどきしかない。旅館を手伝わずに、いつもテレビばかり見ている。
それでも、ふとした瞬間、九十九はいつもシロのことを考えていた。今、このときだって、ずっとシロについて考えている。そして、そんな自分が、九十九はなぜか嫌いではなかった。
シロとずっと一緒にいたい。
――また置いて逝かれるのは、嫌だ。
シロを独りになんてしたくない。
月子がいなくなってから、九十九に出会うまで、彼はずっと孤独だった。永いときを孤独に過ごしてきたのだ。
湯築屋があっても。代々の巫女がいても……。
天之御中主神の巫女になれば、シロを独りにしなくてもいい。シロを困らせるし、もしかすると、怒らせてしまうかもしれないが……それ以上の魅力がある選択だとも思えていた。
九十九が永遠に生きるなら、湯築の巫女を代々継がなくてもいい。登季子のように、巫女とならない道を選び、悔いることもなくなるだろう。
とても合理的な選択肢を提示されている。
「選べません」
選べない。
選んでしまうと、九十九は人ではなくなってしまう。
その選択を誰が喜んでくれるだろう。登季子や幸一は、どう感じるだろう。京や小夜子、燈火とは、どうやって接すればいい。
シロは独りにならないかもしれない。
でも、九十九はシロ以外のなにもかも一切を捨てなければならなかった。
そのような選択は……できない。
だが、断れもしなかった。
九十九には、選べないのだ。
『そうか』
つまらない。興ざめした。
そう言いたげな顔で、天之御中主神は息をつく。
『まあよい。気が向いたら呼べ』
言いながら、天之御中主神は九十九の髪に触れる。
しゅるりと、簪を引き抜かれてしまった。長い髪が肩に落ちて広がる。そのひと房を指ですくいあげた。
天之御中主神がすくった髪が途中で切れてしまう。刃物を使ったわけではなく、まるで、クリームが溶けるような自然さであった。
切られた毛先が、ふわりと舞いあがるように散る。風もないのに、ひらりひらりと漂い、やがて、真っ白い羽根へと変化していく。その羽根が天之御中主神の手の中に集まり、一つの形となっていく。
純白の肌守りだった。
九十九がシロの髪をおさめている肌守りと、対になるような意匠に感じる。
天之御中主神は肌守りを九十九ににぎらせた。
「あの、これ……」
強い神気を感じた。
シロのものではない。
天之御中主神でもなかった。
九十九自身の神気が込められている。
「九十九」
問いに答えたのは、天之御中主神ではなかった。
琥珀色の瞳が不思議そうに、九十九をのぞき込んでいる。
「シロ様……ですね」
天之御中主神は、またさがってしまったようだ。
シロは不思議そうに九十九を見ていた。が、やがて状況を把握したのか、表情を曇らせていく。
「儂ではなかったのだな」
九十九は肯定の言葉を発しなかったが、悟ったらしい。不快感をあらわにしながら、自分の手におさまった九十九の簪を見おろしている。
「すまぬ」
「どうして謝るんですか……」
質問に答える代わりに、シロは九十九の髪に触れる。それだけで、解けていた髪があっという間にまとまっていく。最後に、簪を差してくれた。
ただ、天之御中主神に切られたひと房だけは、短くておさまらない。
「九十九」
頭に、シロが唇を押し当てる。
短くなった髪にキスしているのだと、すぐにわかった。
「シロ様」
九十九は逃げずに、シロの頭をなでた。少し屈んでいたので、容易に手が届く。
絹のような髪がさらさらとしていて気持ちがいい。頭の耳に触れると、ぴくりと動く。
九十九には選べない。
この時間を永遠に過ごすべきなのか。
それとも、シロを置いていくべきなのか。
シロに決めてもらえば、すっきりするのだろうか――。
シロが選んでくれれば、九十九は納得できるのか。
だが、それも違うと感じる。
他者に決められた選択を、易々と自分が納得できるとは思えない。
絶対に後悔が残る。
この選択はシロに委ねるべきではない。
九十九自身が選び、納得するしかないのだ。
明日、11月12日に第6巻発売予定です。
ついに6巻です。
なんとなmく、大学生編はじまる!という感じになっていますが、やはり続いていくかは紙の本の売り上げ次第ですので、何卒よろしくおねがいします。




