10.神からの問い
翌朝。
「お世話になりました」
九十九が朝餉の膳をさげに行くと、アグニが律儀に頭をさげてくれた。お客様からこんなにていねいにお辞儀されると、逆に九十九は居心地が悪くなってしまう。
「また来てくださいね」
九十九が微笑むと、アグニは顔をあげる。
昨夜の花火(?)大会では、思いっきり庭を燃やしていた彼だが、今は穏やかさを取り戻していた。いつもの黒縁眼鏡と、おちついた色のシャツを身につけている。
ちなみに、あれだけ派手にやったが、庭の被害は一切ない。すべてシロの幻影なので、当たり前か。一夜明けると元通りであった。もちろん、湯築屋にも傷一つない。いつもどおりの朝であった。
アグニの内向的な雰囲気は、前日と変わっていない。神様らしい覇気もなく、やはり「凡庸」であった。
だが、ちょっとばかり空気が違う。
なにかが明確に変わったということはないが……楽しそうだと感じた。どことなく沈んでいた雰囲気が、軽くなったと思う。誤差かもしれないが、アグニの顔が晴れやかに見えたのだ。
神様にも、抱えるものはある。それは様々で、単純ではないことが多い。
けれども、一部でも湯築屋が役に立てたなら、九十九は嬉しかった。
「久しぶりに、発散できた気がします」
アグニはそう行って、はにかんでくれる。
「神話の時代とは、もう違う。割り切っているのですが、自身で思っていたよりも抱えていたのかも」
神話の時代とは、もう違う。
その言葉が妙に引っかかった。
神様と人が、もっと親密だった時代がある。彼らが今よりも人から畏れられ、信仰が強かった時代。そして、神様も人を愛し、関わり、大きな影響を与えていた。
今よりも、もっと垣根が低く、境目があいまいだったのかもしれない。九十九は真っ先に月子のことを思い出してしまう。
そういう時代と、現代は違う。
移りゆく時代と変化に、神様たちも戸惑っている。特に古い神様はそうなのかもしれない。
「また来ます」
本当にアグニの役に立てただろうか。
だが、九十九はそう信じたかった。
「ぜひ、また」
深々と頭をさげながら、九十九はお客様の再訪をねがうのだった。
昼間のうちに、アグニやシヴァは湯築屋を去る。
登季子もゆっくりと間を置かずに、また営業へ行ってしまった。飛び回るほうが性にあっているらしく、元気に「次はイラクにでも行こうと思って!」とのこと。メソポタミア神話の神々が目当てだとすぐにわかったが……いくらなんでも、アクティブすぎる。
そんなこんなで、一段落。
九十九は「ふぅ」と、縁側で背伸びをする。昨夜の光景は物凄かったが、その痕跡はどこにもない。
とてつもなかった気がするが……なんだか、楽しかったなぁ。
しみじみと、九十九は縁側に腰をおろした。足をぶらんぶらんと揺らしながら、藍色の空を見あげる。
「シロ様」
いますよね?
当然のように呼びかけてみた。
「嗚呼」
ごく自然な返答がある。
ほどなくして、隣にシロが座る気配を感じた。九十九が隣を見ると、やはりそこにはシロがいる。
「珍しいではないか」
「別に、シロ様を呼ぶのは珍しくないと思いますけど……?」
「否、用事もなく呼ばれるのは珍しい」
用事もなく……そういえば、九十九はどうしてシロの名を呼んでみたのだろう。たいてい、なにか頼みごとをしたり、話があるときだ。
一緒にてほしかったんです。
そんな言葉が浮かんできて、今更、恥ずかしくなってくる。
「用事もないのに呼んじゃ駄目なんですか。まるで、わたしがシロ様を顎で使っているみたいじゃないですか」
苦し紛れに意地を張ってみるが、なんだか違う気がした。
あーあ、もっと素直になりたいのに。
「顎で使うときしか呼ばれぬものだと思っておった」
「……あながち、間違いでもない気がしてきました」
「そうであろう?」
「そうですね……」
「だから、九十九が儂とイチャイチャするために呼んでくれたのは嬉しい」
「どうして、そっちへ持っていこうとするんですか」
油断も隙もない。また過剰なスキンシップを求めてくる気だ。
「ちょっと一緒にいたかっただけです……」
あ、言っちゃった。
九十九は心中で「やらかした……」と自覚しつつ、なぜだか再び口を開いてしまっていた。
「座ってお話してるだけじゃ駄目ですか?」
なにをしたいわけでもない。
ただ一緒にいたいだけ。
それはシロにとって不満だろうか?
「ふむ……」
シロは顎に手を当て、考える素振りをする。しかし、身体のうしろでは狐の尻尾がベシベシと縁側を叩いていた。
わ、わかりやすいなぁ……。
「九十九がそう言うなら、儂もそれでよいぞ」
「ありがとうございます」
表情はクールっぽいのに、尻尾が嬉しそうに反応している。頭のうえにのった耳も、ピクピクと動いていた。
シロの尻尾が左右に揺れるたび、手持ち無沙汰な九十九の手に当たる。もふもふとした毛並みが非常に気持ちがいい。九十九は思わず、白い尻尾をなでてしまった。
もふもふでもあるが、毛の一本一本が長くて滑らかな手触りだ。小さいころは、ここに頬ずりして昼寝をしていた。
シロもそのころを思い出しているのか、優しい表情で九十九の頭をなでる。小さな子供に対するそれだ。だが、悪い気はしない。
『欲しいか?』
なにを?
九十九は唐突に投げられた問いの意味がわからず、改めてシロを見あげた。
おかしい。
「…………!」
シロ様じゃない。
紫水晶のような瞳が、こちらを見ていた。絹のような白い髪は、深い墨の色に。背中で揺れていたはずの尻尾は消え、真っ白な翼が確認できる。
「天之御中主神様」
その名を呼ぶと――天之御中主神は薄ら笑う。
ようやく、話ができる。九十九は息を呑み、背筋を伸ばした。だが、心がまったく準備できていない。緊張で心臓の音が耳元まで聞こえ、背中に汗が伝った。
『悠久のときが欲しいか』
九十九は眉を寄せる。悠久……永遠?
天之御中主神の問いがわからない――いや、わかる。どうして、それを投げかけるのかも、九十九は理解してしまった。
九十九が永遠を手に入れれば、シロとずっと一緒にいられる。
世の終焉まで生きるシロを孤独にせずに済む。
『我の巫女となれば』
天之御中主神は九十九に選択を迫っているのだとわかった。シロや月子にしたのと同じように。
手が震えていた。
九十九には、月子のような気丈さなんてない。
天之御中主神の問いに、ただただ竦むように震える手を押さえた。
「それって……」
でも、なにか言わなきゃ。震えてるだけじゃ駄目だ。
九十九は天之御中主神との対話を望んでいた。やっと機会が巡ってきたのだから、ここで震えるわけにはいかない。
でも、唇が上手く動かなかった。
天之御中主神の巫女となり、永遠を手に入れる――それは、九十九に人をやめろと迫る選択だ。
九十九の思考を読んでいるかのように、天之御中主神は唇に弧を描く。シロとはまったく違う表情だ。
愉しんでる。
九十九が畏れる様子を見て愉しんでいるようだ。
怖い。
九十九は耐えられず、下を向いてしまう。両手が震えて、抑えられなくなっていた。どうしようもなくて、ただ小さくなるしかない。
そんな九十九の手に、別の手が触れる。
「…………!」
九十九はとっさに、その手を払いのけてしまった。
「九十九?」
しかし、すぐに気づいた。
琥珀色の瞳が、九十九を心配そうにのぞき込んでいる。肩から絹束のような白い髪がこぼれた。
シロだ。
なにが起こったのか理解していないようだった。シロと天之御中主神が入れ替わるとき。シロにはその自覚や記憶がないことがある。今回も、そのようだった。
「九十九、大丈夫か?」
また機会を逃してしまった。せっかく、天之御中主神と対面したのに、九十九はなにも言えないまま黙っていた。
後悔があとから押し寄せる。
けれども、それ以上に天之御中主神の問いが頭に残っていた。
あの問いは……。
「大丈夫です……すみません、疲れてるみたいです」
九十九は弱々しく笑いながら立ちあがる。
シロには気づかれたくない。
そう感じてしまった。
11月12日発売予定の第6巻では、こちらの章は大部分書き直されています。ご了承ください。
とりあえず、アグニの性格が180度変わったのにあわせて、シヴァの要求内容も変化しています。火除け地蔵vsアグニも別の戦いになり、九十九の関わり方も違います。また、ここで九十九本人の能力に関する大事な伏線を作っていますが……こちら、また別の章でweb版にもそれっぽく入れて行けたらいいなぁと思っています。
とにかくちょっと……初稿が上手く書けなかったのです……(言い訳
改稿したら、かなりバチッといい感じになった気がするので、初稿はweb版として供養しています。




