8.思いっきり、どうぞ!
ひゅー…………どんっ!
糸を引くような火の玉があがったかと思うと、高い位置で大きく弾ける。藍色の空に大輪の花が咲いた。かと思うと、次々と別の花火があがっていく。
雲も月もない、湯築屋の空に光る花火は美しくて。
キラキラと煌めく星くずが落ちてきそうだった。
煙の影は見えない。音が鳴ったあととの響くような空気の振動も、火薬の匂いも流れてこない。
ただただ綺麗で、ただただ綺麗で。
シロが作り出した夢のような幻だ。
花火だけではない。ここにあるものは、現実と区別がつかぬほど精巧だが、現実ではあり得ないほど美しかった。
九十九は空にあがった花火を見あげて、ぼんやりと動きを止めてしまう。だが、すぐにお料理の片づけをしている最中だと思い出す。
岩牡蠣も、手鞠寿司も大好評だった。
シヴァなどは生の魚を食べるのに難色を示していたが、すぐにおかわりを要求したほどだ。生魚に馴染みがない外国の神様は多い。
「昨今はスシを出す店も増えてきたが、なかなか食べる気にならねば行かぬからな」
食器を片づけていると、シヴァが満足そうに話しかけてくれた。目の前に置いた大皿には、山盛りの柴漬けがある。シヴァのお気に入りだ。ぽりぽりとつまみながら、花火見物に興じていた。
「特にシヴァ様は普段、山ごもりしてるからねぇ!」
登季子が陽気に笑った。シヴァに営業して、湯築屋へ連れてきたのは彼女である。
話を聞いたことがあるが、登季子の営業はときどき九十九の想像を絶するものだった。シヴァはヒマラヤ山脈のカイラス山の洞窟に住んでおり、普段は人間の領域に現れない。この山は聖地であり、日本人の登季子は入るのも一苦労したという。
「崖を一人でのぼって、やっとこさ辿りついたと思ったら、眷属さんと決闘させられてさぁ。大変だったのなんのって……」
「呵呵! なにを。そのあとも元気に宿の売り込みをしておったではないか。あのような場所までなにをしに来たかと思えば……登季子でなければ、我は山をおりようとは思わなかっただろうよ」
「あら、そりゃあ嬉しいねぇ。苦労した甲斐があったってもんですよ」
「なかなかどうして面白い母娘だ。でなければ、我の再来などあり得ぬ」
神様は人里から離れて暮らしていることも多い。会うだけで苦労するケースも多いだろう。毎回、営業に成功するとも限らない。また、彼らは気まぐれだ。「行く」という約束が数年後、十年後、百年後になる場合もあるだろう。
登季子は海外を飛び回り、普通では湯築屋へ来ないようなお客様を連れてくる。海外旅行などという生ぬるいものではないはずだ。
「つーちゃん」
登季子は器を片づける九十九に手を重ねる。
「こっちはまかせて」
広間の片づけは登季子にまかせてもいいということだった。九十九は戸惑うが、今日は幻影の花火だけではないのだ。
登季子のうしろを通りながら、仲居頭の碧も頭をさげた。
「ありがとう、お母さん。あとね」
「デザートにスイカも出すんだろう? コウちゃんから聞いてるよ。小夜子ちゃんと、コマにも伝えておいで」
「うん、本当にありがとう」
登季子は普段、営業でほとんど湯築屋へ帰ってこない。それでも、湯築屋は従業員だけで回っている。
だが、登季子が湯築屋にいてくれると、とても頼もしい。
「アグニ様のこともいいけど、シロ様ともいい雰囲気にするんだよ?」
不意に登季子は九十九に、そんな耳打ちをした。
「え、え、えええ……!」
突然すぎて、九十九は顔を赤くしてしまう。もういい加減に、こういうのにも慣れたほうがいいと思うのだが……そのせいで、いろいろ面白がられている気がするし。
とにかく、ここは登季子と碧にまかせよう。
九十九は小夜子とコマにも声をかけた。昼間に買ってきた手持ち花火を出して準備をはじめる。
ろうそくやバケツを用意しながら、九十九は縁側に座ったアグニを見た。
のんびりしている、と言えば聞こえがいい。
実際は、ぼんやりと幻影の花火をながめている。なにか考えごとをしているようには見えない。なんとなく、空っぽの気がした。
神様だって、多種多様で案外人間くさい。一癖も二癖もあり、一筋縄ではいかないものだ。
しかし……やはり、アグニのような神様を、九十九は見たことがない。
「アグニ様」
声をかけると、アグニはきちんと九十九のほうを向いて愛想笑いを返してくれる。
九十九は手持ち花火を手渡した。
「花火、お好きですか?」
アグニはしばらく手持ち花火を見ていたが、やがて受けとってくれた。
「……好きかな」
声は静かで、あまり感情が表に出ていなかった。
「花火は……好きですね」
もう一度、今度は噛みしめるようだった。
アグニは火の神だ。自然界の火だけではなく、身体や心の火も内包する。あらゆる火の神だった。
彼が生まれるとき、その熱い炎をまとい、両親を食い殺したとも言われている。日本神話の火之迦具土神にも似たようなエピソードがあった。世界の神話には、似たようなものも多い。
アグニは元来……今のような性格ではなかったのではないか。それは、シヴァの要望からも、そうではないかと推察できた。
「わあーっ!」
庭で、小夜子とコマが花火をはじめていた。地面に置いた噴出花火がバチバチと火花をあげている。まるで、地面から出てくるシャワーのようだ。
コマがぴょんぴょん飛び跳ねている。両手に手持ち花火を持ったままなので、ちょっと危ない。
獣は火が嫌いだと言うが……妖の類に関しては例外かもしれない。それにコマは化け狐で、湯築屋で働いている。お膳についた固形燃料に火をつける機会も多いのだ。たぶん……。
庭はあっという間に、火薬の匂いで立ち込めた。白い煙が漂ってくる。
花火らしい光景だった。
小夜子はどんどんと、並べた噴出花火やパラシュート花火の導火線に火をつけていく。やはり、小夜子は派手な花火が好きみたいだ。
けれども、煙が充満しすぎ? 九十九は少しばかり咳き込んでしまった。
「今年はにぎやかなことだ」
ふわっと、風が吹いた。
途端に滞留していた煙が、流されるように消えていく。
「シロ様」
気がつくと、シロが九十九の隣に立っていた。彼が庭に風を起こし、煙を流してくれたのだ。
ここは、シロの匙加減でたいていのことが実現してしまう。
「此処はいくら燃やしても焼け落ちぬ。自由に過ごしてもよいのだぞ?」
シロはアグニにそのような言葉をかけた。
アグニは眉を寄せ、シロを見あげている。眼鏡の奥にある眼はよく見ると、火のように赤い。
その瞬間だけ、九十九はアグニに視線を引き寄せられた。なぜだかわからない。だが、彼を見ずにはいられなかったのだ。
この感じ……神様だ。
今まで感じられなかった覇気や自我のようなものが、一瞬だけ見えた。と言っても、すぐに消えてしまったのだが。
「あれ?」
不意に、庭で花火をしていた小夜子が首を傾げた。手にしていたのは、太めの噴出花火だ。設置型ではなく、手で持つタイプである。
「小夜子ちゃん、どうしたの?」
「火をつけたはずなのに、消えちゃって? 何回もやってるんだけど……湿気っちゃってるのかな?」
小夜子は困った素振りで花火を観察していた。「これ、結構派手で楽しそうなのに……」と、残念そうだ。
「わーい……あれ?」
手持ち花火で遊んでいたコマも、「なにかおかしい」と言いたげだった。つけたばかりの花火がもう消えている。
湿気? でも、さっきまでは、あんなに……。
「ねえ、そこの火神さん」
微妙な空気がおり、静かになった庭に笑い声が聞こえる。
縁側に腰かけた火除け地蔵だった。
足を組んでいるせいか、華やかな色合いの浴衣の間から、形のよい足が見えている。とても扇情的で色香があるが……声は男らしかった。
「火をつけてくれないかしら?」
まるでアグニを挑発するような言い草だった。
そして、九十九は理解する。
花火を消したのは、火除け地蔵だ。
しかし、なんのために?
「なぜ?」
アグニは平坦な声で問う。
火除け地蔵の紅い唇が優美に弧を描いた。
「燻ってるんでしょう?」
――中で、ちょっと燻っているみたいだわ。
湯築屋に入る前、火除け地蔵が言っていたのを思い出す。
瞬間、九十九は動いた。一番近くにあった手持ち花火をつかみ、ライターで火をつける。中の火薬に火がつくと、すぐに花火が噴き出てくる。
「ねえってば」
しかし、火除け地蔵が指さした途端、九十九の花火も消えてしまった。
火除け地蔵はさらに挑発的な態度でアグニに呼びかける。
「アグニ様」
すかさず、九十九は別の花火をアグニの前に差し出す。アグニは縁側に座ったまま、困った顔で九十九を見あげていた。
「火をいただけませんか?」
これがシヴァの言っている「アグニのねがい」なのかは、わからない。
だが、やれるだけやろうと思ったのだ。
……意図せず、火除け地蔵に頼ってしまう形になるが。
「…………」
アグニはうつむき、眼鏡を指で押しあげた。
そして、手に持っていた花火の筒を折る。中から火薬の粉がサラサラと流れ出て、アグニの両手にこぼれた。
ほどなくして、バチバチと火花があがった。筒の外に出た火薬に、火が引火したのだ。火元は……アグニだった。
「いいですよ」
アグニは九十九が持っていた花火も奪うように受けとる。
今度は立ちあがりながら強くふると、空中に火薬が舞った。彼を囲むように火花が散り、まるで光を纏っているようだ。
なんて綺麗なんだろう。
普通の花火とは違う。
シロの幻影とも違う。
だが、神々しくて、美しくて、目映い煌めきだった。
「ふうん」
火除け地蔵は興味深そうに微笑んだ。すると、瞬く間にアグニを囲っていた火薬の火花が消えてしまう。
「もっと、やれるんでしょ?」
おいでおいで。と、火除け地蔵が手招きする。
アグニは不服そうに口を曲げていたが、やがて、片手で眼鏡のフレームをつまみ、投げ捨てるように外した。
すると、今度はアグニの足元から、火薬もないのに火の手があがる。焚き火のような火は、やがて大きな炎の渦となっていく。
アグニのねがい。
それは火除け地蔵が指摘した「燻り」なのではないか。
インド神話におけるアグニの地位は最高神と並ぶものであった。時代がくだるにつれて影響力を失っていき、今に至る神だ。
そのことに不満はないのだと思う。アグニは時代と人々を受け入れ、永いときを過ごしてきたのだ。
穏やかに神として過ごそう。信仰の在り方を見守ろう。そのような心持ちだったのかもしれない。次第に神としての覇気が薄れ、今のようになっていったのだ。
だが、彼は元来、苛烈な神であった。
本心とは裏腹に、本能は残されていたのかもしれない。だが、見守る立場となった彼に、発露の場はなかった。
「お客様!」
九十九はアグニに聞こえるよう、声を張りあげた。
「ここなら……湯築屋なら、燃えません! お庭も再生します! どれだけ力を出したって、結界は壊れません!」
湯築屋の結界では、シロが絶対の存在だ。ここでは、どのような神も力を制限され、無力となる……だが、その調整できるのだ。
現に、シロの結界内においても、アグニは力を発現していた。これは、シロがアグニの神気を制限していないからだ。
本来、お客様の神気は大幅に制限されている。
「思いっきり、いいですよ!」




