3.考えごとは、温泉で
しかし、どうしたものか。
九十九は考えながら、湯船に顔の下半分を沈める。
お客様があまり入らない時間帯だ。誰もいない露天風呂で、九十九はシヴァの要望にどうやって応えればいいのか悩んでいた。
アグニの望みがなんなのか、それをまず知らなくてはならない。
おそらく、本人は教えてくれないだろう。そもそも、本人にもわからないかもしれなかった。
夕餉の配膳のとき、それとなくアグニと会話してみたが、駄目だ。つかみどころがないというか、本心を見せてくれない気がした。距離をとられているというか、懐に入れてくれないという感覚だ。
安請け合いだろうか。
だが、九十九はやってみたいと思っている。
気持ちだけでは、どうにもならないのだが……。
アグニはインド神話で最も古くから信仰される神の一柱だ。あらゆる火が、彼に紐付けられると信じられてきた。最古の聖典『リグ・ヴェーダ』においては、雷神インドラの次に讃美されている。
誕生後、すぐに両親を食い殺したという説もあり、神話に語られるアグニはどちらかというと苛烈で勇猛な神という印象だ。湯築屋に訪れた彼とは乖離している。もちろん、神様が神話から受ける印象とまったく違うというケースは多い。シヴァなどは、比較的そのままだが。
だが、引っかかるのは……アグニは後世になるにつれ、影響力が薄れる神でもあった。時代によって、信仰の在り方が変わるのは珍しくない。堕神になるようなことはないだろうが、今ではあまり信仰されない神様だという。
アグニには、神様らしい覇気がない。
原因があるとすれば、ここだろうか? しかし、どう解決すればいいのかわからない。この問題は何年も、いいや、何百年、何千年と抱えてきたはずだ。九十九や湯築屋が一朝一夕で解決できる問題とも思えなかった。
神々は絶大な力を持っている。
しかし一方で、人々の信仰によって、力や存在が揺らいでしまう脆さもあった。神々は人間を虐げても、従えてもいないのだ。
相互に関係している。
いわば、隣人のような存在だと、九十九は思っている。
だからこそ、お客様として全力のおもてなしをしたいのだ。それが九十九の精一杯なのである。
アグニにとっての最善はなにか。
考えないと。
「うー……ん」
九十九は湯の中で背伸びする。
湯築屋には道後温泉の湯を引いている。
温度は道後温泉本館とあわせて、熱めだ。少し湯船につかっているだけで、たくさん汗をかく。掌に湯をすくうと、ややとろみがあって肌当たりがいい。
道後温泉の湯には神気が宿っている。神様や妖の神気を癒やしてくれるのだ。しかし、そればかりではなく、人間にもきちんと効能がある。神経痛やリウマチ、貧血、痛風なぢが改善されると言われていた。
九十九には、それらの疾患がないが、湯上がりは肌がしっとりとして気持ちがいいのだ。汗をたくさんかくので、さっぱりと爽やか。毛穴から老廃物が排出されているという実感があった。
お風呂に入ると、頭もすっきりすることがある。
しかし、残念ながら今は妙案がおりてこなかった。困ってしまう。
「つーちゃん」
名前を呼ばれた。
九十九は一旦、考えるのをやめて、浴場を見渡す。薄く立ち込めた湯気の中を、影がこちらへ歩いてくる。
「お母さん」
女将の登季子だった。
「どうだい、お客様のご様子は?」
登季子はそう問いながら、九十九の隣に来る。湯船に入る足がすらっと長くて、年齢をあまり感じさせない。自分の母親ながらに、とても綺麗な人だと感じる。
「うん、まあ……」
「むずかしい?」
今回は、そうかもしれない。なにせ、要望の糸口がわからないのである。
九十九は登季子の意見も仰ごうと経緯を説明した。シヴァからの要求や、アグニに対する印象、諸々。登季子はそれらを聞きながら、「あー、うん。たしかにねぇ?」と腕組みをしてしまう。
「なんか、一緒に来るって決まったときも、あまり乗り気じゃなかったというか、シヴァ様に流されるような? そういう感じだったねぇ。神様らしくないのは、たしかにそうかもしれない」
登季子も似たようなことを感じていたようだ。九十九に同意しながら、一緒に考えてくれようとする。
「自信がない、とか?」
「それはありそうだけど、しょうがない気がするよ? 神様に自信をつけていただこうと思ったら、そもそも信者を増やす方向の努力が必要だ。それは、あたしらの領分じゃないよ」
たしかに。登季子の言うとおりだった。
もっと、別のなにか……。
「火は好きそうだけどね。やっぱり、火神だろ? 花火とか喜びそうじゃないかい? インドの花火はすごいよ。爆竹もガンガン鳴らしてさ。祭りの日なんて、眠れやしないよ」
「花火……」
夏と言えば、花火の季節だ。
道後温泉地区には花火大会はない。三津浜の花火大会があるので、それを遠目にながめる。
日本での花火は神を崇めるものではなく、先祖を供養するためのものである。しかし、日本の花火を希望するお客様も多い。花火は風物詩であり文化にしっかりと根づいているのだ。
宿泊するお客様や、この界隈にいる神様たちのために、湯築屋では毎年花火大会を行っていた。と言っても、シロが空に幻影を打ち上げるのだが。
それでも、雰囲気を楽しむために神様たちが集まってくる。
予定では……明日だ。
「花火を見ながら、少し語らってみたらどうだい?」
笑って、登季子は九十九の肩に手を置いた。
それでアグニの心が解けるとは思えない。だが、なにかの糸口にはなるかもしれなかった。
「いっそ、爆竹たくさん買ってくる?」
「いや、それはさすがに……」
「派手に! 湯築屋には燃え移ったりしないんだからさ」
「いやいやいや、他のお客様だっているし?」
「案外、喜ぶかもしれないよ? ツバキさん辺りも来るだろうし」
「それはそうかもしれないけど……手持ち花火をたくさん買ってみようかな? 日本の神様も爆竹が好きかわからないし……」
「そういうもんかい?」
「そ、そうだと思うけど……?」
いくら湯築屋はシロが管理しているから燃えないと言っても、扱ったことがないものは危険だと思う。ここは、手持ち花火でいこう。たぶん……爆竹なんて使ったら、コマが小さくなって隠れてしまう。
「たくさん買って来な」
「うん」
こういう花火も、悪くないだろう。
なにか、わかればいいのだけど……。




