4.探し物はなんですか?
波の音が、さわさわと。
暗い夜の海に、一人。
美しい姫君が立っていた。
しなやかな黒髪は闇に溶けそうで。しかし、月明かりに照らされて艶やかに。
紅い衣の着物が波にさらされることも厭わず、姫君はそこに立ち尽くしていた。
「赤い蟹が一匹……二匹……」
歌うように美しい声で数えているのは、足元を這う赤い蟹。
姫君は楽しげに蟹を見下ろしている。だが、その表情は見えない。顔を能面が覆っており、どんな顔をしているのかわからなかった。
しかし、美しい声は次第に崩れ、悲哀に暮れる。
「赤は良い……赤は……嗚呼、何処かに――何処かに!」
唐突に声を荒げ、姫君は別のものを探し始める。
まるで、なにかに憑りつかれたかのように。
いったい、なにがあったのか。
叫びながら、姫君は海の中へと歩んでいった。黒い沼のような冷たい海へ。叫びも波音にかき消され、美しい赤の姫は塗り潰されていく。
「白い蟹を見つけたら、教えてね」
「――――!?」
背後に気配を感じて、九十九は弾かれるように振り返る。
けれども、目を見開いた視界に飛び込んだのは、暗い海辺ではなく――見慣れた天井であった。
「つーちゃん!」
叫び声と共に、身体を抱きしめられる感覚。
温かくて、柔らかい。だが、力強い。
「お母さん……?」
九十九はようやく口を開き、周りの状況を把握しようと努めた。
畳の部屋に置かれている調度品には見覚えがある。
古びた箪笥の上に置かれた写真は、小学校の修学旅行のもの。立派な柱にかかっている時計は似合わないピンクのハートだ。窓ガラスには、100均で買ったガラスステッカーが貼ってあり、壁には好きな漫画のカレンダー。
九十九の自室だ。
布団の傍らには母である登季子がいる。子狐のコマが「幸一様ぁ!」と、慌てて父を呼びに走る音も聞こえた。
「わたし、確か外出中……あれ? 京は?」
「京ちゃんは、さっきご両親が連れて帰ったよ。とりあえず、術はかけたから今日のことは忘れてくれてるはずさ」
「今日のこと……?」
言われて、ぼんやりと思い出す。
ああ、そうか。九十九は五色浜まで出掛けていた。確か、宿題の取材だったか。
だんだん記憶が鮮明になるにつれて、わからないことも浮かんでいった。
あの強い瘴気は、なんだったのか。
一瞬見えた白い蟹は……。
そういえば。
「ねえ」
どうして、九十九はここにいるのだろう。
誰が運んでくれた?
「お母さん、シロ様は?」
こういうとき、たいていシロは九十九の傍にいる。
うるさいくらい心配して、鬱陶しいくらいスキンシップを求めてくる。そういうパターンだ。
なのに、部屋の中は静かで。
「つーちゃん。シロ様は……その、なんだ……ちょっと調子が悪くてね」
「え?」
妙だ。
登季子は九十九から目線を外し、気まずそうにしていた。母がこういう反応をするときは、わかりやすく嘘をついている。
「どうして?」
「油揚げの食べ過ぎで……」
「もっとマシな嘘ついて。あっちにいるんでしょ」
サバサバザックリとした登季子も、嘘をつくときは恐ろしく歯切れが悪い。
九十九はよろめきながらも、布団からサッと立ち上がる。立ち眩みがして大きく身体がよろめいたが、なんとか持ちこたえた。
「つーちゃん!」
母の制止を振り切って、畳を踏みしめた。
なんか、嫌な予感がする……。
ただの勘だが、九十九は一抹の焦燥感を覚えた。
「騒がしいと思えば……やっと、我が寝所へ出向く気になったか?」
「あ……」
九十九が手をかける前に、襖が開いた。
琥珀色の瞳がニタリとした笑みを描いている。真っ白の髪の上に乗った耳がピクンと動いた。藤色の羽織が似合う体躯は中性的だが、逞しい。背後で長い尻尾が楽しそうに揺れていた。
「シロ、様?」
「なんだ、九十九。そんなに、儂に会いたかったのか……かわいい子猫ちゃんだ」
「こ、子猫ちゃ、んッ!? ちょ、シロ様! またテレビで変な言葉遣い覚えたんでしょ!?」
などと言いながら、シロは九十九の前に顔を近づける。キスしそうな距離まで無駄な美形が迫ってきて、九十九は思考がパニックに陥った。
こいつ、いつもより……鬱陶しい! 別の意味で、どうしちゃったんだろう!
「ハニーの方が良かったか?」
「は、はに!? なんの話ですか! ……心配して、損しました」
「心配などと。いったい、何処に儂が心配される所以があるというのだ。儂の方が心配していたのだぞ? ベイビー?」
「だから、変な呼び方はやめてくださいってば!」
なんとなく、違和感を覚えつつも、思考が回らない。きっと、寝起きだからだ。というか、眠い。立っているのやっとなくらい身体が重い。きっと、瘴気に当てられたからだ。
シロのペースに嵌められている気がした。
「でも、だったら誰が五色浜から連れて帰ってくれたの? わたし、てっきりシロ様が……」
シロは結界の外へは出られない。
使い魔や人形を行使して神気を操ることは出来るが、それだけだ。
もしも、外へシロが出るようなことがあれば、旅館を囲む結界を維持することは難しい。大量に神気を消耗することになるだろう。
神が消えるときは、人々から忘れられ、名が消滅するとき。
シロが消えることはないだろうが、神気に大きな影響を受けることは間違いない。
「まあ、細かいことは良かろう。それじゃあ、儂は見たいテレビがあるから失礼するぞ」
「え、あ……はい……」
存外、あっさりと立ち退くシロに拍子抜けしながら、九十九はコクリと頷いた。
「なによ……シロ様ってば」
シロの仕業ではないとすれば、いったい――。
気を失う直前に、人影を見た気がした。
あれは誰だったのだろう。
「とりあえず、つーちゃん。ゆっくり休みなさい」
「うん……」
そのあと、九十九は幸一が持ってきたお粥を食べて、ゆっくり眠りについた。
登季子が学校へ連絡したので、明日は休むことになる。地味に皆勤賞が途切れてしまったが、そんなことはどうでもいいように思われた。
そのあとは、元気にご飯まで食べたのが嘘みたいに眠くなった。
九十九は糸が切れた人形のように、再び泥のような眠りに堕ちる。
ああ、眠い……。
† † † † † † †
「まったく。別によろしいではありませんか……そこまで、重要な秘密でもないでしょう?」
「……黙れ、天照……」
「稲荷神であっても、別天津神であっても、人との関わりに差はありませんでしょうに」
湯けむりあがる岩の露天風呂。
平常であれば客が使用する広い浴場に足を踏み入れるのは、稲荷神白夜命。絹束のような白髪を振り払って、浴槽の方へと歩んだ。
だが、その姿が蜃気楼のように揺らめく。
ゆらり。まるで、太陽の戯れのように。
藤色の着流しが揺れたかと思うと、その姿は幻のように変化する。
妖艶なる魔性の色香を纏った少女――天照大神は、湯船に向かって薄く笑った。
「貸しておきます。まあ、これはこれで楽しかったので、またやってみたいですが」
「調子に乗るな……」
湯けむりの向こうから声がする。
湯船に浮かぶのは蓮の花。本来ならば水の上に咲く花が、湯の上を滑るように流れていく。根も茎も持たぬ幻影の花故、存在が曖昧なようだ。
幾重にも水面に波紋が広がり、広がり――されど、花は消えていく。幻影であるそれらは、咲いては塵のように水面へ溶けていった。
「だいたい……儂は別天津神そのものではない」
「同じようなものです」
「…………」
大雑把に括りよって。
溜息をつく。
長い黒髪が湯に落ちる。
墨が水に広がるように、湯を侵食する髪が藻のように広がっている。だが、そこにおぞましさはなく。淡い神気の光によって、幻のような儚さがあった。
琥珀色の瞳が物憂げに。けれども、煩わしそうに天照を睨む。
「巫女に『お前のために無茶をした』と、素直にお伝えした方が良いと思いますのに。きっと、喜んでくれましてよ?」
「なにを……そのように、あの娘の情緒を煽ってどうする。少なくとも、三日は神気に余裕がない。このような姿、九十九に見られるわけにはいくまい」
「もう。わかっておりませんわね」
「わかっておる。元の状態まで神気を取り戻すには、数日はかかるだろうよ」
「だから、わかっておりませんわねって。同じことを言わせないでくださいませ」
湯船につかる者――シロはあからさまに顔を歪めた。それを見て、天照は唇を尖らせる。
「何代も人の巫女を娶ってきている癖に。まったく……もっとテレビを見ては如何です? 昼ドラの再放送ではなく、もっとキラキラと輝く眩い……若い女優やイケメン俳優が主演の恋愛ドラマを見てください。なんなら、漫画でもよろしくてよ。これが日本の神なのかしら。クール・ジャパンに乗り遅れすぎでは? 我が秘蔵の宝物を見ます? 尊いですよ?」
「は?」
まくし立てるような早口で言われて、シロは面食らう。
全く理解できていない様子のシロを見て、天照は肩をすくめた。
「もっと、輝きを愛でませ。そして、勉強なさい」
「意味がわからぬ」
「乙女心を理解しなさいな、と申し上げております。あれは良い輝きですわよ……まあ、知ってはいるのでしょうけれど。でも、気づいていなければ、その素晴らしさは理解できません」
「日本語で話してくれぬか」
「日本語です」
話が通じない。
同じ国の、同じ時代に在る神だというのに、嘆かわしい。今は天照の趣味に付き合ってやる余裕はないので、シロは口を閉ざした。
白い肌を珠のような水滴が滑る。
目を閉じて、神気を髪に集めた。
墨のような黒髪が銀に光り、色が抜けていく。絹束のような白い髪が湯船に踊った。
しかし、純白は一瞬で解け。
水面に漂うのは何物にも染まらぬ黒。
しかし、背には――何物にも侵されぬ白。
西洋であれば、天使とでも呼ばれるだろうか。
自分の背に生えた白い翼に触れると、神気が揺らめくのがわかった。
結界の外へ出るために、力を使いすぎた。
無理やり、空間を捻じ曲げて使い魔の元へ自身を飛ばした。そうしなければ、あの瘴気に巫女は耐えられなかっただろう。
巫女ともう一人を抱えて、再び結界の中へと戻ったが――この有様だ。
元の姿を造っておけるだけの神気を回復させるには、少なくとも数日かかるか。
花が咲く。
咲いた蓮が水面に波紋を――作る前に、砂のように消えていった。
幻の蓮は偽りの風に揺れ、サラサラと消えていく。




