9.一緒に
今日も一日、おつかれさまでした。
そう自分に言いながら、九十九は母屋の部屋に戻る。お風呂で汗を流した直後なので、身体がほかほかで気持ちいい。やっぱり、温泉はいいものだ。しっかりと汗をかけるので、すっきりする。デトックス効果? あるんじゃないかな?
「……あの」
身体もすっきりしたことだし、ゆっくり寝よう。九十九がそう思っていたのは、部屋の襖を開けるまでであった。
「どうした、九十九。早くさっきの続きをしようではないか」
「疲れたので寝ます! お布団までわざわざ敷いてくださり、ありがとうございます! それでは、おやすみなさい!」
部屋には、すでに布団が敷かれていた。その上で、シロが寝そべってポンポンッと隣を叩いているものだから、九十九はつい大声で拒絶してしまう、条件反射だ。疲れた、眠い以外の他意はない。
「九十九ぉ……」
「そんな声で言ったってダメです」
「あとでと言ったではないか」
「あれは……いえ、言ったつもりなんてないですから!」
「儂は聞いたのだ」
「空耳です。だいたい、勝手に部屋入らないでくださいって、いつも言ってますよね。解禁にした覚えはないんですけど」
「夫婦なのにぃ」
九十九は両手で耳を覆いながら、就寝の準備をする。それにしても、布団に横たわるシロがすこぶる邪魔だった。どうしてくれようか。蹴り出すしかないか。
「なにが不満なのだ」
不満。
不満は……ない。
九十九だって、シロに触れるのは嫌いではないのだ。むしろ……恥ずかしいが、好ましいと思っている。
「不満、と言いますか、なんと言いますか……こういうの、順序があるじゃないですか……」
「順序もなにも、夫婦であろうに」
「そ、そうですけど!」
そうだけど、なんだというのだ。自分でもわからない。たしかに、シロからすれば説明不足だろう。むしろ、彼のほうが不満なはずだ。
「よくわからないんですけど」
九十九はシロから目をそらそうとする。だが、シロはそれを阻止するように、九十九の肩に腕をのせた。いつの間に、立ちあがったのだ。動きが滑らかすぎて、認識できなかった。
シロの顔が近づくと、途端に心臓がバクバクと音を立てる。湯上がりの顔が余計に熱くなった。きっと、鏡を見たら耳まで真っ赤だろう。
「だ、だから、こういうの……」
こういうの、嫌。
九十九は無意識のうちにシロの胸を押し、身体を離そうとする。
以前にも、こういうことがあった。あのときは九十九が混乱して、泣き出してしまったのあだ。シロが九十九をどう思っているのかわからなくて、怖くなった。
今は違う。お互いの気持ちがはっきりしているし、恐怖もない。こうやって触れられていると、恥ずかしくてドキドキするが、嬉しかった。
だから、なにが不満なのか自分でも、よく言語化できない。
「あの、ですね……シロ様はわたしのことを、ずっと夫婦だと思ってくれていたでしょうけど……わたしのほうは、そうじゃなくてですね。いや、夫婦なのは夫婦だったんですよ。ただ……その、あの……」
ええい、はっきりしろ! と、自分でもツッコミたくなる。シロの顔がすぐそこまで迫っているのも、思考を阻害している気がした。
「わたしにとっては、シロ様のお気持ちを知ったのは最近で……まだ夫婦というより、えっと、恋人? そう。気分はつきあったばかりの恋人、なんですよ。たぶん……」
なんとなく、それっぽい言葉を拾ってつなぎあわせていく。声に出すと、少しずつ自分の中で腑に落ちていった。きっと、こういうことだと自身で解釈していく。
九十九の心なのに。まるで、英語の翻訳だ。単語一つひとつの意味と構文を照らしながら、自分の言語に置き換えていく。
「だから、いきなりお布団とか……無理です。ごめんなさい」
朝は勝手に潜り込まれていたが。
「では、どうすればいいのだ?」
九十九の顔をのぞき込むシロは困った様子だ。こんな顔は、あまりさせたくないのに。
「えと……ど、どうしましょう」
「それは九十九が決めてくれねば、儂はなにもできぬ」
シロは改まったように、九十九の肩から手をおろす。うしろに一歩さがると、今度はだいぶ距離を感じた。
「シロ様は、一緒に……寝たいんですか?」
「無論」
当然のように即答されてしまう。予想どおりだ。
九十九は悩んだすえに、右手をちょこんと差し出した。
「手を繋ぐだけなら……」
さすがに、子供っぽすぎるだろうか。もっと恋人らしいことをしたほうが……これでは、九十九のわがままだ。
「シロ様。すみません、やっぱり今のは――」
「九十九、よいのか? 本当に、よいのか!?」
九十九の訂正を遮って、シロはパァッと顔を明るくした。うしろの尻尾をブンブンと左右に揺らしながら、両手で包むように九十九の手をにぎる。子供のように純粋な笑みで、九十九は呆気にとられてしまった。
「え、いいんですか?」
「九十九は、それがいいのであろう? 儂は九十九と初めて床をともにできて嬉しいぞ!」
「言われてみれば……」
そういえば、たしかに……勝手にもぐり込んできた事案以外で、シロと一緒に寝たことはない。小さいころの記憶もなかった。
嬉しそうなシロを見ていると、こちらの心もほっとしてくる。
「まあ。本当ならば接吻の一つくらいは欲しかったのだがな」
「う……すみません、許してください」
「よい。儂は九十九から言ってくれるのが嬉しいのだ」
九十九はずっとシロから逃げていた。気持ちの整理がつかず、恥ずかしくて。
「いつものように蹴り出されると思っておったからな。今日のところは、これで我慢しておいてやろう」
シロはごくごく自然な流れで、九十九の手を自分の口元へ持ちあげた。九十九が抵抗する間もなく、手の甲に唇が触れる。
「な……な……!」
なにこれー! お姫様みたい!
下手に抱きつかれるよりも恥ずかしい。キスされた手から、麻痺したように感覚が抜けていく。危うく、立っていられなくなりそうだった。
「こういうのは、今どきの女子も好き だと天照が言っておった」
「だから! もっと、マトモなことを教わってくれます!?」
最近、天照がシロに余計なことを教えすぎている気がする。しかも、能動的に。「ふふふ。よいですわ」と満足そうに笑う天照の顔が想像に易い。
「もう。寝ますよ!」
九十九は乱暴に言い放ちながら、さっさと布団の中へ入る。
隣で、もぞもぞと布団が動いた。シロが入ってきたのだとわかると緊張する。
「…………」
上向きに寝る九十九の手を、シロがにぎった。
温かく包み込むように。
布団が広めでよかった。シングルベッドだったりしたら、確実に狭かっただろう。
身体は充分に離れ、手だけにぎってもらっている。なんだか、この距離感が心地よくて、だんだんと緊張がほぐれてきた。
そっと目を閉じてみると、驚くほどすんなり眠れそうな気がした。




