8.自分勝手
義農祭は明日に迫っている。
作兵衛は、毎年、義農祭までの三日間ほどを湯築屋で過ごしていた。それはツルとカメの計らいだが、彼を満足させたいという湯築屋の希望でもある。
夕餉の膳も、九十九が運ぶ。
「もっとお食べよ。太らないかんよ」
「ほうよ。お食べお食べ」
あいかわらず、ツルとカメが九十九のことを見ているようだ。頻りに、九十九に対して「お食べ」と言っている……太りたくないのに。
客観的に見て、九十九はそんなに痩せているだろうか。
去年までは、このようなことはなかった。一匹と一羽は、たいてい作兵衛と一緒にくつろいでいたはずだ。
「あの……わたし、そんなに痩せてますか?」
うしろをついて歩くツルとカメを、九十九はふり返った。
すると、ツルとカメは、やはりヒソヒソとなにかを話しあう。今度は九十九に聞こえない声だった。
「むしろ、その……こんなこと言うのもアレですが、わたし去年より……太ったんですよ」
自分で言って惨めな気分になるが、九十九は一年で微妙に太った。京に言わせると、「そんなん、誤差やん」という差だが。
いかんせん、九十九だって女子だ。高校は卒業してしまったが、まだ十代。大学で着てみたい服もある。夏になったら水着もあった。
繊細なお年頃というやつだ。
「だってなぁ?」
「ほうよなぁ?」
ツルとカメはそろえて首を傾げながら、九十九を見あげる。
彼らは神様とは違う。神使とも言い切れない。だが、神に性質が近い神気を持っていた。じっと見つめられると、こちらのほうが呑み込まれそうな圧を感じる瞬間がある。威圧感とは違う。
「あんた、お父ちゃんみたいやし」
カメの言葉に、九十九は顔をしかめた。
作兵衛みたい? なにが?
「よう食べて、しっかり太ってほしいんよぉ」
ツルも言葉を重ねるので、九十九は聞き返せなかった。
じっと立ち止まったまま、両者見つめあってしまう。
「ほれ。はよ、お父ちゃんとこ持ってお行き」
「ほうよ。そのあと、いっぱいお食べ」
立ち止まっている九十九を、ツルとカメがうながす。
「あ……はい。申し訳ありません、お客様」
九十九は慌てて頭をさげて、踵を返した。
今は作兵衛に夕餉を配膳しなくては。九十九はスッと背筋を伸ばして歩く。ほどなくして、重信の間が見えた。
「帰ろ帰ろ」
「もんたよー」
九十九が重信の間の前に立つと、ツルとカメが足元に走り寄る。そして、自分たちで襖を開けて中へ入っていった。ごていねいに、膳を持った九十九が通れるスペースを開けてくれている。
「作兵衛様、お食事をお持ちしました」
中に呼びかける。
「ああ、ありがとう」
作兵衛は縁側に座っていた。障子を開け、湯築屋の庭をながめている。
空は藍色に染まったまま、天気が動くことはない。ずっと、黄昏の瞬間のような澄んだ闇をたたえていた。
蝶が舞っている。一羽や二羽ではない。無数の蝶が踊っている。蝶の鱗粉が淡く光っているせいか……その光景は花吹雪のようにも見え、幻想的であった。
しかしながら、これは本物の幻だ。
結界の主であるシロが創り、見せている幻影である。ここには本物の蝶はおらず、庭を彩る花畑も偽物であった。湯築屋の結界にあるのは、シロが創り出した幻の光景と湯築屋、そして、彼が引き入れたお客様と従業員だけだ。
九十九が膳を並べる間も、作兵衛は縁側で庭を見ていた。
「今日はなんだい?」
夕餉のメニューを聞かれたが、作兵衛はまだ庭をながめている。
それでも九十九は、たくさんの麦飯が入ったお櫃を開け、茶碗に盛った。
「伊予さつまでございます。大変、ごはんが進むメニューですよ」
たくさんのごはんが食べられるように、幸一が選んでくれた。もちろん、作兵衛は神様なので、どんなものを出してもたくさん食べる。食べても太らない体質はうらやましい。
「冷や汁かぁ」
作兵衛がようやく、こちらをふり返った。
伊予さつまは郷土料理の一つだ。焼いた鯛の身と出汁、麦味噌をあわせた冷や汁を、あつあつのごはんにかけて食べるのだ。流し込むように食べられるため、気がつけば、何杯も食べてしまった、なんて事故もよく起こる。
出汁と味噌の甘みと、焼き魚の香ばしさの調和は堪らない。輪切りのきゅうりや大葉、細かく刻んだ香の物もつけてある。お好みで入れるわけだが、食感が面白くなって箸が止まらなくなってしまうのだ。
九十九も大好きな料理であった。自分で作るときは、ちょっと面倒なので出汁を冷やさず、熱いままいただいていた。だが、手軽に水を入れて溶くだけで作れる伊予さつまの素も売り出されているので、近ごろはこちらを使ってしまう。インスタントのようで手を出さなかった時期もあるが、食べるとこれがなかなか……。
「いいね。ありがたいよ」
作兵衛は「よいせ」と腰をあげて席に着く。見目は若々しい青年で神様だが、仕草の節々に人間だった「名残り」のようなものが見える。
ツルとカメも、トコトコッと自分の席に着いた。
「あんたもお食べ」
「ほうよ、ほうよ。食べてお行き」
お櫃から麦飯をついでいる九十九に、ツルとカメが食事を勧める。彼らは自分の茶碗を持ちあげ、九十九に差し出す。無論、ごはんの要求ではない。九十九に食べていくようにうながしているのだ。
「いえ……お仕事中ですので」
やりにくいなぁ……九十九は苦笑いしながら、作兵衛に茶碗を渡した。
「すまんね。こいつら、あんたを心配してるみたいだ」
作兵衛が茶碗を受けとりながら笑った。素朴でとても親しみやすい。彼も人々から信仰される神様のはずなのに、まるで親戚かなにかのような安心感があった。親近感がわき、自然とこちらの緊張がほぐれる。
「心配?」
「悪く思わんでくれよ。あんたのことが、だいぶ危なっかしく見えたみたいだ」
危なっかしい?
痩せすぎて? もしかして、自分では気づいていない病でもあるのだろうか……先代の巫女である湯築千鶴は過労が原因の脳梗塞で亡くなったらしい。働きすぎ? しかし、まだ九十九は高校生、いや、大学生である。若いから油断は禁物とはいえ、少し考えすぎか。
「あんたが命を軽んじる娘に見えたのだろうね」
「ど、どうしてですか?」
九十九は目を丸くしながら聞き返してしまった。
すると、作兵衛は九十九の胸の辺りを、スッと指さす。
さきほどまでの親しみやすさが嘘のように消えた。押さえつけられるような圧を感じる。威圧されているわけではないのに、不思議だ。
「自分の」
九十九の?
慄いていると、作兵衛は九十九を示していた指をおろす。瞬間的に緊張していた空気は、スッと軽くなった。彼が神気でなにかをしたわけでもないのに、本当に不可思議だ。
作兵衛も神の一柱なのだと改めて思い知る。
しかし、九十九はまだ作兵衛の言わんとする意味がわからない。
「まあ、他人のことは言えねぇんだがね」
作兵衛は自嘲気味に笑い、伊予さつまの出汁を混ぜた。麦飯にきゅうりと大葉をのせ、胡麻も軽くふりかける。そこに冷えた出汁を流すと、あっという間に茶碗が麦味噌の色に染まった。
「誰かのために、自分を軽んじるのは褒められたもんじゃない」
指摘された途端、まっさきにシロの顔が浮かんだ。
そして、九十九は自分が今朝、なにを考えていたかを思い出す。
――九十九がどこへも行かぬように……本当は結界を閉じてしまいたいのだ。
シロが望むなら……それでもいいのかもしれない。
一瞬だけでも、そんなことを考えていた。すぐに思い直したが、九十九の中にそのような気持ちがあったのは事実である。
もしかすると、今だって――。
「義農精神なんぞと、たいそうな伝承のされ方をしているが、あんなものは美徳でもなんでもない。あのときはそうだったかもしれねぇが、今はそうじゃないだろう?」
作兵衛は村人のために、自ら餓死することを選んだ。そして、翌年以降の種麦を遺したのである。その尊い自己犠牲の精神は「義農精神」として、松前町を中心に継承されていた。
作兵衛は自分で、自らの行いを否定しているのだ。
その当時と、現在は違う。
時代は変わり、人々は飢饉で飢えることはなくなった。それは作兵衛をはじめとした人々の営みや努力が実を結んだからである。語り継ぐべきであり、忘れてはならない。
「他人を思いやるってのは大事だよ。それで社会が上手く回っていくんだからな。そうじゃなきゃあ、とっくにお国は破綻しているだろうからよ。世のため人のために働くってのは、立派なもんじゃ。胸を張るべき志だろうよ」
作兵衛は茶碗に盛られた麦飯を箸で崩した。出汁に麦飯がつかり、ザブザブになる。
「だがな。今はもっと自分の幸せってモンを考えてもいい時代なんじゃないのかね? 違うかい?」
そう言って、作兵衛は伊予さつまを口へとかき込んだ。チャッチャッチャッと箸が茶碗を鳴らす、豪快な食べっぷりだった。
「…………」
九十九だって、自分を蔑ろにしているわけではない。プライベートの時間も、以前より長くとるようになった。大学へは自分の意思で進学を希望したのだ。
ずっとずっと、自分を大事にするようになった。
でも、シロのことになると、どうだろう。
シロは永いときを湯築屋で過ごしている。従業員や神様に囲まれているが、誰かと一緒に過ごしているわけではない。
誰も彼も、シロにとっては「過ぎ去っていく者」なのだ。
そんなシロを……九十九はどうにかしたいと思っていた。
人間の九十九には、どうしようもないのに。
どうしようもないのに、どうにかしたくて……わからないのだ。どうすれば、シロが幸せになってくれるのか。
だから、あんなことを考えてしまったのかもしれない。そして、それは九十九自身が思っているよりも根深い。
ツルとカメは、九十九の本音を見抜いているのだろう。
「わしらの生きた時代があって、あんたらの時代が来た。それがいいモンだと、示してもらわにゃあ浮かばれんよ」
作兵衛は平らげた伊予さつまの茶碗を膳に置いた。
「幸せそうな人間は、そこらにいるかもしれん。でも、わしにとっては毎年来る湯築屋の人間が一番身近だよ。一番は言い過ぎかもしれんが、まあ、それなりに順位は高いんじゃねぇかな」
笑いながら頭を掻く様子は純朴で、神様らしくはない。だが、作兵衛はたしかに神様なのだ。
「毎年、祭りはあるが、神社のほうは全然でなぁ。今は管理する人間もおらんのだ。わしみてぇなモンは、いつ堕神になってもおかしくない」
「そんなこと……」
そんなこと言わないでくださいよ。
九十九は最後まで言えずに呑み込んでしまった。
作兵衛の言っていることは正しい。彼を祀った義農神社には現在、管理者がおらず荒廃しているのだ。政教分離の関係上、町の管理下には置けない。このままでは、神社はなくなってしまうだろう。
祭りは毎年開催されている。作兵衛の行いや精神も、地域や学校で語り継がれていくだろう。彼が堕神になる日は、すぐに来ない。まだまだ未来の話だろう。だが、絶対に堕神にはならないと言い切れないのだ。
現に、多くの神がそうやって忘れられていっているのだから。
「だが、そういうモンだろう」
作兵衛はからりと笑って、あぐらをかく膝を叩いた。
「わしらの生きた時代があって、あんたらの時代が来た。わしは次に継げたことが満足だ。こうやって、自分の繋いだ時代が見られているのだからなぁ。村のモンより幸せじゃろうて。消えても悔いはない。今はこうやって、山のように飯を食わせてもらっているからな。自分が楽しむために神になったようなモンじゃろう」
作兵衛はお櫃を自分のほうへ引き寄せる。九十九が手を出す前に、彼は茶碗にいっぱいの麦飯をついだ。好きなように。
「老い先短い余生を楽しむ爺の小言と思って聞き流してくれ。わしは、個人的に若女将が不幸になるのは嫌だね」
「不幸になんて……それに、作兵衛様はまだ消えたりしませんよ」
不幸になどなるつもりはない。
九十九は九十九なりに考えているつもりだ。今は答えが見つからないが……。
だから、今は九十九にできることしかできない。九十九は作兵衛にきちんと向きなおり、ていねいに頭をさげた。
「ありがとうございます。では、わたしからも……わたしも、毎年来てくださる作兵衛様が好きなのです。来年も再来年も、ずっとずっと湯築屋に来てほしいです。不幸になってほしくないのでしたら、老い先短いなどと言わず、たしかめに来てください。わたしはずっとおりますし、いなくなったとしても、湯築屋を見守ってください」
湯築屋にはたくさんの神様に来てほしいと思っている。
それは、ここへ来ることで、従業員が覚えているからだ。来訪した神様は、余さず記録される。そして、記憶に残るのだ。それが湯築屋ができてから、長くつづいた営みであり、在り方である。
ここは神様のために開かれた温泉宿だ。
「はは。わかったよ」
作兵衛はニコリとしながら、追加の伊予さつまを茶碗に注ぐ。山盛りの麦飯が出汁にひたった。
「そう言うんなら、先に潰れてくれるなよ」
「はい。もちろんです」




