3.白鷺の羽根
陽射しに、波が輝く。
初夏の海風は心なしか冷たく。しかし、温かい。海開き後であれば海水浴客で賑わうものだが、白い砂浜にも、隣接する子供用のプールにも人っ子一人いなかった。
もうすぐ海開きだ。
海水浴の時期になれば、人も増えるだろう。
「ひゃー。海、気持ちいいー!」
それでも、京のテンションは高まったらしい。黄色い声で騒ぎながら、砂浜を走っていく。
学友の様子を見ながら、九十九は「はは……」とやや疲れた笑みを浮かべた。
『みゃぁ』
いつの間にか、足元には白い猫が座っていた。どこから着いてきていたのだろう。人懐っこいので、ここに住み着いた猫なのかもしれない。
毛は眺めでモフリとした風貌が、なんとなくシロに近いものを感じる。
そのせいか、九十九はつい猫の傍らに座り込み、手を伸ばしてしまう。
「シロ様も連れて来てあげたら良かったかなぁ……」
言葉に反応して、猫がピクリと耳を動かす気がした。
琥珀みたいな瞳が、こちらを見上げている。
京がいるので、無駄に美形な人形を使われると困ると思って断ったが――。
「よくよく考えると、シロ様って道後に引き籠ってるわけで……海なんて、たぶん、久しぶりだろうしなぁ。人形越しだけど。昔は道後にも海があったらしいけど」
独り言を言いながら、猫の顎をゴロゴロなぞる。
邪険に扱っているが、一応は夫婦なわけで……もしかしたら、九十九について行きたいばかりではなかった可能性も薄っすらあり……別にシロのためとか、そういうことは考えていないが、頭の片隅ではいつも考えてしまうわけで。
まあ、誰も聞いてないから、いっか。
溜息をつきながら、猫の頭をなでなで。
「でも、シロ様が悪いんだから……ううん。わたしが悪いのかなぁ……わかんないや」
さて。猫に癒されたところで、宿題といこう。
取材地である五色浜を写真におさめるべく、九十九はスマートフォンを片手に歩き出した。
猫が「なに? もう終わり!?」と言いたげに足に纏わりついてくるが、残念ながら餌付けできるものを持っていない。ごめんね。
「もう……京ったら、こんな時期に水遊びして。海開きまだだよ!?」
猫に気を取られている間に、京が裸足で砂浜を駆けていた。波間に向かって、タッタッタッタッ。ザプーンという音に合わせて、足首までつかっていた。
「ゆずー! 冷たい!」
「当たり前でしょ……まだ六月だよ」
引き籠りの誰かさんも海へ来たら、こんな風に騒ぎそうだなぁ。いやいや、仮にも神様なんだから、もっと落ち着いてくれているはず。などと考えてしまい、九十九は首を横に振った。
すぐにシロのことを考えてしまう癖は、いつも無駄にベタベタされるからに違いない。
そう、無駄に。
「でも、まあ。せっかく海に来たんだから、気分だけでもさ!」
「やだ、ちょっと散らさないでよ!」
「ゆずも、こっち来いって!」
ショートカットの髪を揺らしながら、京が笑う。ぴょんっぴょんっと波の中で跳ね、九十九を呼んでいる。
学校ではボーイッシュな見た目から、イケメン女子として後輩の女の子に人気なのに。もう少し自覚してクールビューティに振舞えば、もっとモテるのではないか。残念な気がしてならない。
九十九は息をつきながらも、フッと表情を緩めた。
「まったく……」
視線を落とすと、浜を赤い蟹が横歩きしている。
京は忘れているだろうが、ここへは平家の伝承を取材しに来たのだ。
平家の姫が旗の色になぞらえたのも、こんな風に赤い蟹だったのだろうか。
白い蟹については、九十九も見たことがない。該当するとすればアルビノ種だろうが、突然変異のようなものなので、随分と珍しいだろう。見つけられたとすれば、よほどの幸運か。
そう思うと、白い蟹を踏み潰してしまおうと考えていた姫は、少々勿体ないことをしようとしたのではないかと考えてしまった。
「京、一応は取材に来たんだから、とりあえず写真でも――」
あれ?
なんだろう?
違和感を覚えて、九十九は立ち止まる。
「なに? 記念撮影かい? おっけー! 早くおいでよー!」
「ちがう……違う! 京、早くそこを離れて!」
「え? なぁに?」
わけがわかっていない京は、腑に落ちない様子で波間に立っている。
九十九は砂浜の上を急いで走った。けれども、砂に足を取られてしまい、いつものように走れない。
「稲荷の巫女が伏して願い奉る」
シロの髪の毛が入った肌守りを握りながら、九十九は言葉を紡ぐ。京の前で神気を操ることは憚れたが、緊急事態と判断した。
京の足元で蠢くもの。
白い影のようなものに、強い力を感じた。
神気のようで、神気ではない。妖気でもない。
「うっ……くっ……!」
だが、九十九は言葉の続きを紡ぐことは出来なかった。
前方から力の塊のようなものが押し寄せてきたのだ。息もできないくらい空気が重く、九十九は口を開くことが出来なくなった。
「ゆず……?」
異変に気づけていない京が首を傾げている。しかし、その足元から影が吹き荒れるように大きくなっていく。
瘴気。
神気が陽の気であるなら、瘴気は陰の気。神の巫女である九十九にとって、毒のような気の流れであった。
瘴気は存在するだけでは、人に害を与えることはない。
だが、溜まりすぎると疫病や災害の元になる。作物の収穫に影響を及ぼしたり、災害を呼び寄せることもある。神が座す土地では、瘴気の蓄積が軽減される。
けれども、この瘴気の塊は自然に蓄積したものではない。
――アレは御せぬ鬼だ。
「お……に……?」
九十九は初めて出会う瘴気に戸惑う。
「え? ひゃ!? なにこれ!」
京の足元の波が渦を巻きはじめる。
砂浜であるにもかかわらず、黒い渦を巻いていた。全てを呑み込むブラックホールのようで、禍々しい。流石に危険を感じ取り、京は逃げようとするが、間に合わなかった。
「だから、儂も行くと言ったのに」
リンと鳴る鈴のような。
一声、聞こえたかと思うと、九十九の目の前に白い猫が飛び出した。
「さて。我が妻を瘴気で侵すなど、赦し難い冒涜であると言いたいところだが」
猫の姿は一瞬で煙のように消えてしまった。
入れ替わりに、煙のように目の前に立つ人物。
「え?」
鴉のような漆黒の髪が揺れる。
風に揺れる艶のある長髪はしなやかで。純白の絹によく映えた。
衣褌を纏った後ろ姿が日本神話の神様のようで……いや、この神気は間違いなく神様だ。
でも、これ。
誰?
知らない後ろ姿に九十九は混乱する。
知らない。
いや、知っている?
舞っているのは、白鷺の羽根か。
白い羽根が輝きをもって、吹き荒れる風に誘われる。
「……つばさ……?」
重くのしかかる瘴気に、九十九は膝をつく。息をするのも辛くて、目も開けていられなかった。
黒い影が視界を蝕んでいく。
否。
自分の瞼が閉じられていくのを感じ、九十九は必死で声を張り上げた。
「み……や、こ……!」
ほとんど闇色に染まりゆく視界の中で、辛うじて学友の姿をとらえる。
京は海から遠ざけられるように、誰かの腕に抱かれていた。気を失っているようだが、強い神気に守られている。
京の無事を確信した途端、九十九は気が抜けるように脱力した。
重い瘴気と共に、眠気が襲う。
すごく、眠い。
重い瞼の間から光が差し込む。
強い神気によって、結界への扉が開いたのだと悟った。そして、その先に繋がる異界は、九十九が知っている場所で――。
「あ……」
目を閉じる寸前で見えた光景は、見間違いだろうか。
瘴気の中心――波が渦巻く漆黒の中心に、一瞬だけ見えたもの。
あれは……白い……蟹?
形も色もよくわからない。
それなのに、なんとなくそう感じた。




