4.麦飯もりもり!
気を取りなおして……朝餉の配膳だ。
厨房では、幸一と将崇がしっかりと仕事を終えていた。今日はご宿泊のお客様が多かったので、いつもより忙しい。
九十九はお膳を三つ重ねて持ちあげた。重量はあるが、これくらいなら慣れている。
本日の朝餉は真鯛の西京焼きを中心にしたベーシックなメニューだ。しかし、九十九の運ぶお膳だけは特別仕様である。
これは重信の間へ運ぶお膳だ。本日の宿泊客は一年に一度、必ず来館する湯築屋の常連客だった。
「お食べよ、お食べ」
「いっぱいお食べよ」
ところが、お膳を運ぶ九十九を廊下の隅からヒソヒソとながめる影が二つ。さきほど、浴場にいたツルとカメだ。もう朝餉の時間なので、温泉からあがったらしい。小さなお客様用の浴衣に袖を通し、二足歩行で歩いている。あまり違和感がないのは、見目がぬいぐるみのようだからか。
九十九の一挙一動を見ながら、「お食べ」と言ってくるので、少しやりにくい……九十九は太りたくないのに。
「う……」
九十九のあとを追うように歩く一匹と一羽。だが、彼らがどこへ行くつもりなのか、九十九は知っている。
やがて、九十九は目的地についた。
「失礼します」
重信の間で九十九は一旦、お膳を置いて扉を開けた。すると、それまでうしろを歩いていたツルとカメが、間をすり抜けるように、するするっと中へ入っていく。
「父ちゃん、もんたよー」
「ツルも。もんてきた、もんてきた」
ツルとカメは伊予弁で「ただいま」と言っている。伊予弁のやわらかい響きは独特だ。関西弁や九州弁のようでありながら、まったく違う。語尾に強さがなく、とても穏やかに聞こえるのだ。
もちろん、愛媛県内でも気質の違いがある。言葉が微妙に通じなかったり、強めに聞こえる地域もあった。
「湯はどうだった?」
ツルとカメに応えたのは、とても和やかな声だった。とてもおっとりとしていて、のんびりとしている。優しくて、温かくて、包み込まれるようなしゃべり方だ。
「おはようございます、作兵衛様」
九十九があいさつすると、宿泊客――作兵衛が頭を掻いた。
大きめのトレーナーに、ヨレたジーンズという格好は、どこにでもいそうな人間に見える。寝癖のついた髪は、寝起きを示していた。温和そうな表情のせいか、無精者というよりも親近感がわく。
作兵衛は松山市に隣接する、松前町で信仰される神様である。
神様と言っても、もとは人間、それも百姓だ。
江戸時代、享保の大飢饉によって多くの百姓が食えず、飢えていた。作兵衛の村も例外ではない。それでも、彼は一心に畑を耕し続け、やがて、衰弱していった。
ついに倒れた作兵衛の枕元には、来年撒く予定の種麦があったという。村人たちは、飢えを凌ぐために、作兵衛に種麦を食べることを勧めた。
しかし、作兵衛は村人たちからの提案を断ったのである。これを食べてしまえば、村から来年の種が尽きてしまう。そうなれば、もう未来はない。今、自分の命を繋ぐよりも、明日に繋げたい。そう言い残して、作兵衛は種麦を食べずに亡くなった。
作兵衛の遺志を継いだ村人たちは、残された種麦を大切に育て、飢饉を乗り越えたという。そんな作兵衛に義農という名が与えられ、後世に伝えるために碑や義農神社が建立された。
神様としては比較的新しい信仰だ。だが、松前町を中心に作兵衛の伝説は継承され、毎年、義農祭も開催されている。
作兵衛は義農祭の前に、必ず湯築屋へ宿泊していた。
目的は……ごはんである。
「今日も美味しそうだ。湯築屋さんには、本当に感謝しないと」
朝餉の膳を前に、作兵衛がほくほくとした表情で手をあわせる。
作兵衛のメニューは他のお客様と違って特別だ。なにせ、すべて裸麦を使用した膳なのである。
お櫃のごはんは、もちろん麦飯だ。山盛りある。おかずはとろろ山芋、鶏そぼろ、しらす大根など、麦飯にあうものばかりを用意した。デザートに、小さな麦ぜんざいもつけている。
ちなみに、湯築屋の味噌は基本的に麦味噌を使用していた。愛媛県は日本一の裸麦の産地であり、全国的にも珍しい麦味噌文化が根づいている。代表的な製品は、「ギノーみそ」。もちろん、義農作兵衛に由来した。
自身を犠牲にして村を救った作兵衛の精神は、現代まで脈々と受け継がれている。新しい神様ではあるが、人々の生活に根ざす信仰を得ていた。
「毎年、食べさせてくれる二人にも、感謝だね」
作兵衛は言いながら、両脇に並ぶツルとカメを見おろした。
「お父ちゃん。お食べ、お食べ」
「太らないかんよぉ」
実のところ毎年、作兵衛を湯築屋へ連れてくるのは、ツルとカメなのである。彼らは見た目どおりのツルとカメなのだが……九十九は作兵衛の縁者だと聞かされていた。作兵衛が神様として形を得たとき、一緒にいたらしい。
文献には、作兵衛の母の名がツル、娘がカメと記載されているが、はっきりと二人に関係があるかは定かでないようだ。ただ、飢えて亡くなった作兵衛を想ってか、彼に食事を勧める。
神様に食事は必要ない。彼らが食事を摂る多くの理由は、嗜好品としてである。食べなくても飢えないし、食べすぎても太らない。ただ楽しむために食事をするのだ。
だが、ツルやカメが作兵衛に食事を勧める理由も、九十九はなんとなく理解できる気がした。上手く説明はできないが……はっきりと言語化できないのがもどかしい。
「いつも、湯築屋をご利用いただき、ありがとうございます」
九十九が頭をさげると、作兵衛はにこりと笑ってくれる。
「こちらこそ。湯築屋さんの料理は好きなんだ……今日は、また新しい味がするね」
九十九は厨房に入った将崇のことを思い出す。毎年、湯築屋の料理を食べている作兵衛には、違いがわかるのだろう。嬉しそうに目を細めて、箸を動かした。
「素直じゃないが、優しい味だ。料理長とよく似ているよ」
「そうですね……ありがとうございます。厨房にお伝えしますね」
将崇は喜んでくれそうだ。
九十九も嬉しくなりながら、重信の間をあとにした。




