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3.ツルとカメが滑った?




 湯築屋の朝は早い。

 なにせ、お客様に朝の配膳をする前に支度をしなければならない。いつもは眠い目をこすって気合いを入れるのだが、今日は誰かさんのおかげで、すっかり目が覚めてしまった。

 九十九はツツジの着物を纏い、袖を襷掛けにする。かんざしも、ツツジであわせておく。

 四月から九十九は大学生だ。

 高校までは朝も早かったため、平日の仕事には参加できなかった。だが、大学に入ると時間割がある程度自由に組める。一時間目がない日は、九十九も朝の仕事をするようになっていた。

 厨房では料理長の幸一こういちがお客様たちの朝餉を作っている真っ最中だ。とても忙しそうである。


「おはよう。お父さん、将崇まさたか君」


 幸一と一緒に準備をしているのは、刑部おさかべ将崇。この春から、湯築屋で正式なアルバイトとして厨房に入っている。調理師免許取得のために専門学校へ通いはじめていた。


「おう、おはよう」


 将崇は九十九にあいさつを返してくれるが、すぐに料理へ視線を戻す。千切りの途中だった。集中力を削いでしまっただろうか。とても真剣そうなので、九十九は思わず微笑んだ。

 将崇は化け狸である。最初は人間の生活に馴染めなかったが、今はすっかり溶け込んでいた。将来は自分の料理屋さんを開きたくて、人間の調理師免許取得を目指している。


「つーちゃん、もう少しかかりそうだよ」


 幸一が味噌汁の味を確認しながら言った。ふわりと漂う優しい出汁の香りに、心がほっとする。そして、それを作る幸一の笑顔も、九十九を安心させた。


「うん、わかった」


 ここは二人にまかせて大丈夫だ。将崇がアルバイトをはじめてから、九十九が厨房を手伝う機会は減った。

 さて。その間に、浴場の清掃をしますか。

 毎朝、お客様の入浴時間前に掃除しているが、浴場の清潔を保つため、定期的に清掃している。せっかく、お客様は湯築屋に羽を伸ばしに来ているのだ。綺麗なお風呂で、充分にリフレッシュしてほしかった。

 湯築屋――道後温泉の湯には神気が宿っている。

 神様や妖を癒やす力のこもった湯なのだ。そのため、多くの神様がお客様として訪れる。文字通り、湯築屋の「お客様は神様」なのだ。

 本日、宿泊のお客様たちも、神気を癒やしに来ている。


「失礼します」


 九十九は断りを入れてから、浴場の扉を開けた。滑らないように、浴場用の下駄を履いて足を踏み入れる。

 湯築屋の浴場は道後温泉の湯を引いた露天風呂だ。もわっと湯気がのぼる湿気を感じながらも、こもった蒸し暑さはあまり感じない。

 太陽も月も、星さえもない藍色の空が広がっていた。黄昏の瞬間にも似た色は、どこまでも澄み切っている。湯築屋の庭の外には、ずっとこの空と同じ虚無の空間が広がっているのだ。

 湯築屋は結界に囲われた宿屋である。道後温泉街にありながら、現世とは隔絶された空間。周囲にあるはずの建物も、人々も、なにもかもが切り離されている。支配するのは稲荷神白夜命であり、ここではどのような神であっても力を制限されるのだ。代わりに、結界の主は、外界へ出られず縛られている。

 ここは檻のようなものだ。

 そう評するお客様もいる。

 結界に縛られたシロや天之御中主神を指した言葉だ――以前は意味がわからなかったが、今の九十九なら、その意味もわかった。


「滑ったぁ♪ 滑ったぁ♪」

「ツルとカメが滑ったぁ♪」


 奥の浴槽から歌が聞こえてきた。ふわふわとした声とリズムが妙に耳心地よかった。音程はデタラメだったが、なんだか楽しそうだというのが伝わってくる。


「わわ。ばあちゃん、来たよ来たよ」

「ほんとよ。嗚呼、よう来たのう」


 気持ちよく歌っていた主は、九十九の存在に気づいたようだ。

 大きな石に囲まれた浴槽に浮かんでいるのは、一匹と一羽。緑色の亀と、小柄な丹頂鶴たんちょうづるであった。両者とも丸っこい見目をしており、まるでぬいぐるみのように湯船に浮かんでいた。ぷかぷかと。

 もちろん、お客様である。亀がカメで、鶴がツルだ。


「ぷしゅー」


 カメが湯船で仰向けになりながら、噴水のように湯を吐いた。ツルはその噴水にあわせて羽を広げて、くるくると水面をスケートのように滑っている。曲芸のようで、九十九は思わず両手を叩いた。


「ほれほれほれ」

「ほいさほいさ」


 九十九に見られて気をよくしたのか、ツルとカメはポーズをとった。ふわっとした歌声とリズムに反して、動きはキレがある。ぬいぐるみのような容姿も相まって、心がほっこり温まった。


「ところで、ばあちゃん」

「なんぞ、カメ」

「あんなぁ、あの子」

「ほうほう、あの子」

「ほうよ、あの子」


 ツルとカメは急に、九十九を示して顔を見あわせた。九十九に、なにかあるのだろうか。頻りに「あの子」「あの子」と呼ばれると、なんだかむずむずする。


「あの子、やっぱ痩せとるねぇ?」

「ほうなんよ。痩せとるんよねぇ?」

「太らせないかんねぇ」

「もっと、お食べやねぇ」


 九十九は自分の身体を見おろした。

 そ、そんなに、痩せてるのかな……?

 苦笑いしてみるが、ツルとカメは「なに食べさせるぅ?」と、献立まで考えている。


「あ、あの……お客様?」


 九十九は太っているわけではないが……痩せすぎているとも思えなかった。体重計に乗るたびに、上下する数値に一喜一憂する高校生、いや、もう大学生だ。太るのは悲しい。うん、悲しい。

 体重は自分が一番理解している。痩せている、と胸を張れるものではなかった。

 だからこそ、反応に困る。相手がお客様であるだけに、なおさら。


「お米、お食べ」

「麦も、お食べ」


 ツルとカメは湯船から頭だけを出して、こちらに呼びかけた。九十九は「あはは……」と、誤魔化してみる。


「なるほど……よかったな、九十九。安心して太ってもいいようだぞ」


 困惑する九十九の隣から声がする。

 びっくりして横を見ると、シロが立っていた。背中で嬉しそうにもふもふの尻尾を左右に揺らしながら、九十九を見おろしている。


「そうだ。一緒に六時屋のアイスもなかを食べようではないか。小さいころから、好きであっただろう?」


 などと言いながら笑っていた。

 神様たちは神出鬼没だ。ひっそりと姿を隠して、突然現れる。シロについては、いつも九十九を見守っていた。もはやストーカーだ。

 突然出てきたシロに、九十九は驚いて口をパクパクさせる。だが、やがて頭の中が冷静になってきた。


「シロ様……」


 九十九はなんとか言葉をしぼり出す。


「こちらは、女湯です!」


 お客様がいるのに、安易に出てこないでほしい。この際、九十九が太るとか、太らないとか、六時屋のアイスもなかとか関係なかった。

 いくらお客様がツルとカメで、雄か雌か見分けがつかなくとも、ここは女湯である……そう。湯築屋の結界の管理者はシロで、どこにいようと彼の視界に入るとしても! モラルというものがある!


「お客様! うちの神様が、ご迷惑をおかけしました!」


 九十九はそう叫びながら、シロの尻尾をつかんだ。シロはくすぐったそうに、「ひぃ!」と声をあげながら、飛び跳ねる。九十九はシロが怯んだ隙を突いて、首根っこをつかんだ。そのまま、うしろへ引きずるように浴場から退場する。


「九十九が冷たい」

「シロ様が悪いんです!」


 湯船に沈めなかっただけマシだと思ってほしい。

 九十九は浴場用の下駄を脱ぎ捨てる。


「さては、九十九……儂が浮気せぬか心配しておるのか?」

「そんな心配してません。お客様のプライバシー保護です!」

「またまた……」

「違います!」


 なにをトンチンカンなことを言っているのだ、この駄目夫は。九十九は呆れ返りながら、女湯をあとにした。




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