2.夢が覚めた理由
「――――!?」
飛び起きるように、両目を開く。
長い間、息が止まっていたかのような。それくらい心臓の音が大きくて、身体中にたくさん汗をかいていた。息苦しくもないのに、呼吸が荒い。
九十九はパジャマの袖で、汗を拭う。もぞもぞと布団の中で動き、身体を落ち着けようとした。
夢の内容は、おぼえている。
そのせいか、妙に不気味な気分になった。
――我のものになればよいのに。
白鷺となった天之御中主神の声が頭の中で反響している。内容というよりも、その声音が九十九の身体を震わせた。
あまり感情の見えない声だ。なにを考えているのか、まったくわからない。言葉の意味は読みとれるのに、その真意がまったく見えないのだ。
湯築屋にはたくさんの神様が訪れる。彼らは人間と同じような部分もあるが、基本的に異質の存在だ。九十九には理解できない思考も多々ある。
だが、天之御中主神は……そんな神様たちとも違う。
人間などには、とうてい理解できない。
超越したなにかを感じさせた。
「…………」
「…………」
しばらくして、九十九は違和感に気がつく。
布団が……思ったよりも、温かい。うん、温かい。しかも、九十九のうしろ側が妙に盛りあがっている。
……九十九は半目になりながら、思いっきりうしろ足で蹴った。猫のように。布団の中で、勢いをつけて膝を曲げる。
「ッタァ! 九十九ぉ!」
九十九の布団にもぐり込み、ぬくぬくとしていた存在が声をあげた。九十九はすかさず、肘打ちもする。
「シロ様! 勝手に入って来ないでくださいよ!」
そう叫びながら、九十九は布団の外へと退避した。畳を這うように転がり、素早く受け身をとる。寝起きにしては、なかなかの身のこなしだ。
布団に取り残されたシロが、こちらを恨めしそうに見ている。
絹糸の束のような白い髪の上で、狐の耳が動いていた。藤色の着流しに、うしろに生えた大きな尻尾はあいかわらず。琥珀色の瞳は神秘的な魅力があるはずなのに、今は子供っぽく九十九を見ている。恐ろしく顔の整った美青年なのに……言動がすべてを台無しにしていた。
これでも、神様だ。温泉旅館・湯築屋のオーナーにして、れっきとした神様の一柱。稲荷神白夜命である。湯築屋では、親しみを込めて「シロ様」と呼んでいた。
そして、不本意なことにこの神様は……九十九の夫でもある。まことに遺憾だ。もっと、神様としての威厳を持ってほしい。
「添い寝くらい、よいではないか!」
「よくない! 勝手に部屋へ入らないでくださいっていつも言っていますよね!?」
「つい!」
「威張らないでくれます!?」
「いや、誤解……」
「布団の中にまで入ってきて、誤解はないでしょう」
苦しい言い訳だ。九十九は枕をシロの顔目がけて投げつけた。枕は面白いほどまっすぐに、シロにヒットする。
これくらい綺麗に決まると、気持ちがいい。
「九十九がうなされておったから!」
枕を顔から剥がして、シロが言い訳を重ねる。九十九は聞く耳を持たないつもりで、まだ温かい布団を持ちあげ、まるでショベルカーが穴を埋めるようにシロへ被せる。バサッと。
「ばふっ……せっかく、儂が引き戻したのに!」
布団の上からグイグイとシロを押さえつけると、そんな言葉が聞こえてきた。
九十九は、はたと夢のことを思い出して、手を止める。
暗闇にもぐっていく不気味な記憶がよみがえった。夢の中だとわかっているのに、妙にリアル。いつもと同じで、すぐに帰ってこられるとわかっていたが……どこかに、もう二度と浮上できないのではないかという恐怖もあった。
夢が覚めたのは、シロのおかげ?
力を緩めると、シロが布団の下から這い出てきた。九十九はどういう対応をすればいいのか悩んでしまう。
夢の中で九十九と会話したのは、月子ではない。
天之御中主神。
原初の神であり、終焉を見届ける別天津神――今は、稲荷神白夜命と同化している。二柱の神は別々でありながら、同一でもあった。
非常に在り方が特殊だ。以前にシロは自身の存在を「歪んでいる」と評したが、まさしくそうである。
コインの表裏のような……。
「あの、わたし……危なかったんですか?」
九十九には、そういう認識はなかった。天之御中主神は、未だによくわからない神だが、九十九に危害を加えるとは思えない。あのまま九十九を夢の中に閉じ込めるのは可能だったかもしれないが……実行するとは考えられなかった。
しかし、神様のことは神様にしかわからないものだ。
九十九には察知できない危機が迫っていたのかもしれない。
神妙な面持ちになりながら、九十九はシロの顔を見る。シロは、あいかわらず子供みたいな表情をしながら「これが塩対応というやつか……」と、つぶやいている。
「危険というより」
シロは一瞬、九十九の視線から逃げる。
「九十九が……あれと話すのは、嫌だったのだ」
あれとは、天之御中主神のことだ。
シロはそう言いながら、九十九の髪に触れる。シロとはちがい、標準的な日本人の髪色だ。いつも結っているせいで、癖もついていた。
そんな九十九の髪を、シロは実に愛しそうな顔でなでている。
「そんな子供みたいな理由で……」
九十九は反射的に、シロの手を払いたくなってしまう。だが、躊躇した。
温かい指先が、髪の間をすり抜ける感触が、とても心地よい。そのまま、指先が九十九の頬に移動し、なんだかくすぐったくなる。
シロが九十九を夢から引き戻した理由は、とても単純だった。神様とは思えないくらい幼稚で、短絡的だ。
それでも、以前のように記憶が消されたり、真実を隠されたりするよりはいい。九十九の心は、幾分か軽く感じた。
本当は天之御中主神に真意を聞いてみたい。シロのことや、湯築屋のこと、月子のことを、どう思っているのか。
結界の中にシロを閉じ込めて、本当はどうしたいのか。
九十九は聞いてみたいのだ。
しかし、シロの気持ちも蔑ろにしたくない。彼は九十九と天之御中主神の接触を嫌がった。それならば……だが、解決はしない。
「儂は九十九を離したくない」
ああ、なんでそんなこと言うの。
シロは九十九の前に顔を近づけながら、指先で唇に触れる。それだけでドキドキしてしまい、九十九はなにも考えられなくなっていた。
「九十九がどこへも行かぬように……本当は結界を閉じてしまいたいのだ」
ずっと、ずっと、湯築屋から出られないように。
九十九を閉じ込めてしまいたい。
シロの言いたいことが伝わってくる。
「だが、それは九十九が望まぬだろう? 儂の身勝手であろう?」
シロはきちんと、わかろうとしている。九十九のことをわかろうとしてくれていた。自分勝手に神の道理をとおしたりはしない。九十九の自由を尊重してくれようとしていた。
嬉しい。
とても、嬉しい。
九十九の胸には、素直な気持ちがあふれていた。
だが、同時によくない感情もわいてしまう。
シロはずっと湯築屋にいる。どこへも行けず、結界に縛られたままだ。永いときを、そうやって過ごしてきた。
そんなシロが九十九を想ってくれているのなら――応えてあげたい。
九十九は人間だ。シロと永遠に一緒ではない。いつかシロの前からいなくなってしまうのだ。それは呆気なく、すぐのことかもしれない。何十年か先の話かもしれない。
だが、確実にいなくなる。
それはシロにとっては、永い時間の一コマに過ぎなくて。
だったら……。
「…………」
しかし、それは駄目だ。
わからない九十九ではなかった。
九十九は自らの意志で大学を受験し、学校へ通っている。湯築屋の外にだって、大切な友達がいた。
ないがしろにはできないし、しないと決めている。一瞬でも、迷った九十九が馬鹿なのだ。
きちんと自分の時間を生きなければならないと、いろんな人が教えてくれた。人ばかりではない。神様や妖、鬼のお客様も――。
「九十九」
シロの顔が徐々に近づく。
前のめりになったシロの肩から、白くて美しい髪が落ちる。こういうときなのに、いや、こういうときだからこそ、ふとした動きが目に入った。琥珀色の瞳は透きとおっていて、鏡のように九十九の姿が映っている。思わず、息が止まりそうだった。
シロとの婚姻は、九十九が生まれたときから決まったものだ。湯築の巫女はシロの妻となる。だから、その関係は形式上のもので、感情までは強制されない。
しかし、九十九はシロが好きで……シロも九十九を想ってくれている。
いや、でも……いきなりこれは……だけど、もう十八年も夫婦だし……き、緊張で頭が……。
頭がクラクラしてきた。どうしよう。逃げる理由も、場所もない。
「若女将っ! 若女将ぃ!」
そのとき、襖の向こうからタッタッタッと音がする。子狐のコマが母屋の階段を昇り、九十九の部屋に近づいているのだ。足音は小刻みで、やがてトコトコッと襖の前に立ったのがわかった。
見られちゃう!
「う……」
九十九は、とっさに目の前まで迫ったシロの肩を押して突き放した。そして、ぐしゃぐしゃに丸まっていた布団を投げつける。
「ぬあっ! 九十九ぉ!?」
シロは情けない声をあげながら、再び生き埋めになった。布団で。
間髪を容れずに、襖が開く。予想したとおり、コマがチョコンとお辞儀をした。
「若女将、おはようございますっ! ご朝食ができましたので、お呼びに……あれ? どうなさったのですか、白夜命様?」
部屋の中を見たコマは、布団に埋もれて駄々をこねているシロに首を傾げる。九十九は素知らぬふりをしながら、「ありがとう、コマ! 今日もがんばりましょう!」と、元気に背伸びしてみせるのだった。
こうやって、湯築屋の朝がはじまる。




