9.帰りましょうか
虚無の世界に続きができた。
障子の向こうに座っている人影が見える。
「月子……?」
ふり返ったのは、シロだった。
真っ白い髪の上に、ピンッと狐の耳が立っている。尻尾がゆるりと揺れて動く様がなんともやわらかそうだ。藤色の着流しも、濃紫の羽織も……九十九の知っているシロであった。
九十九はシロに歩み寄りながら、優しく笑う。
「いいえ、九十九です」
月子と間違えたことは問わない。ただ訂正をした。
すると、シロは「そうか」と寂しそうに目を伏せる。
夢の中なのに、本人と話しているような気分だった。
いや、実際これはシロだと思う。ここにいるのは、シロの本心――本質なのだと解釈した。
「近くへ行っても、いいですか?」
「構わぬ」
許可を取ってから、九十九はシロへ近づく。
足場が崩れたりはしなかった。
「此処まで来たということは、見てきたのだろう?」
「はい、見ました。でも、途中で宇迦之御魂神とはぐれてしまって……」
「あれは気にするな。その程度で呑まれたりはせぬ」
九十九はシロに向きあって座った。
いつもなら、なんとなく隣に座っていたと思うが……今はシロの顔を見て話したかった。少しも目をそらせたくはなかったのだ。
「結界は檻なのだ」
だから、シロは結界から離れられない。そもそも認識が間違っていたのだ。
シロが結界を作り出しているのではない。結界がシロそのものなのである。
「神としての儂は歪なのだ。他の神と比べて歪んでおる。稲荷などと名乗っておるが、この姿だって、宇迦之御魂神を真似たに過ぎぬ。儂の本質は別の神だからな」
シロはぽつぽつと自分のことを語り出した。
彼は稲荷の神使から稲荷神となっている。最初は自分の在り方に苦悩した。
神使としてのシロと、神としてのシロは完全に変質した存在だが、同時に同質でもある。天之御中主神の記憶や考え方、経験も自分のものとして共有された。自分というものが完全に変異して、別の神格になってしまったのだ。
まったく違うが、まったく同じ。
神の概念では理解は容易い。神々は時代や信仰の変遷と共に、その在り方を変えてきた。しかし、本質は変わらない。シロもそのような神々と同じになれればよかったのかもしれない。
けれども、これは罰だ。
償いのためにシロは天之御中主神の檻として、永遠に存在している。世の終わりを見届けるために。
それがどれだけ孤独なことなのだろうと、九十九は考えた。
永い永いときを、ずっと存在し続けなければならない。誰もに忘れられても堕神とならず、終わりまで。
「でも、それって……やっぱり、傲慢ですよね」
九十九は思ったことを率直に言った。
シロは怪訝そうに眉を寄せている。
「檻に入ると言いながら、天之御中主神様はシロ様に役目を押しつけている気がします。実際にときを過ごしているのは、稲荷神になってしまったシロ様で……なんか、ずるくないですか?」
「そのような考え……やはり、九十九は月子に似ているのだな」
「え?」
シロは少しだけ笑ってくれた。
「月子は……この檻を否定した。孤独になる必要はないと言ったのだ」
結界の檻があるなら、そこになんでも引き入れればいい。
月子はそう言って笑ったのだという。
――永遠にシロがここにいるなら、暮らしやすくすればいい。私がずっと、あなたを独りにしないから。ちょうど、神気の強い温泉もわいたことだし、宿屋にでもしましょうよ。神様たちをお呼びすれば、きっとにぎやかになるから。
月子の提案により、湯築屋がはじまった。
シロは動けないが、結界にはいろんなものを引き入れることができる。そうやって宿を作り、神々を呼び、この結界を虚無にしなかった。
月子はシロの妻となり、生涯を尽くす約束をする。
けれども、彼女は神の力で生き長らえたとはいえ、人間だ。老いて、やがて死んでいく。永遠に一緒になどいられないのだ。
「親から子へ、繋いでいけば人も永遠となれる……月子の遺志によって、代々湯築の巫女が選ばれ、受け継がれておるのだ」
シロの声が沈んでいくので、九十九はだんだん不安になった。
「そうやって月子は神に抗い、戦った。しかし――それは、お前たちを縛る行為だ。儂の償いのために、お前たちを縛っておる」
シロはずっと後悔しているのだ。
そして、自分の存在を厭っている。
だから知られたくなかったのだと思う。
自分の成り立ちも、罪も、月子の決意も……すべてシロによって引き起こされたことだから。
歴代の巫女たちにも、シロが天之御中主神と同一であるという最低限の情報しか伝えられていなかった。そして、夢を通じて天之御中主神の力の一部を使えるようになる。月子は亡くなったが、夢の中で意思が残り続けているのだ。
九十九の場合は月子と非常に近い神気を持つため、夢の奥まで踏みこんでしまえる。だから、幼いときよりなにも教えることができなかったのだ。
「シロ様って……怖がりですよね」
こんな夢の奥底に大切な記憶をしまい込んで。
巫女に知られるのを恐れて、九十九の夢まで干渉して。
本当にシロは怖がりだ。
臆病者である。
「わたし、巫女が嫌だとか言ったことないですよ。シロ様に束縛されたのが嫌だったなら、もっと早くにグレてます」
九十九は今の自分が好きだ。
巫女らしいことができているとは思わないけれど、若女将としてお客様のおもてなしをしている。その生活は楽しくて、もう九十九の生き甲斐になっていた。
「わたし不安だったんです。巫女らしいことなんてできていなくて、シロ様のお役に立てているのか、わからなくて……でも、安心しました」
九十九は向かいあったシロの両手をにぎる。そして、一気に立ちあがった。
その瞬間、周囲に白い羽根が舞う。どこから漂ってくるのか見えないが、それはまるで綿雪のようで美しかった。
「わたし、シロ様のお役に立てているんですよね?」
シロを孤独にしない。
それが月子の意思だ。だから湯築屋を建て、たくさんのお客様をお呼びした。
であれば、湯築屋を守るのは、月子の意志を継ぐことだ。そうやって絶やさないことで、シロを守っている。
今、九十九がしているのは無駄ではない。
ちゃんとシロの役に立っている。シロの巫女として、妻としての役割を果たしているのだ。
ずっと迷惑をかけていないか。
シロはどう思っているのか。
ずっとずっと、気になっていた。
しかし、違うのだ。
「シロ様」
九十九はシロの手をとったまま、頭上を指さした。
虚無だった藍色の空に太陽のような光が射している。
「わたし、シロ様に伝えたいことがあります。聞いてくれますか?」
今ではなく、直接言いたい。
だから、もう起きましょう。
夢の時間は終わりです。
「嗚呼」
九十九のつかんだ手を、シロが強くにぎり返した。




