7.神の一柱
記憶の景色が移り変わった。
だいぶ日数が経った頃合いのようだ。ただの岩場だった場所には草だけではなく花が咲き、そこから渾々《こんこん》と湯がわき出ている。わき出た湯は川となり、くぼみに小さな池を作っていた。
そこへ白い神使が訪れる。シロだ。
シロは乞うように頭を垂れて鳴いていた。
彼は選択を誤ったのだ。
選ぶべきではない命を選んだ。
その代償として、多くの同胞が死んでいる。このままでは、四国だけでは済まない。稲荷の神である宇迦之御魂神への信仰にも関わった。
シロは再び懇願しているのだ。
多くの同胞が死んだ贖罪をしている。
赦してほしくて鳴いていた。
『今更都合がよいと思わぬか』
贖罪を聞いているのは、天之御中主神であった。
口調は淡泊で、なんの感情も見えない。シロに対する怒りも嘲笑も、同情も、なにもうかがえなかった。
どこまでも自分は公平である。選択を誤ったのはお前だ。そういう態度のように見えてしまう。
実際はそうなのだろう。
神々の視点では、天之御中主神は正しいのだ。神は中立で公平で、そして、傲慢で気まぐれである。他者を試しては加護や厄災を与えた。
それが神だ。
天之御中主神はそんな神々の誰よりも最初に出でて、世の終わりまで見届ける。ある意味で、どの神よりも優れていた。そして、神々からも畏怖される。
どこまでも神らしい。
『其方の命一つで赦せと? 言ったはずだ。あれは摂理を曲げる行為である、と。それで対価がたったの一つであるはずがなかろうよ。それとも同胞よりも、真っ先に其の命が奪われておれば幸せだったとでも』
天之御中主神が問うとシロはなにも返せぬようであった。ただ尻尾と耳をさげている。
もうやめてあげて。
これ以上は……九十九は何度も目を背けようとした。宇迦之御魂神の言う通り、天之御中主神に対する憤りもある。だが、それよりもシロを見ていられなかったのだ。
今、目の前に見えているシロは、湯築屋のシロとは違う。
けれども、同じように見えた。
ときどき見せていた苦しそうなシロに。思い悩んで、逃げ出してしまいそうなシロに、よく似ていたのだ。
『わかった。望み通りに、其の命をもらってやろう』
その答えは気まぐれだと、誰にもわかった。
天之御中主神はふわりと軽やかに岩場を蹴る。すると、重力に反した動きで浮きあがり、シロのすぐ目の前におり立った。
シロの視線に応えるように、天之御中主神は手を差し出す。そして、期待するシロの頭をなでるように触れた。
すると、天之御中主神の身体が薄く透けていく。まるで煙か霧のように、そこからスウッと消えていなくなってしまった。
残されたのはシロだけだ。
一匹の神使だけが岩場の前にいる。
天之御中主神が消えたあと、シロはすぐに走り出した。その足は、どんな生き物よりも速い。そう思わされるほどの俊足だ。
風のように木々の間を通り抜け、一箇所を目指す。
その先にあるのが月子のいる神社だと、ずいぶん走るまで九十九は気がつかなかった。
やがて、簡素な神社まで辿り着く。
参道の左右にあった稲荷像は、ない。
その脇を素通りして、シロは粗末だがしっかりと手入れされた木造の建物へ駆け込んでいく。嵐の日、月子が出てきた建物だ。
ここが月子の家なのだと思う。
シロは前足を器用に使って家の中に入る。
決して裕福とは言えないが、粗末でもない。慎ましやかな生活感が伝わってきた。その家の中で月子が寝ていた。
薄い掛け物が呼吸にあわせて上下している。大きな怪我などは見当たらない。
「…………」
シロが顔を舐めると、月子が薄く目を開けた。
月子は虚ろな視線で状況を確かめていたが、やがて身を起こす。怪我はなさそうだが、少し動きにくそうだ。まだ安静を保って眠っている状態だったのだと思う。
九十九は月子をながめて気づく。
神気の質が変わっている。
それまでも神気の強い女性であった。だが、もっと違うものに変化しているのだ。
道後温泉から感じる神気に近い――湯築の人間である登季子、いや、九十九の神気に近づいている気がした。
近いなどというものではない。今の月子は九十九の神気とあまり違わなかった。
なにが原因なのかは、直感でわかる。
天之御中主神が岩場にわきあがらせた湯だ。あの湯に触れて月子は命をとり戻し、神気の質が変化した。
あれは道後温泉の湯だったのだ。
九十九は道後に伝わる白鷺伝説を思い起こしながら事象を受け止める。
「あなた」
月子の胸のうちにシロがすり寄った。いつも通り、よく月子を慕っている様子だ。
けれども、月子は顔をしかめている。
軽くあげた右手はシロの頭をなでず、拒絶を示す。
「シロじゃないね」
月子がいった瞬間に、シロが耳をピクリと動かす。尻尾を揺らして首を傾げ、「なんのこと?」と問うようであった。
けれども、月子は怯まない。
目の前にいる神使の目を見て、少しもそらさなかった。
『ふむ』
真っ白い狐が月子から一歩離れる。
その途端に、神気の質が変化した。
九十九でもわかる。
シロではない。天之御中主神であった。
姿はシロだが、中身――本質は異なっている。外郭はシロだが、すっかりと中身が入れ替わっているようであった。喩えるなら、着ぐるみだろうか。
『言っておくが、身を差し出したのは此奴だぞ』
「そうね」
シロは苦しんでいた。
自分の選択のせいで同胞をたくさん死なせてしまったのだ。自分の命で贖おうとしたが、それで払い切れる代償ではなかった。
摂理を曲げるとは、そういうことだ。
神使という存在でありながら、間違ってしまった。
「馬鹿な子……」
一人の女と摂理、どちらが大切かわからないはずがない。
「それでも、起きたことは仕方がないのに」
『其方のため《・・・・・》の決断だぞ』
「そう。だから、シロだけの責任にはできないね」
月子の声は達観しているようだった。
シロの選択は誤りだ。
しかし、そうさせてしまったのは自分だと自覚もしている。彼を責める気はない。起きたことを、ただ受け入れていた。
『其方は赦すのか?』
「赦す、赦さないの問題じゃない。こういうのは……私たちは神様じゃないんだ。これから、どうするかのほうがよっぽど大事なんだよ」
神は赦せなければ罰を与える。
だが、人は違うのだ。
罰を与えられ、償えば終わりではない。
そのあとも生きていかなければいけない。いくつも選択に迫られて、そのたびに間違ったり、間違わなかったりする。
「シロは馬鹿なことをしたと思う。でも、私は……シロだけに背負わせたくない」
『このままにもできるぞ。狐がどれだけ死のうが、其方には関係せぬ。罰は其方に課せられたものではないからな』
天之御中主神の言葉は至極まっとうであった。
月子はシロと関わらずに生きることもできる。天之御中主神のことも忘れ、そのまま生活すればいいのだ。
むしろ、シロはそれをねがっているかもしれない。
彼にとって、月子が生きていてくれればよかったのだから。だからこそ、天之御中主神からの提案を受け入れて、月子の命を繋いだのだ。
「でも」
月子は声のトーンを落とした。
「助けると選択したのはシロだけれど、それを迫って実行したのは、あなただよ」
月子に指摘されて天之御中主神は目を細めた。興味深そうに彼女の言葉を聞いている。
「身勝手ではないかな」
その論は宇迦之御魂神と同じであった。
人間であり、神に仕える月子の口から出るべき言葉ではない。
『我の罪を問おうと言うのか。人が?』
「神様が絶対だなんて、思わないもの。とても強い存在なのは否定しようもない。でも、神様だって信仰がなくなれば堕神になって消える。あなたたちは、人間より優位で高いところから見おろしながら、その実、人間の信仰に依存しているの。矛盾していると思わない?」
『我は違う。其方らの信仰などに依存せず生まれ出でて、世界を見届ける』
「あら、ごめんなさい。あなたが私を人間と括るから、私もつい神様と括ってしまったね。でも、何事にも例外があると、今あなたが証明した」
月子は笑んだ。
「神様は間違える。絶対で完璧なんてありえない。それをあなたは証明したの。あなたは自分の意思で私を助け、間違えたの。そして、咎をすべてシロに課した……そうではないと言い切れる? 私は間違えているのかな?」
とても強い顔だと思った。
月子の言葉は明朗で、その視線はまったく揺れない。
なにも間違いは言っていない。逆に神の在り方を問うている。そこには強い意志があり、決意もあった。
神と亘る覚悟である。
恐れず、一歩も譲る気はない。
そういう強さがなければならなかった。そうでなければ、天之御中主神が黙ったまま彼女の言葉を続けさせない。
『なるほど』
天之御中主神の声は静かだった。
声を発したのに、辺りがシンと静まっているかのような錯覚に陥る。
『我にも咎を負えと』
「そうよ」
月子は事もなげに言い切った。本当に淀みがなく、声を聞いているだけで清流で泳いでいるかのような気分になる。
だが、九十九は月子の肩がかすかに震えているのを感じた。
この人だって、人間なのだ。
九十九と同じである。
そこに弱さと脆さを見たが……何故だか、それも彼女の強さだと思えた。
『其方も背負う覚悟は――問うまでもないか』
天之御中主神は前足をそろえて座った。
『認めよう。我は其方に興味があった。考えた通り、とんでもない女であったな。面白いの』
天之御中主神の神気がだんだん変質していく。
シロという器に入っていたものが、どんどん溶けあって一つになっていった。こんな神気の変化の仕方は初めてで、九十九は目を見張る。
けれども気づいた。
この神気には覚えがある。
神使のシロでも、天之御中主神でもない。
今現在の湯築屋を覆う結界――神様であるシロの神気と同質であった。
『我は檻に入ることにしよう。世になにも出でてこなかった虚無、混沌から世の終焉を待とう。それが摂理を曲げた咎とする』
天之御中主神の姿が変わっていく。
前足は白い肌の腕になり、墨のような深い髪が肩から落ちて紫水晶のような瞳が月子を見据える。
周囲が月子の家ではなくなってしまう。黄昏にも似た藍色の空間が広がっている。周りにはなにもなく、なにも聞こえない。
同じだ。
湯築屋の結界だった。
『この結界《檻》は此の神使そのものだ。否、もう神使とは呼べぬかの……此処で終焉まで囲われてやろうではないか』
天之御中主神の言う通り、それはもう神使と呼べる代物ではなくなっていた。天之御中主神と一つに融合したことにより……一柱の神となっている。
間違いなくシロだった。稲荷神白夜命と呼ばれる神であり……神使であった彼でもある。そして、天之御中主神でもあった。
だが、きっとそうではないのだ。
天之御中主神の言う通り、元々のシロであったものは結界そのものとなっている。そして、天之御中主神がおさまる身体もシロで構成されている。
融合しているが、天之御中主神はシロの中におさまっているのだ。一部が融けあってあいまいになっているが、その区別をつけようと思えばつけることができる。一柱であり、二柱のような存在だ。




