6.対価
次の記憶は日付が変わっているようだった。
土砂降りの雨と強い風が吹いている。夜の闇のせいもあってか、前がよく見えない。現代と違って灯りも心許なく、なにを頼りにすればいいのかわからなかった。
ときどき空が雷によって照らされる。
遅れてゴロゴロと鳴る音が、地面を揺らすほど大きかった。
そんな嵐の中で、建物から人が外に出てくる。
月子だった。
「私、行ってくる」
扉の隙間から中をのぞくと、子供が布団に寝かされていた。顔色が悪く、咳をしている。月子は籠と雨具を身につけていた。雨具と言っても、頭に被る笠と簔である。この雨を満足に防げるものではなかった。
薬を採りに行こうとしているのだ。
こんな嵐の夜に。
それがどれだけ危険なことなのか、九十九にもわかった。中から月子を止める声が聞こえてきたが、彼女は聞かない。
「待って」
九十九は思わず、月子を止めようと声をかけてしまった。だが、ここは記憶の夢だ。無意味である。
「…………」
偶然なのか、月子が九十九のほうをふり返った。
期せずして目があって、九十九はその場で硬直する。
「シロ」
しかし、やはり偶然だったようだ。月子が声をかけた先は九十九のうしろだった。
ちょうど、真っ白な狐が地面におりてくるところであった。重力に反した軽やかさだ。雨に濡れた様子もない。嵐の暗闇でも、ぼんやりと白く光っている。
シロは月子にすり寄った。
「ついてきてくれるの?」
月子の問いにシロがうなずく。言葉はないが、月子にはその意味がわかっているようだ。九十九にも、なんとなくわかる。
「薬を採りに行きたい。あなたの足を貸して」
月子の求めに応じて、シロは彼女を背にのせた。そして、風のような軽やかさと速さで駆けていく。通常よりも大きな狐、それも神使だからこそできるのだと思う。暗闇の中でも迷わないようだった。
景色が移り、どんどん飛んでいく。
これなら大丈夫。そんな頼もしさがある。
「…………」
しかし、九十九の隣で見ている宇迦之御魂神は浮かない表情だった。
このあとに、よくないことが起こる。そう伝えられている気がした。
いや……たぶん、そうなのだ。
宇迦之御魂神はすべてを知っている。
「ちょっとさがっていなさいな」
「え?」
唐突に宇迦之御魂神がなにかを察知した。彼女は九十九を自分のうしろに庇って右手をあげる。
その瞬間、強い稲光があった。
雷が落ちたのだと悟ったのは、ずっと嵐だったからだろう。宇迦之御魂神が周囲を囲っていた結界が大きく震え、衝撃が中まで伝わった。
「え? え……どうして……」
ここは夢の中。そして、記憶の中だ。
先ほどまでは、誰にも触れることができなかった。九十九たちの存在も認知されないままだったのだ。
それなのに、雷が落ちた。
「ここから先を、白夜が誰にも見られたくないからよ」
宇迦之御魂神は言っていた。
シロの記憶に潜ることは無意識のうちに阻まれているのだと。そのために、宇迦之御魂神が一緒に来ている。
それは九十九が記憶の奥に行き着くためだけではない。九十九を拒む障害から守ってくれるためでもあるのだ。
今のように攻撃されることもある。
シロに拒絶されているような気がした。
胸の奥がキュッと縮こまるように痛い。
本当は見られたくないのだ。シロは九十九に帰ってほしいと思っている――。
「――ううん、違う」
シロは言ったのだ。
九十九に教えてくれると言ってくれた。そして、見せてくれている。その覚悟をしてくれたのだと九十九は信じたかった。
「シロ様、ごめんなさい。ありがとうございます」
襲ってくる落雷がシロの悲鳴のように思えた。
けれども、それでも辿り着かないといけない。九十九は記憶の深淵をのぞく必要があった。
にぎった手の中には、いつの間にか……羽根があった。
持ってきた覚えはない。
シロからもらった真っ白い羽根が、手におさまっている。白にも銀にも見える不思議な輝き。白鷺の羽根――これは天之御中主神のものだ。
「ああ、もう! キリがないのだわ! 往生際が悪い子ね!」
宇迦之御魂神が半ば怒りながら結界を強化している。九十九はなにもできない。
だが、ここは宇迦之御魂神にまかせることにする。
今の九十九の役目は、シロの記憶を見ることだ。
見逃してはならない。
嵐を駆ける神使と巫女の様子を、じっと見守った。
「あ……!」
しかし、やがて。
森を駆けていた二人に向けて雷が落ちたのだ。
シロはとっさに避けるが、近くの大樹が真っ二つに裂けるように折れた。そして、そのまま体勢を崩したシロと月子たちの上へと倒れる。
「あ、ああ!」
大きな樹の幹に押しつぶされるように、月子が下敷きになった。シロもぬかるんだ地面に放り出されてしまう。
九十九は足が竦んだ。目をそらせてしまいそうになりながら、現状を見ていることしかできなかった。
これは記憶だ。もう起こってしまったことなのだ。
シロが急いで立ちあがった。前足を怪我しているようだが、大事はなさそうだ。木の下敷きとなった月子にすり寄る。
小さくうなりながら顔を舐めるが、月子の反応はなかった。
気絶しているのか、それとも――。
いつまでも返事をしない月子に、シロは何度も何度も顔をすりつけていた。まるで泣いているように見えて、九十九は心が締めつけられる。
嵐が止んでいた。
急に雲が晴れ、青白い満月の光が射し込んでいる。
先ほどまでの雨や落雷はなんだったのだろう。やわらかい月光と静寂に包まれている様は本当に穏やかで……だからこそ、胸に刺さった。
そして、九十九はふと気がつく。
月明かりが射してわかった。
この場所は、夢でよく見た岩場である。
『神の使いが人の死を嘆くか』
月子に寄り添うシロの前に、ふわりと舞いおりた。
翼をはためかせる音も、衣がすれる音もしない。
まるで、そこにずっといたかのように、人の形をした神が岩場におりていた。
『やはり、人は脆いな』
天之御中主神は木の下敷きになった月子を一瞥する。その顔に感情のようなものを読みとることはできない。
ただ淡々と事実を見届けているように見えた。
シロはそんな天之御中主神の言葉など聞かず、月子の顔に鼻を押しつける。けれども、彼女は目を開けなかった。
『無駄だ』
天之御中主神の声は冷淡である。言葉は短かったが、呆れているようにも見えた。シロの価値観を理解できない。そう言いたげであった。
けれども、そこを立ち去る気配はない。
ただシロが嘆いて鳴いているのを聞いていた。
『それほど、この娘が惜しいか?』
シロはようやく顔をあげ、天之御中主神を見た。
『ふん』
天之御中主神には、シロの言葉が聞こえているのだろうか。
少し思案していた。
『選べ』
天之御中主神は、月子を指さした。
『その娘を救おう。未だ魂は黄泉へは渡っておらぬ』
そして、次にシロを指さす。
『ただし、命の対価は命だ。他の対価では贖えぬ。そして、この選択は摂理を曲げるものと思え』
シロは硬直していた。
考えている。天之御中主神が示した選択について。
九十九は嫌な予感がした。
シロの命と引き換えに月子を助けよう。そういう提案のように聞こえた。だが、天之御中主神はこうも言っている。
この選択は摂理を曲げる、と。
摂理は摂理だ。
それは湯築屋のお客様である神々も言っている。そこに反することはできないのだ。たとえ神であっても、易々と曲げていいものではない。そういうものであると、九十九は教わって育ってきた。
駄目だ。
これは……選ぶべきではない。
シロが神使であるなら、九十九などよりも理解しているはずだ。
選んではいけない。
『そうか』
天之御中主神は静かにうなずいた。
シロが返答したのだとわかる。その声は九十九には聞こえなかった。なんと言ったのだろう。シロはどう答えたのだろう。正しい《・・・》選択をしたのだろうか。
『よかろう』
天之御中主神が座っていた岩をなでる。気がつくと、その岩肌にはびっしりと草が生えていた。前日まで、いや、さっきまで草など生えていなかったのに……命であふれている。
岩場の間から少しずつ、水がわきあがった。
いや、水ではない。
湯気が出ている。
お湯だ。
温泉であった。
道後温泉と同じ神気を感じる。それも、ずっと強い。
こんなに強い神気は初めてだった。
そして、悟る。
シロは……月子の命を選んでしまったのだと。
「これは摂理を曲げる禁忌なのよ。だから、神々だって侵さない」
いつの間にか、九十九は震えていた。その肩に宇迦之御魂神が触れる。
宇迦之御魂神の声は怒っているように感じた。それは神々が侵さない一線を越えた天之御中主神に対する怒りかもしれない。
「このあと、月子さんは……?」
「傷は癒え、息を吹き返したわ」
恐る恐る問うと、宇迦之御魂神は事実を淡々と述べた。
感情を押し殺している。あふれ出す神気によって白い髪がふわりと浮きあがった。琥珀色の瞳には、抑えきれない強い感情が見える。
「愚かだったのは我が子かもしれない。でも……あの選択は神として問うてはならないものよ。他の神々はそれが彼の特権だと言うけれど……私は赦せないのだわ。だって……だって……」
「宇迦之御魂神様……」
シロは宇迦之御魂神の神使だった。神の使いであり、眷属。我が子のようなものである。宇迦之御魂神が感情を揺らす理由が痛いほど伝わってきた。
「命の対価は命で贖われた。失われたものを巻き戻した対価は大きいと、あなたも覚えておくといいわ」
しかし、シロは生きている。死んでなどいない。
九十九は疑問だった。
対価となった命は、シロのものではないのだろうか。
「対価は同胞……たくさん死んだわ」
「え……」
まずはシロと対を成していた神使のクロが消えた。
その後、近隣に住んでいた狐たちが理由もなく死んでいったのだ。化け狐たちだけではない。山に住んでいた妖力を持たぬ狐たちも同様であった。
四国には狸の逸話が多く残っている。それは、そもそも四国に狐が少ないからだという説があった。その理由が……。
――儂のせいだ……つまらぬ話はやめよう。
以前にシロも言っていた。狐が減ったのは自分のせいだ、と。
あのときは気にもとめなかったが……理由を知ってしまい、九十九は後悔した。あのときのシロは、どんな気持ちだっただろう。あまりよく見ていなかったが、つらい思いをさせてしまったのではないか。
思い返したって遅い。しかし、シロは後悔を口にしていたのだ。気づいてあげられなかった。
知らなかったから。
だが、今は違う。
九十九は知った。そして、まだ知らねばならない。




