5.永遠の価値
少し歩くだけで、景色が変わる。
同じ森には違いなかったが、場所が違う。
大きな樹が一本立っている。その足元に小さな祠があった。古びているが、よく手入れされている。
木製の小さな鳥居が見えた。参道の左右には稲荷像が置かれている。小さいけれど、昔の神社なのだと思う。今ほど整ってはいないが、ちゃんと信仰されているのが感じられた。
やがて、女の人が一人歩いてくる。
月子だった。
先ほどまでの少女ではなく、成長した姿だ。可憐な面影はそのままに、儚くて不思議な空気をまとっていた。
いつも夢の中で会っていた月子の姿だ。
「シロ、クロ」
月子が参道の稲荷像に声をかける。すると、灰色だった石の像はみるみる生き物の生気を帯びた。ざらりとした石の表面は白い体毛となり、ピンと伸ばしていた背筋が丸くなる。白夜と呼ばれる狐の神使だった。
反対側の稲荷像は真っ黒な狐になっていた。こちらも神使である。クロと呼ばれていたのが名前だろう。二匹は真っ白と真っ黒であったが、神気の質が似通っている。神使であり、兄弟のようなものかもしれない。
二匹の神使は月子によく懐いているようだった。月子はそんな二匹の頭をなでて微笑んでいる。
「ちょっと言ってくるね」
月子がそう言うと、神使たちは心配そうにしていた。だが、月子は背負っている籠を二匹に見せて笑う。
「薬が必要なの。ついて来なくて大丈夫。ちゃんと戻るから」
そう言うと、クロは大人しく一歩さがった。しかし、シロのほうはまだ月子の身体に顔をすりつけて名残惜しそうにしている。
「甘えたって駄目」
月子は軽く笑いながらシロの大きな尻尾を押し退けた。月子は成長して大人になったが、シロのほうは子供のときに戯れついていた感覚が抜けないようだ。「もっと、遊んで」と言っているみたいだった。
なんだか、今のシロ様と変わらない。
神使を見て九十九はそんな印象を受けた。子供のように駄々をこねてまとわりつくシロの姿と重ねてしまう。姿も神気も違うのに、不思議なことだ。
「変わらないでしょ?」
「はい……やっぱり、シロ様なんですね」
九十九は思わず微笑むが、宇迦之御魂神は違った。少しだけ悲しそうに目を伏せて、やがて顔をあげる。
「月子について行くのだわ」
「はい」
宇迦之御魂神が示され、九十九はうなずく。なんとかシロを引き剥がした月子が籠を抱えて森へ入っていくところだった。
ついて歩くと、周囲の景色もあわせてまた変化する。
「さっきの神使……クロは、今はどうしているんですか?」
月子について歩く道すがら、九十九は宇迦之御魂神に問う。
さっきの神社は、今の九十九が暮らしている現代では、どうなっているのだろう。クロも宇迦之御魂神の神使のはずだ。今はどうしているのだろうか。
けれども、宇迦之御魂神は答えてくれなかった。
聞こえているはずだ。
九十九は不安に駆られる。
シロはこの夢を九十九に見せたがらなかった。九十九だけではない。誰にも見られたくないのだろう。
嫌な感じがした。
月子の背中を追いながら、ただ「悪いことが起こりませんように」と祈っている。
当の月子は何事もなく、籠に薬草を摘んでいた。働き者のようで、一生懸命だ。身体が強そうには見えないが、現代人の九十九などよりしっかり者に見えた。
やがて、月子は休息をとりはじめる。岩場に腰をおろし、一息ついていた。
その岩場に見覚えがあって……九十九は目を瞬かせる。
やはり、以前に見た。
夢で見たことがある場所だ。
この岩場には――。
『またここにおるのか』
音もなく舞いおりた。
月子が腰かける岩場に、一羽の白鷺が羽を休める。だが、普通の白鷺ではないのは九十九にだってわかった。
シロからもらった羽根と同じ神気を感じる。
そして、何度も出会った……やはり、九十九はあの白鷺に夢で会っていたのだと思う。そうだ。会っていた。
思い出す。
彼は最初にして、最後の神。原初の世に出でて、世の終焉を見送る者――別天津神だと言っていた。そういう問答をしたことがある。宇迦之御魂神のおかげか、今ははっきりと思い出せた。
これが……天之御中主神。
話が繋がりそうだった。だが、まだわからない。九十九は流れる記憶を見守り続けるしかなかった。
『別の場所に移ろうとは思わぬのか』
「ええ、ここは私の休憩場所だよ。それに、今日も先に来たのは私」
『我がどのような神か知っておろうに』
「悪い神様でないのなは知っていますとも」
月子は天之御中主神から話しかけられても、特に様子が変わらなかった。神使たちに対する態度と同じだ。竹の皮に包んだ白いおにぎりを食べている。
『神に善悪などという概念か。無意味だの。何処で判断する?』
「直感かな」
あまりに月子が迷いなく言ったので、天之御中主神のほうが黙ってしまった。月子がおにぎりを二つ分、小さな口で食べ終わるのを待つばかりになる。
「急に黙ってどうしたの? 欲しかった?」
『いらぬ』
「あっそ」
竹の皮に残った米粒まで指でつまんで、月子は「ごちそうさま」と手をあわせた。
「ねえ、なにか話してよ」
『なにを』
「いろんな土地のことよ。その姿で旅をしていると言っていたでしょう?」
『勝手に旅と解釈したのは、其方だと思うが』
「違うの?」
『我の神気は清め、生み出す力が強すぎる。一箇所に留まることができぬだけだ』
言いながら、天之御中主神は自らの片足をあげた。すると、そこには小さな草が生えている。先ほどまでは、なにもなかったはずの場所だ。
こんな短時間で草が生えるはずがない。天之御中主神が舞いおりたことで芽吹いたのだとわかった。
「どうせなら、花にしてほしかったけど」
『其方、不遜過ぎではないかの?』
天之御中主神が翼をはためかせた。すると、一瞬のうちに姿が変わる。
白い翼はそのままに、身体が縦に伸び人間のような姿になった。長く垂れた髪は墨のように深い黒だ。整った顔立ちは人形めいており、瞳は紫水晶のような不思議な色をしていた。
美しい姿だった。
白鷺は仮の姿で、こちらが本来の見目なのだろう。
『我の巫女になるか?』
天之御中主神は月子の身体に触れる。
逃げることは許さない。そういう雰囲気を感じた。
『我は留まれぬ。場所を移しながら、生まれ出でた世の変遷を見守るのが唯一の役割だからの』
天之御中主神は月子の胸に手を当てた。
『だが、異界の檻で囲ってしまえば別だ。なにも生まれる前の原初の世界。我が巫女となれば、悠久の刻を与えよう。其方なら、檻の中でも退屈しなさそうだ』
天之御中主神は冗談のように口角をつりあげていた。月子の返答を試している。九十九にはそう思えた。
だが、同時にこれは本気の問答であるとも感じる。
見ているだけの九十九にまで緊張感が伝わってきた。天照や湯築屋に訪れるお客様たちは、時折、九十九を試す。それと似た緊張感があった。
そして、気づく。
天之御中主神が示している檻って、それ――。
「お断りよ」
月子の返答は簡素であった。
『永遠に興味はないと?』
「ないかな」
『ほお?』
月子の表情は穏やかなままだった。
「だって、あなたが別に楽しそうには見えない」
月子の言葉を聞いて、天之御中主神は表情を硬くした。
意外。いや、心中を見抜かれた。そういう表情だ。
「神様は信仰がないと存在できない。でも、あなたは違うのよね。なにもないところから最初に生まれた原初の神。堕神にならず、ただずっと世界の終わりまで存在し続けるのが役目。他に役割を持たず、ただ見守っているだけ……あなたはそう言っていたけれど、一つも楽しそうな顔をしなかった。自分の加護や役割に誇りを持っているようにも見えなかった。永遠に価値がないのは、あなたが教えてくれている。違うかな?」
天之御中主神は黙したままだ。
月子の言葉を肯定しているように見えた。
「今みたいに、一時の話し相手にはなってあげられますよ。でも、あなたの永遠につきあうのは御免です」
はっきりとそう告げて、月子は頭をさげる。
今までの態度とは、少し違う。神としての敬意を払っているのだ。
「さようなら」
月子の顔が、九十九には印象的だった。
儚くて、美しくて……それでも強くて、まぶしい。
こういう人だから、天之御中主神は誘ったのではないか。記憶をのぞいている九十九でも、彼女のことが知りたいと思ってしまった。
それくらい強い光にような魅力を感じる。
「月子さん……すごい人ですね」
九十九の胸はどきどきと脈打っていた。伝わってきた緊張のせいだろう。掌には汗もかいていた。
宇迦之御魂神は九十九の声にうなずく。
「そうね、いい巫女なのよ」
周りに見えていた木々や岩場、天之御中主神や月子の姿が蜃気楼のように揺らいだ。景色が消えて、真っ暗になってしまう。
なにもない。
どこを見渡しても虚無であった。
怖い。
けれども、ここは似ている。
湯築屋の結界に似ている気がした。
「天之御中主神は原初の神。なにもないところから生まれ、世界の終わりを見つめる神。そういう役割なのだわ。私たちとは違うの。堕神にはならず、信仰を必要としない。だから、別天津神たちは私たち国津神とも、天津神とも区別されるの」
宇迦之御魂神はそう説明した。
須佐之男命も、別天津神を自分たちと区別していたのを思い出す。あれは、そういう意図があったのだ。
「天之御中主神様は白鷺の姿で旅をされていたんですか?」
「そうね。彼は瘴気を浄化し、生み出す神なの。一つの地に留まり続ければ過度の恵みが与えられてしまう。うーん……喩えるなら、特定の地が高天原みたいになるって感じかしらね? 実際にそうなっていないから、わからないのだけど。でも、確実に人間は住めなくなるわ。聖域になるのよ」
一つの土地に留まれない。
それで永遠を生きるのだ。
世界のはじまりと終わりを見届けるという役目のために。
「檻のような結界で囲うか、一箇所に留まらず放浪するしかないの。檻にいるよりは各地を渡ったほうがマシだと思っていたのでしょうね」
神様には、みんな役割がある。人はその所業に畏怖を抱き、恐れ、信仰するのだ。そして、忘れられれば堕神となって消える。それが普通の流れだった。
天之御中主神は違うのだ。
「なんか……寂しいですね」
月子が言っていた言葉がよみがえる。
たしかに、天之御中主神が永遠を楽しんでいるようには見えなかった。
「ときどき、気に入った人間に手を貸したり、ああして話しかけたりしていたみたいだけど。伊波礼琵古とか、だいぶ助かったみたいよね」
九十九は視線を落とした。
だが、宇迦之御魂神は手招きする。
次を見に行くという合図だ。
まだ聞きたいことはあったが、九十九はうなずいた。




