4.阻まれていた夢
もう何度目だろう。
夢の中にいるという感覚を、九十九ははっきりと自覚した。そして、今回は不思議と思考が冴えていると感じる。
覚えていた。
水に沈んでいくような感覚も、浮きあがりそうになる浮遊感も、何度も何度も忘れ、そのたびに体験してきたことも。
いつも同じような夢を見ている。
どうして、いつも忘れてしまっていたのだろう。
「それは拒まれているから」
「拒まれて……?」
夢の奥に沈む最中、肩に手がのせられる。優しくて温かい。覚えのある手――宇迦之御魂神であった。どうして夢の中に宇迦之御魂神がいるのだろう。
その答えを示すように、宇迦之御魂神は周囲を見回した。
宇迦之御魂神と九十九を包む泡のような結界が見える。やわらかくて、ふよふよとシャボン玉のようだった。
「ここはあなたの夢。それと同時に、白夜の夢でもある」
「シロ様の……夢?」
「繋がっているのよ」
夢と夢が繋がっている。夢から夢へと移動する夢渡りというものもあるが、それに似ているのだろうか。
「白夜が見せたくない夢に近づくと無意識に阻まれてしまうの。あなたの場合は神気の親和性が高すぎるから余計にね。だから、夢そのものの記憶を消されている」
「親和性?」
「湯築の巫女はみんな同じ夢を見る。夢で繋がっているのよ。あなたの神気は月子に似すぎているから……他の巫女では辿り着けなかった深淵まで潜れてしまう」
月子?
知っている名前だった。今なら思い出せる。
いつも夢で会う女の人だ。
「阻まれないよう、私が案内するのだわ。ついてきなさいな。そこに白夜がいる」
宇迦之御魂神の言葉は改めて試されているようだった。
このまま先へ行くか。
それとも、引き返すか。
「行きます」
九十九は言いながら前を向いた。
「そう。安心したのだわ」
水底のような夢の中を泳ぐように、前へ進む。進度は心の迷いや戸惑いに影響を受けるのだろうか。しっかり前を向くほど、速く進んでいるような気がした。
「この夢は巫女たちが見る夢なの。本当はあなたも何度も見ているべき夢なのだけれど、白夜のせいで忘れているのね」
「見るべき?」
「ここで覚えるのよ」
「覚える……」
「神の力を使う術を」
稲荷神白夜命の力を使うための修行は歴代の巫女から巫女へと伝えられる。九十九の場合は先代が早くになくなったため、学校を卒業してから登季子から教えられることになっていた。
しかし、ここで覚えるべきなのは違う術らしい。
思い当たるのは、ときどき現れる存在だ。
五色浜で見た白鷺の翼を持った――。
「もう一柱……いらっしゃいますよね」
「そう。察しがよくて助かるのだわ。この夢で学ぶのは稲荷神白夜命の術ではなくて……もう一柱。天之御中主神の力を御する術」
「天之……御中主神?」
知らない神様の名前ではない。
湯築屋には訪れたことはないが、知識として知っている。
天地開闢の際、最初に現れたとされる別天津神。日本神話における、原初の神の名だ。
そんな神様の名前が出てくるとは思っておらず、九十九はどうすればいいのかわらない。そもそも、シロがどのような状態なのか。何故、そうなっているのかがわからない。
「それは、これから見ていったほうがいいわ」
九十九の疑問に返答するように、宇迦之御魂神は前方を指さした。
水の中を進む感覚が薄れていく。
もうすぐ「底」につくのだ。と、薄ら感じた。
今までに忘れてきた夢でも、そうだった気がする。いつも水の中を漂うばかりではなくて、どこか違う景色を見て、誰かに会っていた。
誰か。
そうだ。
いつも夢の中で会う女の人。
月子と名乗る女性だった。
「…………!」
気がつくと、九十九は森の中に立っていた。身体の浮遊感も消え、きちんと地面に足がついている。
隣を確認すると、宇迦之御魂神が寄り添うように立っていた。
「ここは、白夜が阻んで今まで辿り着けなかった場所よ」
「シロ様が阻んで……」
「でも、勘違いしないでほしいのだわ。私の役目は妨害からの守護よ。あなたは本来、いつだってここまで来られた。他の巫女に、今まで辿り着ける人間などいなかったの。あなただけで。だから拒まれていたのだわ。一番見せたくない部分を見られてしまうから」
どうして、九十九だけ。
けれども、その答えは先ほどもらった。
九十九の神気が月子という女性に似ているから。
神様からも妖からも「甘い」と称される神気だ。登季子や歴代の巫女よりも強いと言われていた。だから九十九は巫女に選ばれたのだ。
それなのに、この神気が原因でシロの夢に拒まれている。
酷い矛盾だと感じた。同時に、少し寂しい気もする。実際はそんな感傷的な問題ではないのかもしれないけれど。
「シロ! 待ってってば!」
どこからか小さな女の子の声が聞こえる。楽しそうにはしゃぎながら走っているようだった。
九十九が辺りを見回すまでもなく、木と木の間から転がるように女の子が飛び出してくる。
しなやかな黒髪を揺らし、はつらつとした顔で辺りを見回す女の子。黒々とした瞳が愛くるしく、忙しそうだった。
月子。
前にも夢で会った。あのときよりもずいぶんと幼い気がしたが、間違いないと直感する。
しかし、月子のほうは九十九たちに気づかない。話しかける様子もなければ、視界にも入っていないようだった。
「記憶をのぞき見ているだけだから」
「そう、なんですね……」
宇迦之御魂神に補足されるが、九十九には慣れない感覚だった。テレビや映画を見ていると思えばいいのだろうか。
記憶だと言うが、景色も植物も、そして幼い月子も……すべてが本物に思えた。リアルである。
それくらい鮮明な記憶なのだろうか。シロはずっと昔のことも昨日の話のように覚えていたりする。
「シロってばー!」
月子が叫ぶと、林の中から白い影が飛び出してきた。あまりに勢いがあったので、九十九まで驚いてしまう。
白い犬、いや、狐だった。
それも、普通の狐とは明らかに違う。大きい。幼いとはいえ、月子の身体と同じくらいはあった。
「いた!」
月子が両手を広げると、狐が飛び込んだ。襲われているわけではない。じゃれつくように、月子の顔を舐め回していた。犬ではなく狐なのだが……犬のようだった。
白い尻尾がもふもふと左右に揺れ、狐はとても嬉しそうだ。とても月子という少女に懐いている。本当に仲がよいのだと傍目にわかった。
シロと呼ばれていた。
九十九は宇迦之御魂神の顔を見る。すると、宇迦之御魂神はこくりとうなずく。肯定されているようだった。
あの狐は……シロなのだと思う。
宇迦之御魂神がうなずいたのに、少し自信がなかったのは神気が違っていたからだ。いや、同じ……だが、同一ではない。
神気は感じるが、神の一柱のものではなかった。これは神使、神の使いや眷属と呼ばれる類だろう。ほんのりと宇迦之御魂神の神気を感じ、彼女の神使だと察した。
「シロ様にとって宇迦之御魂神様が母親に当たる理由って……」
「そう。元々は、私の神使《愛し子》だからよ。この近くに、私を祀った神社もある。月子はそこの巫女だったのだわ」
「やっぱり……でも、え? え?」
九十九は納得したあとで混乱した。
元々、シロが宇迦之御魂神の神使だったというのは理解した。けれども、今のシロは独立した神の一柱である。神気が単純に強くなっただけでは神とはならない。神使が神になるなど、ありえるのだろうか。
だがそもそも、シロという神について九十九は疑問があった。
神は信仰がなければ存在していけない。信仰がなくなれば堕神となって消えてしまう。ゆえに、彼らにとって人間の信仰は不可欠だった。同時に、信仰の広さや深さは神としての神気にも影響を与える。
稲荷神白夜命は特殊な神だ。
祀る神社もなければ、信者もいない。湯築の間だけで信仰する限定的な氏神のようなものである。
そんな神様にしては強すぎるのだ。
結界の中だけとはいえ、誰も彼には敵わない。古今東西あらゆる神の力を削ぐ絶対不可侵の空間を維持するなど、並みの神にはできないことだ。
そうなっているのには理由がある。
「もう少し奥へ行きましょう」
宇迦之御魂神が手招きした。
その先に答えはある。
楽しそうに戯れる巫女と神使の横を通り過ぎて、九十九は宇迦之御魂神が示す方向へ歩いた。




