3.眠りへ
いつも通りに業務が終わる。
何事もなかった。そう言ってしまっても、いい一日だろう。
九十九はお風呂でほぐした身体を伸ばして、自分の部屋に帰る。
「んぅ……」
スマホを見ると、京から通知が来ていた。大学デビュー前に私服を調達しようと、買い物の約束をしているのだ。
卒業式を終えたと思ったら、今度は入学がひかえている。いろんな書類をそろえなければならないし、準備がとにかく大変だと思った。受験とは別の方向で心配になってくる。
もう大学生か。
数週間後の自分がイメージできなかった。
「九十九」
ふと、呼ばれた。
声に聞き覚えがあったので、「誰?」とは思わなかった。実際、九十九がふり返ると、思った通りの姿がそこにはあった。
「シロ様」
シロは部屋の窓枠に腰かけていた。
普段、勝手に部屋へ入るなと言っている。そのせいか、床には足をつけていない。床に足をつけなければ入室していないなどとうルールはないのだが、本人はそれでアリバイを主張しているつもりのようだ。
「なにかご用ですか?」
問いかけると、シロはようやく床に足をおろす。
「九十九、約束だ」
シロはそう言って、手を前に出した。にぎれということだろうか。九十九には意図がわからなかった。
「約束?」
「話すと言った」
胸の奥が引きしまるように鳴った。
あの約束だ。
シロについて話してくれる。
九十九が知りたかった――。
「まだ誕生日に……なっていませんけど」
知りたかったはずなのに、何故だか怖い。九十九は無意識のうちに、牽制の言葉を口にしていた。
「起きるころには、その頃合いだ」
「起きるころ……?」
起きる?
眠るということだろうか?
シロの言葉がわからなくて九十九は困惑するしかなかった。
「こういうのも、夢で見るってことですか?」
自分で言いながら違和感があった。
こういうの?
まるで、以前にも夢でなにかを見たかのような言い回しだ。
自分の言葉なのに不思議だった。「あれ?」と首を傾げながら意味を考える。だが、妙に落ち着いていて、納得している自分がいるのだ。
受け入れる準備を心がしている。
なにもかも整っているような気がした。
「私も手伝うのだわ」
反対側から声がしてふり向くと、今度は宇迦之御魂神がいた。シロとよく似た容姿の女神は九十九の肩に手を置いて微笑んでいる。
「だから、安心して委ねるといいわ」
そう言われると安心できる気がした。
なんの説明もないのに。
シロはいつもそうだ。
九十九にはなにも教えてくれない。
言ってくれないと、わからないのに……しかし、すべて委ねていればなんとかなる。そういうところがある。
きっと、今回もそうなのだろう。
シロに委ねればいい。
でも。
「シロ様」
九十九はシロのほうへと歩く。
一歩一歩が重かったが、自然と前に出る感覚があった。
「おねがいします……でも、わたしは教えていただくわけじゃないです」
シロの手に自分の手を重ねた。
「シロ様から教えてもらえるのを、ずっと待っていたんです。わたしの決めたことです。わたしが知りたいと思って、そうしていたんです」
だんだん瞼が重くなってきた。喋っているのに、目を開けているのも辛くなってくる。足元もふわふわしてきた。身体が大きくよろめいたあと、うしろから誰かが支えてくれた。おそらく、宇迦之御魂神だろう。
「わたしは――」
あなたを知りたい。
あなたのことが、好きだから――。
♨ ♨ ♨
眠りに落ちた九十九の身体を抱きとめる。
存外軽い。
しかし、人間らしい重みがあった。
その身体を、敷いてある布団にそっと寝かせる。
「私、嬉しいのだわ」
宇迦之御魂神が笑い、寝かせられた九十九の隣に正座する。三つ編みにした髪留めを解くと、白い髪がふわりと広がった。結い跡はついておらず、まっすぐ滑らかだ。
「白夜が他者を受け入れてくれて」
シロはなにも答えなかった。
受け入れた、という意味について考える。そうだろうか?
しかし、少なくともシロは見せることにした。それが宇迦之御魂神の言う「受け入れる」ということなのだろうか。
「それに、この子なら大丈夫よ」
宇迦之御魂神があまりに朗らかに笑うので、シロは眉を寄せた。
「根拠もなく……」
「根拠はないわ。でも、女神の勘というやつよ」
宇迦之御魂神は目を閉じた九十九の額に触れる。優しい母親かなにかのように、そっとなでてやった。
「この子は白夜が考えるよりも、ずっと強いわ。もっと信じてあげなさいな――そう思ったから、見せる気になったのでしょうけど。だから、嬉しいのだわ。白夜がそういう人間に、また巡り会ってくれて。母として心配だったもの」
「また母などと……」
「母よ。いつまで経っても、ね。どれだけ形が変わってしまっても、本質はなにも変わらない。神々《私たち》にとって大切なのは、そこだけよ。形も上辺も関係ないの。あなたは違うというかもしれないけれど」
そう。神にとっては本質こそがすべてだ。
いくら形が変わってしまっても、そこにある本質は変わらない。
そう理解しているし、その価値観はシロも持っている。シロだって同じものの見方をしているのだ。
しかし、一方で「そうではない。もう違う」と否定している。
シロは――稲荷神白夜命は違う。
他の神とは違うのだ。
酷く歪な自分の在り方は、決して理解されない。
「この子はね、強い子よ。月子みたいに」
月子。
その名を聞いて、シロはハッと我に返った。
遅れて、胸に後悔も襲う。
これから九十九は夢を見る。
本当にそれでいいのか。
そう、手を伸ばし――伸ばした手を宇迦之御魂神が両手で包んだ。
微笑む女神はなだめるように、
「じゃあ、待っているのね」
そう言いながら、目を閉じた。




