10.目覚めの朝
あれ……?
わたし、昨日は布団に入ったんだっけ?
髪がゴムで結ったままになっている。必ず、寝る前には外すはずなのに。
「んぅ……」
よっぽど、疲れていたのだろう。窓も開けっぱなしで、机の電気も消していなかった。単語帳には、ミミズのような文字が這っている。きっと、昨夜は壮絶な眠気との格闘を繰り広げ……そして、負けたのだろうと察することができた。
だが、目覚めは大変にいい。
頭がすっきりしている。いつもより、身体が軽くて視界もクリアな気がした。
九十九は大きく伸びをして、肩を回す。久しぶりに、気持ちがいい朝だと感じた。それくらい、よく眠れていたのだろう。
パジャマを脱ぎ捨てて、制服に袖を通す。入学式や始業式でもないのに、シャキッと引きしまる気がした。湯築屋の結界の中だが、空気も美味しい。
九十九はそのまま、母屋の台所へおりた。幸一はすでに厨房で、お客様の朝食を準備している時間だ。九十九も本来は朝食の手伝いや配膳をするべきだが、学校の始業時間があるため免除されている。
大学生になったら、もう少し朝の時間にも余裕ができるかもしれない……ぼんやりと、数ヶ月後の自分について思い浮かべる。
しかし、ちっとも実感がわかなかった。
それどころか、高校を卒業しなくてはならない。受験が終わったあとのことを、なにも想像ができないのだ。
数ヶ月後、そこにはどんな自分がいるのだろう。
わくわくする。
いいや、不安だ。
どちらでもあり、どちらでもない気がした。
「あ、若女将っ。いってらっしゃいませ!」
九十九は玄関へ向かっていると、朝餉の配膳中だったコマが頭をさげようとする。
だが、頭の上にお膳をのせて、両手で支えている格好だ。上手くお辞儀ができない。
「あ、あっ!」
危うく、傾きそうになるお膳を、九十九が支えてあげる。
「ありがとう、コマ」
「うう……こちらこそです……すみません、若女将」
少々位置がズレたお箸や小鉢を直して、九十九はコマに手をふった。コマは今度こそ、お膳を落とさないように無理にお辞儀には挑戦せず、「いってらっしゃいませっ!」と声をあげてくれる。
両手の代わりに、背中でもふりとした尻尾が左右にぴょこぴょこと揺れていた。
「うん、いってきます!」
靴を履いて玄関を飛び出す。
湯築屋の結界には天気がない。四季がない。気温の変化もない。空は藍色が広がるばかりで、雲も月も星もない。太陽も昇らない。
周囲から隔絶された空間。
あるのは、シロの裁量で変化する幻だ。冷たくない雪が静かにふっている。庭に咲く寒椿の花も、本物ではない。
だが、紙吹雪や造花とも違う。妙なリアリティがあり、「そこに、本当に存在している」かのような錯覚を覚える。
ここは、檻のようだと言うお客様がいた。
そうだとすれば、閉じ込められているのは――。
「いい顔じゃないかね」
ついぼんやりと足を止めていた。そこへ声をかけられて、九十九は我に返るようにふり向く。
「道真様」
道真は余裕のある笑みをたたえ、庭石の上に座っていた。いつからいたのだろう。神様にそれを問うのは無粋だ。彼らは気がついたら、そこにいる。
いや、いつだって見守っているのだ。
九十九だけではない。自分を信仰する人間を見守っている。誰のそばにだって、彼らは存在するのだろう。
「どうせ、君のような凡人では、私を超越できまいよ。分不相応に、最高峰の学舎を希望しているわけでもない。身の丈にあった、実によい選択をしていると思うね」
「は、はあ……」
あいかわらず、一周回ってわかりにくい。
九十九が苦笑いしているのに気づき、道真は「ふむ」と考えなおす素振りをした。伝わっていないのが、わかったようだ。
「君なら、力を尽くせば大丈夫だよ。人を超越し、神に至った天才たる、この私が言葉をかけているのだから、もっと自信を持ってもらわねばならぬ」
「ありがとうございます……すみません、自信出ました」
「ふむ。よい顔だね。それなら、心配あるまい。無理はするなよ?」
道真は満足そうに、木笏で口元を隠す。
不器用というよりは、伝わりにくい。
人間と同じように、神様にもいろいろある。一人ひとり、一柱一柱、違った考え方を持っているのだ。
それにあわせておもてなしをするのが、九十九の仕事。
それは、神様たちもそうなのかもしれない。
道真は参拝客に応援の言葉を届けている。その方法は様々で、今回は九十九のために、言葉を届けてくれた。
同じなんだ。
人間と神様は異なるもの。
だが、根幹は――わかりあえるかもしれない。
「いってきます、道真様……ありがとうございます」
九十九はていねいに頭をさげ、道真に告げる。
道真はうなずきながら、「うむ……おっと、そろそろ朝餉だね」などと言って、姿を消してしまった。本当に、忽然と消えるので不思議だ。
九十九は改めて、湯築屋をふり返る。
道後温泉本館に似せた近代和風建築の外観。
オレンジ色のガス灯が、やわらかい光をたたえていた。
和風とも洋風とも言えぬ、近代日本、明治の趣を持ったたたずまいである。
これも、シロの結界で生み出された幻のようなもの――ここにあるのは、すべてそうだ。
けれども、九十九にはここが虚しいだとか、檻だとか、そんな場所であるようには思えない。ここは――湯築屋は、そんな場所ではない。
いいや、そんな場所にはしたくない。
お客様にとって、そして、シロにとって……湯築屋は、もっと別の意味を持っているはずだ。そうすべきなのだ。
その形を決めるのは、他でもない。
シロであり、ここで働く九十九たちなのではないかと思う。




