9.夢
これが夢だということは、わかる。
何度も、何度も……同じ夢を見ている気がした。
水の中のように、おぼれている。息はできるが、通常の呼吸とは異なっている気がした。浮きあがろうともがいても、どんどん底へと引きずり込まれていく。目も開くことができない。周りが、どんな色の水なのかも、わからなかった。
まただ。
初めての体験のはずなのに、どうしてか、そう感じた。
わたし、何度も同じ夢を見た。何故か、確信している。不思議な感覚だった。
『九十九』
名前を呼ばれた。
この声を知っている。
九十九は答えを求めて、手を伸ばした。そして、この手がつかむものは、いつだって同じだ。初めてなのに。
『九十九』
手がそれ《・・》に触れた瞬間、両目が開く。急激に景色が浮かびあがり、視界が開けていく。
九十九がおぼれていたはずの大量の水は、どこにもない。あるのは、木々の鬱蒼とした不気味さだけである。
頭上からは、青白いまんまるの月が見おろしていた。夜空のランプみたいだ。ほんのり温かくて、美しくて……心にしみる。そんな月だった。
九十九の手には、白い羽根。
シロからもらった羽根であった。
大きな岩がそびえるのが見える。九十九は、引き寄せられるように、そちらへ歩いた。一歩、二歩と、前に出る。
「あ……」
なんと、言えばいいのかわからなかった。
積み重なった岩間には、一羽の白鷺が羽を休めている。その白鷺を見て、九十九は声をかけようと思った。けれども、何故だか九十九は、白鷺に「またお会いしましたね」と言おうとしたのだ。初対面のはずなのに。おかしな話だ。ゆえに、つい口ごもってしまった。
白鷺は神使と伝えられている。
けれども、目の前にいる白鷺は神使などではない。使い魔の類とも違う。神そのものだと、確信した。
『また会ったな』
白鷺は嘴を開く。だが、声は耳ではなく、九十九の頭に直接届いている。テレパシーのようなもので、ずっと聞いていると頭痛がしそうだった。
「……はい」
初めて会ったはずだ。しかし、どうしても、そうは思えなかった。九十九は戸惑いながら、白鷺の声に応じる形で返す。
「あなたは……誰なんですか?」
『思い出せ』
「そんなこと――」
九十九は白鷺のこと知らない。知らないのだ――いや、思い出せない?
九十九は知っているはずだ。
それなのに、忘れている。
『我は、最初にして、最後の神。原初の世に出でて、世の終焉を見送る者』
ああ。
そうだ。
九十九は知っている。
この説明を聞いたことがあるのだろう。だが、思い出せなかったのだ。
「別天津神」
導き出された答えを述べる。
湯築屋には、様々な神様がお客様として訪れていた。ことに、日本神話の神々の来訪が多い。けれども、九十九の記憶する限り、いや、湯築屋の記録にも、別天津神のお客様はいなかった。
原初の神々。日本神話に語られる最初の神だと伝わっている。天地創造に当たる、天地開闢の際に姿を現した神様だ。天之御中主神が最初に現れ、続いて、 高御産巣日神、神産巣日神の二柱。これらを造化の三柱と呼ぶ。次いで、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の二柱が生まれた。この五柱を総称して、別天津神と呼ぶ。
別天津神は日本神話に現れた最初の神々だが、性別を持たない独神である。子孫を残さず、それ以降はお隠れになり、彼らに触れる記述はほとんどない。だが、根本的な影響力を持つとされる。最初に現れた天之御中主神を、日本神話の至高神として祀る神社もあった。
多くの神様には役割がある。それが八百万の神の思想だ。けれども、別天津神は性質が違う。神話に姿を現さず、神々も多くは語らない。湯築屋にも来ない。九十九には、イメージしにくい神様たちであった。
しかし、天照大神や須佐之男命の言葉を思い出す。彼らは別天津神を、自分たちとわけていた。異なるものとして語り、そして、敬っている。
そうすると、いろいろな言動にも納得がいくのだ。
「あなたは、別天津神なんですか?」
『それは、そなたに人間か問うのと同じことよの』
謎かけのような問いだ。微妙に論点がずらされている。
「じゃあ……そうなんですね」
『こだわる理由がわからぬ。其れは重要か?』
「重要です」
試されている気がした。
問いの一つひとつで、九十九の反応を見ている。お客様の神様と対話するときよりも、緊張した。圧のようなものを感じる。
「わたしは、あの方が知りたいんです」
待っていると約束した。けれども、それだけでは理解できない。
いや、九十九は理解しはじめている。
あの方――シロの本質について、九十九は気づきはじめていた。
「たぶん……待ってるだけじゃ駄目なんです……知ってそれで終わりじゃないと思うんです」
そんな気がする。
それだけでは、駄目なのだ。
「あなたは、シロ様を……どうしたいんですか?」
白鷺には表情がない。
読めない、というのが正解だろう。
だが、九十九には……その白鷺が笑ったような気がした。
『どうしたい……その問いは間違っておる。我は見送る者。どう在るかを決めるのは、我ではないからの。気まぐれなのは、否めぬが』
わからない。
九十九は再び問おうとする。けれども、唇ばかりが動いて、なにも声が発せられなかった。
急に、視界がかすむ。なんとなく、頭がぼんやりと。だが、冴えてくる。
「時間だね」
今度は、うしろから声がした。
頭上の月のように、白い着物が存在感を放っている。しなやかで長い黒髪が肩に落ちている様が、どこか艶やかだ。少女のようにも、大人の女性のようにも見える。
不思議な人だった。
初対面なのに、そうは思えない。
「またおいで」
女の人が手をふった。おそらく、見送ってくれているのだろう。ここで「お別れ」なのだと察した。
九十九は最後に問おうと、口を開けた。しかし、まるで水の中でもがくように、言葉が泡になって消えていく。
あなたの名前は?
「…………」
女の人が、少しだけ目を見開いた。
そして、笑みを描く。
「月子」
その声の響きは、まるで楽器のように。
心地よい耳当たりで、すっと九十九の中に落ちていく。もうしばらく、この声を聞いていたい。そう思えた。




