8.勝手なことを
とはいえ、やっぱり勉強は毎日したい。
九十九は疲れた身体を引きずるように母屋へ帰り、自分の勉強机に向かった。
「単語帳だけ……」
英単語の復習だけしておこう。ちょっとだけページをめくったら終わりにしよう。そう決めて、九十九はフラフラと机に向かった。
頭がふわふわする。
いやに身体が重くて、気怠さもあった。
無理はいけない。道真だって、九十九を認めてくれたのだ。加護はないけれど、自信にはなった。
だが、毎日のルーティンを壊すのも怖いもので。
九十九はつらつらと、英語の単語帳をながめ続けていた。
♨ ♨ ♨
まったく。
シロはこの日、何度目か知れぬため息をついた。
目の前には、机に伏したまま眠っている九十九がいる。
顔色がとても悪く、寝息も穏やかではなかった。額に触れると、やはり発熱しているようだった。
「お前たちの身体は、脆いのだ」
人間の身体は脆い。神々が驚くほどに呆気なく壊れてしまうのだ。ずいぶんと寿命も延びたとテレビで言っていたが、それでも、せいぜい百年が精一杯である。
そのように儚いものなのだから、大事にしてほしいところだが。
「…………」
シロはもう一度、息をつく。
九十九の額の髪を指でわけた。
しなやかで、若々しい黒髪だ。下に隠れていた肌も、十代らしい健康的な色である。とはいえ、今は熱にうなされて、珠のような汗をかいていた。
そこに、軽く唇を寄せる。
シロの神気には浄化の力もあった。それは、退魔の類に作用するだけではない。病魔や疲労にも有効だ。これはシロの神気が道後の湯と性質が似ているからである。
九十九の顔色がみるみるよくなっていく。すぐに熱がさがることはないが、じきによくなるだろう。
シロは九十九を抱えて、布団へ寝かせてやることにする。神気を使って布団を敷き、そこに九十九を横たえた。
「ふむ……休めと言ったつもりだったが、凡人には伝わらなかったかね」
フッと気配が現れる。窓枠には、どこからわいてきたのか、道真が座っていた。大方、九十九に助言をしたが心配になって、様子を見に来たのだろう。
「このような役回りは、いつも夫の儂と決まっておる。心配はいらぬから、さっさと部屋へ帰るがいい」
「天才に敵わないからと言って、そのようなお言葉は心外ですね」
「聞こえぬか、疾く去れ」
しっしっと、手で払う素振りをする。だが、道真は鼻持ちならぬ余裕の表情で、こちらをながめていた。
気に入らぬ。
「いい奥方様をお持ちですね」
「くれてはやらぬぞ」
「結構ですよ」
道真は首を横にふりながら、はぐらかした。
「一度は娶ったので充分です。それに、人間の妻は今の私には重い」
重い。
その言葉の意味を理解して、シロは顔をしかめた。
人の寿命には限りがある。
一方で、神にはそれがない。
信仰がある限り、いつまでもあり続けるのだ。道真のような神ならば、それは永遠にも似た時間だろう。
信仰の在り方は、変わり続けている。
だが、決してなくならない。無神論者が増えたと言っても、それは習慣として、生活として根づいている。この国の大きな特性と言えた。
「とはいえ、私など、あなた方に比べれば儚いものです。いつかは堕神となるかもしれぬ」
「気安く堕神などと」
道真は人間が神格した神だ。しかし、彼を信仰する日本人は多い。名前を忘れられ、堕神となる未来など、ずっと先の話だろう。それは本人もわかっているはずだ。だからこその余裕がある発言だろう。
「別天津神とは違いますので」
「…………」
「信仰のない混沌より出でた原初の存在と、我々は違いますからね。世の終焉まで見届ける天之御中主神――」
「違う」
饒舌に語る道真の言葉を、シロは強い語調で遮った。
違う。
否、違わない。
「儂は、お前たちの望む存在ではない――此れは、ただの罰だ」
声をしぼり出し、道真に視線を向ける。
道真はいけ好かぬ顔で笑っていたが、やがて、表情が失せた。
「我々には、些事ですよ。其の在りようではなく、存在そのものに意味があるのです」
それだけ言って、道真は窓枠の外に足を投げ出す。そして、ひょいと簡単に飛び降りてしまった。
ようやく部屋へ帰る気になったらしい。
「好き勝手に……」
シロは道真を見送りもせず、九十九のほうへ向き直る。なにも知らず、すやすやと穏やかに眠っていた。
なにも知らないまま。
このままでは済まない。
約束もした。
だから、シロはシロなりに折り合いをつけるべきなのだ。
だのに、今更。
「…………」
布団が少し乱れていたので、整えてやった。
「?」
だが、立ちあがろうとするシロの袖を、強く引かれる。
見ると、九十九がシロの袖をつかんでいた。目は閉じており、寝息も立てているため、寝ぼけているのだろう。
振り払うのも、忍びない。
九十九の隣に座ったまま、眠った顔をながめる。
ずっと見ていると、胸の奥。否、腹の底のほうから、なにか言い知れぬ感情が這いあがってくる。




