7.神様からのメッセージ
準備は万端だ。
付け焼き刃ではあるが、きっと大丈夫である。
九十九はキリッと姿勢を正した。
「道真様!」
意気込んで、客室で待っているお客様を呼んだ。道真は待ち構えていたかのように、すぐに障子を開いて出てきてくれる。手には湯籠をさげており、すぐに浴場へ行ける状態であった。
「待っていたよ。すぐに行こうか」
「はい。ご案内いたします。男湯は他のお客様がご利用中でしたので、個室の浴室を使えるようにしました」
九十九は他のお客様と同様、道真をご案内する。
今から男湯に細工をするわけにはいかなかったので、今回は露天風呂つきの客室を利用することにした。
湯築屋は飛び込みのお客様が多いため、客室はすべて、すぐに使用できるようにしている。すでに湯を張り、準備をしていた。
「楽しみだね」
「入っていただければ、きっと、気に入ります」
「そうかい」
用意したのは、五光の間だ。いわゆる湯築屋のVIPルームである。明治や大正を思わせるレトロな調度品を置き、露天風呂がついていた。その部屋の露天風呂に、道真を案内する。
「ほお。柚子かね」
部屋に入った瞬間、匂いが漂っていた。道真は口角を持ちあげながら、嬉しそうに笑う。表情に奥ゆかしい品があり、どこか雅だ。やはり、彼は神様だが、平安時代を生きた貴族でもあると実感する。
「柚子風呂にしました」
九十九は露天風呂を示す。
二階のため、湯築屋の庭を見おろすことが可能だ。雪がふり、寒椿が咲く景色は風情がある。浴槽は檜で、華美ではない上品なたたずまいであった。
湯船にプカプカと浮いているのは、柚子の実だ。
柚子の香りには気分を落ち着かせるリラックス効果がある。また、集中力を高める効能もあり、ゆっくりと詩を詠みたいという道真の希望に添っていると考えた。
そして、身体を温めるため、疲労回復や安眠効果も期待できる。
「熱燗もご用意していますよ」
幸一の選んでくれた日本酒だ。「梅錦」である。
愛媛県東予の日本酒である。純米吟醸酒一筋は、燗酒コンテストで金賞を受賞した日本酒であり、道真の注文にはピッタリらしい。
九十九はまだ未成年でお酒が飲めないが、いつかは自分の舌で味を確かめたいものだ。
そういえば、結婚の儀で飲んだ御神酒は、どんな味だったのだろう。などと、考えてしまう。まったく覚えていない。
「どうしたのかね、若女将?」
「雑念です! すみません、なんでもありません!」
余計な想像までしてしまい、九十九は首を横にブンブンとふる。
ウエディングドレスなど考えていない。ケーキの上に、可愛いマジパンの人形が載っているとか、ブーケトスでは結婚に興味もないくせに京が前に出そうとか、お色直しに和装が着たいとか……そんなことは考えていない。でも、神前結婚式もいいなぁ……そもそも、神様と結婚するのだけど。というジョークはどうでもいい。つまらない。
「ふむ。なるほど……注文通りだね」
道真は満足そうに、ふんわりと優美な笑みを描いた。
それを確認できて、九十九は嬉しい。
道真を満足させれば、大学合格を約束してくれる。そんな約束のためではない。むしろ、それは、今の九十九には関係ない。九十九は受験生だが、今は湯築屋の若女将だ。
単純に、お客様のお役に立ててよかった。
働いていると、受験の疲れや不安も忘れてしまう。不思議だった。夢中になっているからかもしれない。
心から、この仕事が好きだと思えた。
「若女将、ちょっと話していかないかね」
「え?」
これからお風呂を満喫する道真の邪魔をしてはいけない。そう、退室しようとした九十九を、当の道真が呼び止めた。
一瞬、目を離した隙に、道真はすでに湯の中だ。着物は部屋のすみに畳んで置いてある。
神様は不思議だ。いろいろな物理法則を無視してしまう。慣れはしたが、理解はできない。
「そこに座っているだけでいいから、話し相手になってほしい」
「は、はあ……」
珍しいタイプの注文だ。九十九はよくわからないまま、入浴している道真の姿が見えない位置に正座した。お客様が入浴中だと思うと、ちょっと気まずい。というより、やりにくかった。
「気にするな。稲荷神も、そこらで見ているよ」
「な……」
二人きりではないから安心しろという調子で、道真が笑った。忘れがちだったが、九十九は急いで周囲を見回す。おそらく、霊体化して見ているのだろう。だが、姿は現さなかった。このまま、そっと見ているつもりなのだ。
忘れがちだが、シロはたいてい九十九のことを見ている。ストーカーとも言うが……好意的に見れば、見守ってくれているので安心できた。もう一周回って、慣れてしまったので、なにも言うまいといった心境だ。
「私はね……加護が嫌いなのだよ」
道真の言葉に、九十九は身じろぎした。
「私とて、天才だが最初から神ではなかった。人であったからこそ、人々が祈る心も理解はしている。だがね、人であったからこそ、自分がどれだけの積み重ねをしてきたかという誇りもある」
道真には学問の才があり、幼少時より和歌などで才能を発揮していた。いわゆる神童、天才である。やがて、成長すると学問の最上位である文章博士となったほどだ。政治面でも、着実に実績を重ね、宇多天皇の側近にもなっている。
それだけの功績を残すには、天賦の才だけでは片づけられない。並々ならぬ本人の努力も必要であっただろう。
才能だけで登りつめる人間などいない。そこには、他者には見えない苦労を背負っているはずだ。
「まあ、どれだけ才能があろうと、努力を積もうと、無意味になることもあるがね」
結果的に道長は政敵の策略にかかり、身に覚えのない罪で九州の太宰府へ左遷された。その無念が怨念となったとも言われている。
「それでも、私は無意味とも思わぬ。こうして、神となれたのも、私が天才ゆえ。凡人の君らでは、決して至れぬ高みというわけだ」
「はい……誰にでもできることではないと思います」
「いやね、別に私は奢ったり、自慢したりしているわけではないのだよ。ただ、凡人が私のようになるのは無理だと言っている。言葉通りに受けとってほしい」
言葉通りと言われても、意味がわかりかねた。
九十九が真意を理解していないと気づき、道真は頭をかいていた。どうやら、充分に説明したつもりだったらしい。
なんとなく、道真は言葉が足りていない。
「天才なのも困りものだ。凡人を理解できない」
「す、すみません……」
「いいよ。もう少し噛み砕こう……君らがいくら足掻いても、私には至れないのだ。人には器というものがある。それぞれに、おさまりのよい器を持っているのだよ。大きさも形も、ちぐはぐだ」
「器……」
器が大きいとか、小さいとか、そういう慣用句はある。それに近いとは思うが、きっと、もう少し違う意味だと思った。
「私は学問の天才だが、凡人とつきあうのは苦手だ。それはきっと、君のほうがいい器を持っている領域だろうよ」
道真は両手を使って、ていねいに湯をすくった。湯は道真の手におさまったまま、こぼれない。
「天賦の才能は違うのだ。だから、他者と比べても意味はないのだよ。己にあった手段と、必要なだけの積み重ねがある。そこを間違えては困るね。誰もが同じ土俵にいると思ったら、それは大間違いだ」
あ……。
九十九は両目を見開き、道真の言っている意味を呑み込んだ。
きっと、理解したと思う。
「凡人どもを、私と同じなどとは考えてはいないよ。見あった努力を積んだ者を、私は評価する。そこへ至れぬのに、神頼みする愚か者とは違う。そして、私はこうも考えているね……努力を積んだ者は、正当な形で報われるべきである」
「正当な、形……」
「だから、私は加護を授けぬ。それは、その者に対する冒涜だよ。加護を与えることで、積み重ねた成果を発揮する機会を奪ってしまう。評価は人にとっての誉れだ。私はいらぬ加護で踏みにじられるのは、屈辱だ」
受験は競争だ。
勉強した積み重ねという実力をぶつけ、そして結果が出る。それは誰もがみんな喜べるものではなく、必ず敗者も存在するものだ。
だからこそ、道真は水を差したくない。
加護という要素によって得た勝ちをよしとしないのだ。
「私は勝ちもしたが、負けもした。だが、それは私の勝負だ……そこに神が介在したのだとしたら、呪うね」
実際に怨霊となった逸話のある道真が言うと、笑えない冗談だ。けれども、裏返して本気だとも感じる。
「だから、私は加護の代わりに、気に入った者には、似つかわしい言葉をかけるようにしている。それは夢であったり、偶然流れた映像であったり、本の中の一節であったり、必ずその者の記憶に留まる形で届けるのさ」
道真は湯船から身を乗り出し、九十九のほうを見た。身体が半分出ている。お客様の裸体から、九十九は慌てて目をそらそうとした。けれども、不思議と視線は道真に釘づけられたままとなる。
「私が直接、言葉をかけた君は特別だよ」
「あ……」
九十九は表情も身体も固まらせたまま、息を呑んだ。
これは道真からの贈り物である。
彼が選び、九十九に直接贈ってくれた言葉なのだ。
「もしかして……最初から、ですか?」
道真は加護は冒涜だと言い切った。
それならば、九十九に加護を与えると言ったのは……。
「騙してしまったかな?」
最初から、そのつもりなどなかった。結果的には、騙したことになるのかもしれない。
しかし、道真の言葉を受けとった九十九には、首を縦にふることなどできなかった。
「いいえ……元から、お断りするつもりでした」
加護を受ける気はなかった。
九十九は受験生だ。合格したい。当たり前である。
しかし、加護を受けるのは、間違っていると思うのだ。成果は正当に評価されるべきである。これは道真と同じ気持ちであった。
「私は至らぬ者には、言葉をかけぬ。決してな……誇れ」
「そのお言葉をいただけただけで、嬉しいです」
ほっとした。
受験をすると決めてから、いつもなにかに追い立てられている気がしたのだ。それで眠る時間を削って勉強してしまった。
足りない。
自分には、まだ努力が足りない。
なにをしていても、胸の奥で黒い焦りしか感じなかった。いつも不安で胸が占められて、圧迫されて……息苦しくて……どうしようもなくなっていた。
道真から言葉をもらって、それが少しだけほぐれた気がしたのだ。
「ありがとうございます」
九十九はその場で、深く頭をさげた。
「礼には及ばぬよ。私も楽しませてもらったからね。感謝の言葉なら、そうさね……君を心配して、私のところへ祈願に来た友人にも述べておきなさい。ずっと、自分ではなく、君の心配をしていたからね。居たたまれず、つい出ていってしまったのだ」
「小夜子ちゃんが……?」
「よい友人を持ったね。天才は孤高ゆえ、うらやましい」
道真は息をつきながらも、満足そうだった。
「さあ、ゆけ。私はもう少し独りで楽しむよ……君は平凡な人間なのだから、身体に障らぬよう、早く寝るがいい。今日は疲れただろう?」
「はい」
そうだ。今日は疲れた……。
今更になって、九十九は自分の疲労を自覚する。眠気も強いし、激チャで身体も痛かった。
早く寝ないと。




