5.鯛めしにもいろいろあるんです
なんとか、忙しい夕餉の時間も乗り切って一息つく。
ふと窓の外を見ると、やはりそこには、いつもの湯築屋があった。静かに、冷たくない雪が降り積もっている。しかし、空には雲はなく……藍色の、夜空とも夕方とも言えぬ空が広がっている。
「つーちゃん、おつかれさま」
ぼんやりとしていた九十九の前に、幸一がお皿を置いてくれる。幸一のまかないは、いつも九十九の癒やしだ。
「ありがとう、お父さん」
鯛めしだった。
実は愛媛県には、二種類の鯛めしがある。
宇和島風鯛めしは、アツアツのご飯に、タレと生卵、鯛の刺身を混ぜあわせたものをかけて食べる。高級な卵かけご飯のような鯛めしだ。常連客となったゼウスが好きで、毎回、これを頼んでいる。
もう一つ、松山風、もしくは北条鯛めしと呼ばれるものだ。一見、普通の炊き込みご飯だが、工夫がある。鯛のアラと昆布から出汁をとり、分厚い切り身と一緒に炊きあげるのだ。米の一粒一粒まで、よりいっそう鯛の旨味を感じられる。
今日は、後者だった。
お客様にお出ししたお膳の余りのようだ。湯築屋では、鯛一匹を丸々焼き魚にして、土鍋で炊いてお客様に提供する。宇和島風もいいが、こちらも鯛一匹のインパクトとボリュームが目を引いて、大変好評なのだ。
お吸い物と、煮物もつけてある。
「鯛めしっ! 鯛めしっ!」
コマもぴょこぴょことした動きで、九十九の隣に座る。同時に、ぐぅぅううと、身体に似合わない大きな音が響く。
九十九ではない。
「う……」
コマが恥ずかしそうに、自分のお腹を押さえる。
「なんか、お客様にお膳をお出ししていると、お腹が空きませんか?」
「うん、わかるよ。鯛めし、食べたくなっちゃったよね」
お料理をお出ししているうちに、自分も食べたくなってしまう。コマの気持ちは、九十九にも痛いほどわかった。とても共感する。そして、お腹が空いた。
「でも、ウチ……最近、太ったんですよ……」
コマはちょっぴりだけ頬を赤くしながら、両手で顔を押さえた。言われてみれば、以前よりは丸い気がするが……九十九には、誤差のように思える。だが、女の子は、その誤差でも気になる生き物だというのも理解していた。
「師匠が持ってきてくれるお料理が、美味しくって……」
コマは化け狐だが、変化が苦手だ。狸の将崇に弟子入りしている。
「将崇君のご飯、美味しいよね」
「はい……いえ、幸一様のお料理も、すっごく美味しいんデスよっ!」
コマは嬉しそうにうなずきながら、身体を左右に揺らした。照れているようにも見える。
「将崇君は、とっても筋がいいからね。いい料理人になれると思うよ」
コマの言葉を肯定するように、幸一も笑ってくれた。ここのところ、将崇は幸一に料理を習っている。その料理が美味しいことは、九十九も確認していた。
「将崇君、調理師免許取るらしいよ」
「うん」
九十九の何気ない言葉に、幸一がうなずいた。
「お父さん、聞いてたの?」
「うん。人間の飲食店を開くには、どうすればいいのか聞かれたからね」
なるほど。幸一の知恵ということか。
しかし……将崇が飲食店。本当に、幸一の影響だと実感する。あんなに勉強するくらい熱心なのだ。きっと、意志は固い。
「あ……」
「どうしたの、コマ?」
将崇のお店の話を聞いて、急にコマが固まった。動きがぎこちなくなり、なにかあるのが、とてもわかりやすい。
「いえ。お店……師匠が、お店ですか……それで、あんなことを……」
「あんなこと?」
「う、うう……よくわからないんですぅ……最近、ずっと『俺の店に来い!』って……なんのことか、わからなかったんですが」
つまり、将来の話だ。
すぐに結論づけて、九十九は微笑ましくなった。話し方が不器用すぎる将崇らしいとも言える。
「誘ってもらえて、よかったね」
ついコマの頭をなでてしまう。
コマは、ぽやっとした顔をしていたが、やがて、両頬を朱に染める。
「はい。嬉しいです」
さて。手早くまかないを食べてしまおう。まだ営業は終わっていないのだ。せっかくの鯛めしも、冷めてしまう。いや、冷めた鯛めしに出汁を注いで食べるのも、とても美味しいのだけれど。
「いただきま――」
やっとのことで食べられるまかない飯である。九十九は美味しく食べようと、手をあわせた――。
「失礼」
さあ、食べよう。
その空気を破ったのは、うしろからの声だった。
「道真様?」
厨房をのぞき込むように顔を出していたのは、菅原道真だった。
幸一が対応しようとするが、九十九はそれを制する。ここは、自分が行くべきだと感じたからだ。
「どうされましたか?」
「いやはや、また私は天才なのに失念していたのだよ。申し訳ないんだけどね」
道真は申し訳なさそうに眉をさげた。
「湯船につかりたいのだがね」
浴場の場所がわからないのだろうか。それなら、ご案内すれば問題ない。そう思ったが、どうも具合が違うらしい。
「道後の湯は、神気も存分に含んでいるし、湯質もよい。だがね……」
「は、はい」
道真が真剣な表情と声音を作るので、つられるように、九十九も息を呑んだ。
「もう少しだけ、楽しみたいのだよ」
「楽しみ……?」
「楽しみのある入浴を満喫したいのだ」
言葉が頭に入ってこなかった。
楽しみのある……?
「遊び心、ですか?」
「そう。それだね。いやはや、君も知っている通り、この時期になると私は忙しい。趣味の詩も詠めぬくらいに……最近は、あれが好きでね。川柳かね。匿名で、賞に応募するのが楽しくてだな――それは、どうでもいい。とにかく、心に余裕が欲しいのだよ」
学問の神様が匿名で川柳コンテストを荒らしていると思うと、ものすごくシュールだ。どんな川柳を詠むのだろう。興味はあったが、今は関係ない。
「遊び心……」
九十九は首を傾げながら、とりあえず厨房に視線を移す。コマが頭を抱えて「うーん……うーん……」と一緒に考えてくれていた。幸一も、作業の手を止めている。
ふと、幸一の手元に目がとまった。
料理に使用した食材の余りだ。
「わかりました。楽しくて、心に余裕のある浴室にしてみます」
「あと、風呂にあう熱燗も頼んだよ」
「はい、ご用意します!」
鯛めしは……あとで、冷やご飯に出汁を注いで食べることにしよう。




