4.激チャすれば、なんとかなる!
受験勉強は、受験勉強。
お仕事は、お仕事だ。
菅原道真というお客様を迎え、今日も湯築屋はいつも通りの運営をする。九十九も普段と同じく、お客様たちのご要望にお応えしていた。
「つーちゃん、大丈夫?」
「え?」
厨房の様子を見に行くと、料理長の幸一が顔をのぞき込んできた。心配そうな表情である。
「なんだか、体調が悪そうだから」
「うーん……大したことないから大丈夫」
体調不良というほどでもない。寝不足だと思う。
授業中も寝てしまったが、ここのところあまりに眠い。ベッドで休んでも、熟眠した気がしなかった。内容はよく覚えていないが、毎晩のように夢も見る。なんとなく、もがく夢だという印象だけ残っているので、ストレスのせいかもしれない。
「つーちゃん、今日は休む? センター試験だって、すぐでしょ。無理しないほうがいいよ」
父親らしく、優しい声で幸一が問う。春風みたいに、そっと九十九を包んでくれるようだ。こんな顔をされると、つい甘えたくなってしまう。
「ありがとう、お父さん。でも、ちゃんとお仕事します」
「だけど……」
表情を曇らせる幸一に笑いかけながら、九十九はくるりと踵を返した。ちょっと身体が重いけれど、大丈夫だ。そのまま、厨房を出て客室へと向かう。
夕食前の時間帯なので、どのお客様もだいたいお戻りだった。温泉やテレビを楽しんでくつろいでいる。みんな湯築屋の夕餉を楽しみにしているのだ。
神様たちも、みんな幸一が作る優しい料理が好きだった。
「嗚呼、若女将」
廊下を歩く九十九に声をかけたのは、道真だった。ひょいっと角から顔を出し、手招きしている。
「道真様、どうかされましたか?」
「ふむ。松山は久方ぶりだからね……失念していた。天才過ぎて、そこに考えが至らなかった……今すぐ、やきもちが欲しいのだよ」
天才過ぎて考えが至らなかったという発想は、一周回ってポジティブすぎる……というツッコミは、しないでおこう。
「やきもち……石手寺のやきもち、ですか?」
有り体に言えば、焼いた餅である。
四国霊場五十一番札所である石手寺の前で、焼いた餅を売っているのだ。石手寺に奉納される米を有効活用するためにはじまった。
ふと、九十九は時計を確認した。
「やきもち……もうすぐ閉まっちゃう!」
「そうなのだよ!」
道真は大げさに声をあげながら、頭を抱える。
「どうしても食べておきたいのに……!」
崩れるように膝をつくお客様を前に、九十九は狼狽する。
どうしよう。
石手寺は道後温泉に一番近い札所だ。自転車なら十五分、いや、十分で行ける。
「おまかせください、道真様!」
九十九は、ふんっと気合いを入れる。
そして、母屋の自室へと走った。
急いで身支度をする。着物では自転車を漕げない。手早く着物を脱ぎ捨て、ジャージに袖を通す。寒いので、ダウンジャケットも羽織った。
着替えると、再び玄関へと。
「あ、若女将っ!」
その途中で、子狐のコマが手をふった。ぴょこぴょこと跳ねて、存在をアピールしている。
「コマ、ちょっと行ってきます!」
「え? はいっ! がんばってください!」
おそらく、わけがわかっていないだろうが、応援された。九十九はそのまま大急ぎで旅館の外に出る。そして、自転車を出した。
「九十九」
九十九が跨がった自転車のカゴに、白い猫が飛び乗った。
湯築屋のオーナーであり、神様。稲荷神白夜命――通称、シロの使い魔である。シロは湯築屋の結界を維持するため、外へ出られない。外出用に使用する使い魔だった。
「なにも、無理をしなくともよいと思うがな……」
シロの使い魔はカゴの中で嘆息した。呆れているような素振りだ。
「いいえ、お客様のご希望ですから……激チャすれば、間にあいます!」
言いながら、九十九は勢いよく自転車を漕ぎはじめた。
イメージするのは全速力の自分だ。自転車に大きなエンジンを積んで、ブルンブルンと音を轟かせている。そういう気分を自分で作りあげた。
そして、漕ぐ!
自転車を、漕ぐ!
筋肉痛? 知らない子ですね!
「激チャは方言らしいと、天照が言っておったぞ」
「知ってます! 黙ってください!」
激チャとは、自転車を激しく漕ぎまくる行為。つまりは、自転車で急ぐことである。愛媛県内なら、たいてい通じる。その他でも、通じる都道府県もあるらしい。どちらかというと、方言よりも、地域限定の略語や新語の類だ。
激チャすれば、なんとかなる。これは魔法の合い言葉だ。やればできる。某高校の校訓ではないが、そういう心意気で敢行するものだ。もちろん、交通ルールには従う。
緩やかな下り坂の道を自転車で急ぐ。道後から石手寺は、一本道だ。迷うことなく辿り着ける。
「はあ……はあ……」
石手寺が見えた。
激チャはこたえる……すっかりと息が切れてしまった。九十九はヘロヘロになりそうな身体を両足で支えて、自転車からおりる。
石手寺は四国霊場五十一番札所だ。八十八ある四国遍路の寺院の一つである。連日、参拝者やお遍路さんでにぎわう、弘法大師ゆかりの寺だ。日本編ミシュランガイド観光地の一つ星も獲得している。
本尊へ続く参道を入ってすぐ右側に、「やきもち」の文字。小屋のようなたたずまいの店に向かって、九十九は走った。
「やきもち、ください! 十個入り!」
ものすごい形相だったと思う。激チャのあとなので、仕方がない。だが、九十九の様子を見ても、お店の女性はにこやかに「はい」と答えてくれた。一個七十円。十個入りで七百円。非常に良心的なお値段である。
パックに入った温かいやきもち。冷めないうちに、道真に持って帰らなければ……九十九は再び自転車に跨がり、湯築屋を目指した。
行きは下りだったが、帰りは上り坂だ。言うまでもなく、その道のりは遠く感じる。
「仕方なかろう」
シロの使い魔が一声あげた。途端に、九十九の足が軽くなった。自転車のペダルがすいすい回り、楽に走れる。
「電動アシスト付自転車……否、神気アシスト付自転車である」
「なんでもいいけど、ありがとうございます!」
シロの助けもあり、九十九はいいタイムで湯築屋へ帰りついた。門の暖簾を潜って結界内に入ると、猫の使い魔は消えてしまう。
「まったく……」
代わりに、玄関でため息をついていたのは、藤色の着流しをまとった青年だった。濃紫の羽織に落ちる白髪が、絹束のようで美しい。頭の上には、白い狐の耳が載っていて、うしろではもふりとした尻尾が見える。
湯築屋のオーナーであり、神様。稲荷神白夜命だ。
「一生懸命なのは九十九の美徳の一つだが……儂に声をかけるくらい、すればいいではないか」
どうして、ため息をついているのかと思えば……心なしか、拗ねている気がする。
「すみません。どうせ、見張っていると思っていたので」
実際、宿を出るときは、シロの使い魔がついてきて手助けをしてくれた。けれども、それではシロの気が済まないのだと思う。
「見張りなどと人聞き、否、神聞きが悪いではないか。儂は九十九を見守っておるのだ。もっと儂を頼るのだ。甘えるがいい!」
そんなことを言いながら、シロは大げさに両手を広げた。
シロにとって、九十九は庇護すべき対象だ。頼られて、甘えられて当然。以前にもそう伝えられた記憶がよみがえる。
「仕事中に、なに言ってるんですか」
シロの意図はわかっているものの、今は仕事中である。一刻も早く、道真にやきもちを届けなくてはならない。九十九は冷めた視線でシロを横目に見て通過した。
「儂は九十九のために……」
「だったら、夕餉の配膳でも手伝ってください。神様の手も借りたいくらい忙しいんですから」
「それとこれとは、別というものだ」
「なにが違うんですか」
おおむね、いつも通りの会話をしながら、九十九は廊下を進む。だが、不意に自分がジャージとダウンジャケットという格好のままだと気がつく。
「あ……」
着替えなきゃ。そう思った瞬間に、ふわっと風のようなものが通り過ぎた。
瞬く間に、九十九の着衣が変化している。味気ない紺色の上下は、鮮やかな菊模様をあしらった緑色の着物に変じていた。手で触れると、乱れた髪も整っている。紅白の菊を模した簪が可愛らしい。
シロが神気を使ってくれたのだ。
「ふふん」
ふり返ると、案の定、ドヤ顔で腕組みしている。鼻など鳴らして「得意げな様」を体現したような表情であった。
単純に腹が立つ仕草だ。手助けしてくれるのは嬉しいが、もう少しスマートにできないのか。顔がとてもいいのに、要所要所で、わざわざ自分で残念になっている気がしてならない。
「ありがとうございます」
それでも、礼は言わねばならない。九十九はできるだけ「サラッ」と、「適当」に流して、すたすたと道真の待つ客室へ向かった。
シロは「え? それだけ?」と言いたげに、「九十九、儂、ナイスであったろう? 褒めぬのか?」と、まとわりついてくる。
けれども、こういうときのタイミングは実に絶妙なものだ。
「嗚呼、若女将。買ってきてくれたのだね?」
廊下の向こうから、機を見計らっていたかのように、道真がやってきた。九十九はこれ幸いと、まとわりつくシロを押し退けて前に出る。
「やきもち、間にあいました!」
九十九は十個入りパックが入ったやきもちの袋を道真に差し出した。道真は嬉しそうな顔で、それを受けとる。
廊下だが、よほど食べたかったのだろう。道真はその場で袋を空け、中のパックを取り出した。
白と緑の餅が交互に詰められている。緑色はヨモギの色だ。
「ふむ。これだね。間違いないよ、若女将」
道真は言いながら、ヨモギの餅を口に含んだ。
「まだ温かい。早めに持って帰ってくれて、ありがとう」
「どういたしまし……て?」
お礼を言いながら、道真が手を差し出すので、九十九は反射的に、それを受けとった。掌に、温かい感触。
やきもちを一つわけてくれたのだ。道真は「お食べ」と言いたげに微笑んでいる。
お客様のために買ってきた品だ。自分で食べるのは憚れるが……他ならぬお客様からの贈り物だった。
「ありがとうございます」
「苦労してくれたのだろう?」
労いの言葉だった。努力が報われた気がして、心まで温かくなってくる。
九十九はお言葉に甘えて、白い餅にかぶりついた。
表面にはほどよい焦げ目がついている。あんこ入りの餅を鉄板の上で、印を押しつけながら焼くからである。薄らと、「五一」という文字が見えるのは、石手寺が四国霊場五十一番札所だからだろう。
プレスされて平べったい餅を口に含むと、甘いこしあんの味が広がる。シンプルだが、疲れた身体を癒やすには充分であった。
噛めば噛むほど、もちもちとした食感だけではなく、米粉本来の甘みも感じられる。
久しぶりに食べた。
美味しい。
「夕餉も楽しみにしているよ」
「はい!」
道真はくるりと自分の部屋へと戻っていく。九十九はていねいに頭をさげて、それを見送った。
「うむ……やはり、久々に食べると格別に美味い」
頭をさげていた九十九の隣で、シロがうなずいていた。よく見ると、ヨモギのやきもちを食べている。
九十九は口を曲げて、ムッとした表情を作った。
「もう、シロ様。それお客様のですよね! 勝手にとって!」
「儂も協力したのだ。当然の報酬だろうよ。道真も怒っておらぬ」
「そうかもしれませんけど、お行儀がよくないです。一言、道真様に言ってから食べてくださいよ」
「礼節など、人間たちが勝手に作った枷のようなものであろうに」
シロは残り一口のやきもちを口へ放り込み、腕組みした。
「でも、神様も同士だって一応、礼節を持ってるような気がしますが……」
神様同士で頭をさげ、敬語で改まる場面を目にする機会は多い――そうだ。湯築屋に来る神様は、みんなシロに礼節をとっている。お辞儀をしなくとも、言葉や態度で謙っている様を表する神様は多かった。
シロは神様であり、この宿のオーナーだ。結界の中ではシロが絶対であり、何者も彼を害することはできない。
他のお客様と同じでありながら、違うのだと感じる瞬間がある。
――あなたは、別天津神なんですか?
え?
身に覚えのないセリフが頭に浮かびあがった。
どうして、その言葉が浮かんだのか、わからない。過去に九十九が言った覚えはない。もちろん、誰かに言われた記憶もなかった。
どうして、今、このセリフが浮かんできたのだろう。
九十九には、わからなかった。




