3.神様は、わかりにくい
「九十九ちゃん……大丈夫?」
勉強会を終え、路面電車を待つ時間。
小夜子が心配そうに九十九をのぞき込んだ。
九十九はなんとか誤魔化そうと、表情を繕った。
「大丈夫!」
けれども、小夜子の顔は改まらなかった。むしろ、余計に心配させている気がする。
「九十九ちゃん、ちょっとお参りしていかない?」
「お参り?」
小夜子がこくりとうなずいた。そして、路面電車を待つ京と将崇に「ちょっと、寄り道するね!」と声をかける。
「行こう、九十九ちゃん」
「え、ええ?」
小夜子は強引に九十九の手を引いて歩いた。ちょうど、信号が青になる。
路面電車の駅は道の真ん中だ。駅と言っても、コンクリートの島があり、道路より一段高くなっている程度の作りだ。車と電車が同じ道路を併走し、交通ルールに従っている。駅から歩道に戻るときは、交通事故に注意しなければならない。
青信号で交差点を渡った先は、ロープウェー街である。
緩やかな坂道が続き、左右には商店が並んでいた。小説『坂の上の雲』を意識した街作りが行われた観光区画で、道路もモダンな色合いに舗装されている。街灯や案内板も和モダンで、少しレトロな雰囲気だった。
坂道を登っていくと、松山城へ続くロープウェーが見える。その脇から、城山への登山道が伸びていた。
「ねえ、九十九ちゃん。そんなに心配なら、神様に頼んでみようよ」
「え?」
小夜子は眼鏡の下で、にこりと笑った。接客の笑顔とは違う、もっとやわらかで親しげな表情だ。
「私、九十九ちゃんは絶対大丈夫だと思うんだよ」
「そんなこと……」
「あるよ。だから、自信つけるために、神様におねがいしよう」
小夜子は松山城への登山道の入り口を示した。
ここを登れば、松山城へつく。だが、その途中には、東雲神社の境内があるのだ。
東雲神社は豊受大神や天穂日命など、複数の神を祭神としている。松山城の敷地内という立地のため、藩祖を祀った神社であった。
そして、その一柱に名を連ねる神の名前に行き当たり、九十九は少し表情を明るくした。
菅原道真。学問の神様だ。
「お客様やシロ様には、九十九ちゃん頼みにくいんでしょ?」
「う、うん……ありがとう」
見抜かれていた。
やはり、普段から接しているシロや、湯築屋のお客様に甘えるのは気が引ける。それは、彼らのことを神様でありながら、あくまで、個々の存在。九十九が一人の人間として彼らに接するというポリシーによるものだった。
だから、特別な理由がない限り、ねがいを聞いてもらうのは反則だと思っている。小夜子が神社に連れてきたのは、九十九をよく理解しているからだ。
「道真様は、湯築屋にも来るの?」
神社への坂道を登りながら、小夜子が問う。
「うん。一回だけ見たことあるかな。常連さんだよ」
おそらく、最後に見たのは九十九が小学生のときだ。湯築屋のお客様は、ほとんどが神様だ。「常連客」と言っても、しばらく顔を見なかったりする。だが、彼らにとっては、たいていが「ついこの間」であった。人間とは時間の感覚が違う。
「神様におねがいしてみたら、ちょっとは気分も楽になるよ。私も、一緒におねがいするね」
果たして、そうだろうか。
胸の奥に、ずっと黒い霧のようなものが漂っていて、気持ちが悪い。これが晴れるなんて、想像もできなかった。
「九十九ちゃんって、シロ様と結婚式したの?」
「え!? なんで、今その話!?」
「だって、別の話をしたほうが気も紛れるでしょ?」
「そうだけど!」
小夜子のふった話題が飛びすぎていて、九十九は過剰に反応してしまう。
「結婚式は……したらしい、よ?」
自信がないのは、九十九が物心つく前に終わっていたからだ。正確には、結婚の儀である。
一般的な結婚式と呼ばれるものとは違う。夫婦となる二人が特別な御神酒に口をつけ、誓約を交わすのだ。儀式である。
ウエディングドレスを着たり、大々的な披露宴をしたり、そのような華やかさはない。神前で執り行う神事なのだ。
だから……正直、シロと結婚したという実感は九十九にはない。
だから、ずっとシロへの想いにも気がつかなかったのだ。
「そっか。じゃあ、二回目する?」
「え?」
九十九は両目を瞬かせた。たぶん、すごく変な顔をしていると思う。小夜子の言葉を、どう受け止めたらいいのかわからない。
結婚式?
二回目?
そんなこと、考えた試しがなかった。
シロ様と……結婚式……。
白無垢で歩く自分と、シロの姿を思い浮かべてしまい、九十九は首を横にふる。すぐに和装が想起されたのは、普段の服装からか。
やっぱり、ウエディングドレスが……いやいやいやいや、そうじゃなくって!
「九十九ちゃんなら、和装も洋装も似合うと思うよ」
「さ、小夜子ちゃん!」
九十九の考えていることなど見通したように、小夜子がクスクス笑う。というか、どうしてバレたのだろう。九十九は頭を抱えた。
小夜子は本当にときどき、こういうことをする。
困ってしまうが……友達として、仲よくしている証拠のように感じて、ちょっと嬉しくもある。
同時に、高校を卒業すると、学校がわかれてしまうのが寂しかった。小夜子は湯築屋のアルバイトを続けると言っているけれど。
「神頼みなど、非合理な」
東雲神社の境内に辿り着いた頃合い。
どこからか、声がした。すぐに、九十九たちに話しかけられているのだと感じ、辺りを見回す。
「あ……」
ふわりと、木の葉が舞い落ちるようだった。
九十九の目の前に、直衣姿の男性がおりてくる。スローモーションみたいに、重力に逆らった動き――神様だとわかった。
「近頃は、大して努力もしないまま神頼みに来る若者が増えたものだ。まったく……いったい、我らをなんだと思っているのかね。凡人どもの考えることは、天才には理解しがたい……」
嘆息する神様には、見覚えがあった。
菅原道真である。
学問の神様として全国的に祀られている。平安時代の貴族であった。学問に優れた政治家であったが、政敵に敗れて九州の太宰府に左遷され、そこで死を迎える。死後、怨霊となったとされ、改めて天満天神として信仰されることとなった。
彼が詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌は有名である。道真が大切にしていた梅の花が京都から、九州まで飛来したという伝説まであった。梅紋は、道真・天満宮のシンボルとなっている。
「道真様……お久しぶりです!」
九十九が頭をさげると、道真は当然のように「うむ」とうなずく。
道真は木笏を持った右手で、神社の殿舎を示した。
「君も神頼みかね?」
「ま……まあ……」
道真の問いに、九十九は苦笑いで答える。道真はつまらなさそうに、木笏をもてあそび、息をついた。
視線がやや冷ややかで、緊張してしまう。
「私は学生が嫌いだよ」
バッサリと斬られた気がした。
学問の神様にそんなことを言われるなんて……。
「今の若者の多くは義務や惰性で勉学に励む。そこに意味があるとは、到底思えぬからね。まあ、よい時代にはなったと思うが……しかし、励んだところで、この私に敵う天才など現れぬ」
現代には義務教育という制度がある。それを終えても、多くの学生は高校や大学に進学していた。
だからこそ、全員に平等な勉強の機会がある。教養があり、誰だって学問に励む権利が与えられているのだ。
「無理やり勉強させられている。なんとなく、神社へ来て志望校に合格したいと、我らに神頼みする。そういう凡人にやれる加護はないのだよ」
「は、はい……おっしゃる……通りです」
耳が痛かった。九十九は学問を志すわけではない。道真にとっては、たいそうな理由もなく、なんとなく大学へ進学しようとしていると言えるだろう。
「嗚呼、別にそなたの話ではないのだがね? そう凡才を悲嘆しないでくれたまえ。世の中には君のような凡人であふれている。私が特別なのだ」
道真はコホンと咳払いする。
「参拝かね。好きにしたまえ」
そう言って、道を譲ってくれた。だが、どうしても九十九はにこりと笑うことができなかった。おそらく、暗い顔になっているだろう。小夜子の心配そうな表情が物語っている。
「ありがとうございます……」
九十九はどんよりとした気持ちを引きずりながら、参道を進む。真ん中は神様の通り道なので、きちんと端を歩く。
「ふむ……なるほど、心得た。待ちたまえよ」
不意に、道真が九十九を呼び止める。
ふり返ると、すぐそこに顔が迫っていた。
そんな気配など感じなかったのに。まるで、シロのようだ。湯築屋ではないので油断していた。九十九は「ひぇえ!」と間抜けな声をあげながら、うしろへさがった。そこで、道真は初めて、自分の顔が近すぎたのを自覚したらしい。
「つい、気になると前のめりになりがちなのだよ……」
「は……はいぃ!」
驚いた勢いのまま返事をしたので、声が裏返ってしまった。
「私は滅多に加護を与えぬのだよ。凡人に与えたところで無意味だ」
「は、はあ……」
道真の発言意図が、九十九にはよくわからなかった。
「そなたは特別だよ」
木笏の先を向けられて、九十九は両目をパチクリと瞬かせた。
「私をもてなせ。満足すれば、そなたに合格を授けよう」
「え」
予想外だった。
先ほどと、言っていることが違う気がする。
小夜子も同じだったようで、訝しげに眉を寄せていた。
「湯築屋は久しいからね。楽しみだよ」
道真は勝手に腕組みして、笑顔である。
「え、え……? 道真様、それって?」
「そのままの意味だ。頼んだよ?」
「え? え? ええ?」
それって、いいんですか?
ずるい。
九十九の頭に、そんな言葉が浮かんだ。
だって、受験生はたくさんいる。九十九以上に勉強している学生が大勢いるのだ。それなのに、九十九だけ加護を与えられるのは……たしかに、九十九は神頼みに来た。けれども、それはあくまで気休めである。
神様は加護を安売りしない。気まぐれに見えて、行動には理由が伴う。
湯築屋でくつろぎたいから、若女将の九十九に合格を授けるのは……あまりにも、神様たちの理にあわない。
「九十九ちゃん、よかったね! がんばろう!」
小夜子が急に九十九の肩を叩いた。
え? 小夜子ちゃんまで?
満面の笑みで「がんばろう!」と言う小夜子を、九十九は直視できなかった。
それとも、九十九の感覚が変なのだろうか。小夜子や、他の受験生なら、素直に喜べるのだろうか。
「私は天才であり傲慢だからね。しっかり頼んだよ、若女将」
ああ、でも。
加護はともかく、道真は湯築屋に来る。
お客様なのだ。
だったら、おもてなしをしない理由がない。
「はい。おまかせください……!」




