2.すみませんでしたー!
はっ。と、意識をとり戻す。
今、夢を見ていたと思う。そういう自覚はあるのに、内容については、まったく思い出せなかった。
額から垂れる大粒の汗が、腕の下に敷き込んでいたプリントに落ちる。自分で書いたシャープペンシルの文字が、ぼやっと滲んだ。
九十九は状況を確認しようと、辺りを見回し――。
「ひっ……!」
すぐそこに立っていたのは、日本史の先生だった。右手に教科書を持ち、左手は腰に当てている。
顔は笑っているように見えるが、笑っていない。これは、笑っているとは呼べないと思う。九十九には、次に発せられる言葉が、容易に想像できた。
「湯築」
「は、はい……」
頭の上に、コンッと教科書をのせられた。叩かれているわけではないので、体罰とは言えない。だが、只ならぬ圧力を感じた。
「最近、また居眠りが過ぎるぞ」
「う……はい。申し訳ありませんでした……」
つい、かしこまった口調になってしまう。
九十九は湯築屋の若女将である。しかし、その前に学生だ。学生の本分である勉強を疎かにすまいと、旅館の業務にも余裕を作るようにした。居眠りはしばらく改善していたはずだが……。
「成績も悪くないし……湯築は根を詰め過ぎなんだよな」
「は、はあ……すみません。気をつけます」
そう言って、この場では九十九にお咎めがなかった。先生は、再び教科書を読みあげながら教室を歩く。九十九は姿勢を正して、教科書に目を落とす。
そのころには、自分がどんな夢を見ていたか。という些事は、気にならなくなっていた。
放課後。
「ゆづ。最近、また授業中寝るようになったんやねぇ」
「う……」
と、何気なく発せられた京の言葉に、九十九は背中を丸めて身体を小さくするしかなかった。
「まあ、京ちゃん……九十九ちゃんだって、大変なんだから」
おそらく、フォローのつもりなのだろう。小夜子が笑って誤魔化した。
「うちが大変じゃないって言い方は聞き捨てならんのやけどぉ?」
「そうじゃないって……」
「冗談やけん」
京は肩を竦めて、ジンジャーエールのストローに口をつけた。
ガラス張りでオープンなカフェの二階席。そこに、九十九、京、小夜子、将崇の四名が、勉強道具を広げて陣取っていた。
周囲には、似たような受験生と思われる学生がたくさんいる。
様々な学校の制服が見えるが、ここを根城にする学生は多かった。受験前のせいか、なおのことだ。大街道沿いという立地のせいか、「友達と勉強会」をするには、ちょうどいいスポットとなっている。
「旅館のバイト、大変なん?」
「ううん……今、減らしてもらってる……」
旅館の仕事は減らしているのだ。それは間違いない。従業員には迷惑をかけているが、そこは理解してもらっていると思う。
「ゆづ。参考までに聞くけど、何時に寝よるん?」
「え……だいたい二時」
「それやん」
九十九の返答を聞いて、京が頭を抱えた。小夜子も驚いた顔で、九十九を見ていた。
「はあ? お前、馬鹿じゃないのか?」
ここで、今まで黙々と集中して勉強していた将崇も顔をあげた。
「お前は人間なんだぞ。無理をすると早死にするって、爺様が言ってた」
将崇は化け狸だ。正体を知らない京に悟られないギリギリの言い回しで、九十九を諫める。
九十九はそれを聞きながら、視線を泳がせた。
「でも……不安で」
手元に目をやると、解きかけの問題集。ページは、まだ半分も残っている。これを受験日までに終えると決めたのだ。それには、夜中の勉強は必要であった。
「九十九ちゃん、それ前と違う本?」
小夜子の指摘に、九十九はうなずいた。
「この前までやってたのは、センター試験対策で……こっちは、前期試験対策。家に帰ったら、赤本もあるかな。学校の問題集と、先生のくれたプリントも毎日見直してるよ。全部、三回通りやらないと……」
「それ、各科目やりよるん?」
「もちろん」
「ゆづ。国立でも受ける気なん?」
この程度の勉強で国立大学など受からないと思うのだが……九十九の勉強量を聞いて、京が目を見張っている。そして、自分のカバンから問題集を取り出す。
「うちは、これで充分。赤本も一応、見てるけど本番になったら、なんとかなるもんよ」
京が見せてくれた問題集は、ずいぶんと薄かった。各科目分あるようだが、それでも九十九の半分に満たない。代わりに、何度かくり返して解いたのか、あまり綺麗ではない。
同じ志望校なのに、ずいぶんな差だ。
京は昔から要領がいい。手を抜く場所を心得ているのか、サボっているように見えて、要点はしっかりとつかんでいた。
「私は……これかな。科目の勉強も大事だけど、小論文があるから」
小夜子の志望校は専門学校だ。人の役に立つ職業に就きたいと、看護師の学校を志望している。九十九たちとは受験科目が異なるので、勉強の質は当然違う。
「まあ、勉強しないと落ち着かないのは、俺だってよくわかるからな……」
先ほどは責めていた将崇も、言い過ぎた自覚があったのか。ため息をつきながらも、態度が丸くなった。
彼はポケットから、スマホを取り出す。この前、九十九たちと選んで買った本物のスマホである。
「俺も、これくらいやったからな!」
画面に映っていたのは写真だ。おそらく、彼の「爺様」にでも送ったのだろう。
山のような参考書と問題集が写っていた。九十九では、何年もかけねば解ききれないほどの数である。人間業ではない。否、狸だが。
「将崇君、すごい!」
小夜子が感嘆の声をあげていた。たしかに、これはすごい。
「そ、そんなにすごくなんかないんだぞ! 俺には、目標があるからな!」
「そういや、刑部って志望校どこなん? いっつも黙って勉強しよるけど」
「ケイブじゃない! 俺は刑部だ! 志望校は……か、軽々しく言えるか! 調理師免許なんて、とらないんだからな!」
「言ってるぅ! めっちゃ自分で言いよるしぃ! てゆーか、調理師って専門学校? そんなに勉強するん? ゆづのこと言えんかろ?」
「う、うう、う、うるさいぞ! 人間の受験勉強なんて、初めてなんだからな!」
「いや、たいていの高校生は初めてやけん」
将崇と京がいつもみたいに言いあっている。喧嘩しているわけではないので、ながめている分には、微笑ましい。
京は同じ志望校だが、要領よく勉強している。小夜子と将崇も、夢に向かって……九十九は、まだ足らない。
いくら勉強しても、安心できなかった。
常に言い知れない焦燥感に駆られて、追い立てられている気がする。
落ち着かないのだ。
一日のノルマを設定しても、まだ足りていない気がする。問題集を一冊解き終え、それを三回くり返しても、不安が残る。
三周目なのに間違えるなんて……もしも、この問題集にはない出題がされたら、どうしよう……。
そう思うと、とても早々に勉強を終えて眠ろうとは思えないのだ。
九十九が受験を決めたのは高校二年の終わりである。世の受験は、二年の夏からはじまっていると言われているらしい。それまで受験勉強を意識していなかった九十九は出遅れているのだ。湯築屋の仕事もあり、他の学生より勉強時間も少なかった。
遅れをとり戻さなければ。




