8.毛繕い……いや、羽繕い……?
今日は疲れた。
九十九は崩れるように、椅子に座る。本当は、そのまま布団へ横になりたかったが、我慢だ。
シロに呼ばれている。
渋々と片づけを手伝っていたが、今は、どこかへ行っているようだった。あとで来いと言っていたけれど、場所を聞いていない。
しかし、なんとなく、九十九にはすぐに見つかるような気がしていた。
シロは隠れない。
たぶん、以前まではなかった確信だ。
こんな風に思えるのが、少し嬉しかったりもする。ちょっぴり心が温かくて、ほんのりと明かりが灯っている気がした。
「シロ様?」
試しに、宙に向けて名前を呼んでみた。
返事はなく、なにも現れない。
代わりに、ふっと、風のようなものが吹いた。姿くらい現してくれてもいいのに。九十九は、誘われるように直感に従って歩く。たぶん、それでいいのだろうと思ったのだ。
「シロ様、ここですか?」
そよ風ほどもない微風を頼りに辿り着いたのは、露天風呂のある客室だった。今は誰も泊まっていない。石鎚の間だ。
「九十九」
やはり、そうだった。
部屋の中に座るシロを確認して、九十九は唇を緩めた。そして、するりと入室する。電気はついておらず、室内は暗い。
障子が開いており、シロは庭を眺めていた。月も星もないのに、庭のほうがほんのりと明るいのは不思議な光景だった。その中で、シロの白い髪が薄い光を纏っているように見える。
あいかわらず、綺麗だなぁ……九十九は、いつも慣れずに息を呑んでしまう。
「えっと……わたし、どうすればいいですか?」
九十九はシロの向かい側に座りながら、おずおずと問う。
シロは「羽根」と言っていた、しかし、どう見ても、シロには羽根などない。どちらかというと、毛だ。九十九は、どのように手伝えばいいのだろう。
シロは一呼吸置いてから、九十九に背を向けて座りなおした。
「え……」
九十九に背を向けたシロは、そのまま藤色の着流しの袖から自分の腕を抜いた。そして、背中を晒すように、脱いでしまったのだ。
「シロ様!?」
肩から腕の滑らかな肌が露わになる。適度についた筋肉がたくましいけれど、しなやかで、白い肌は女性的だとも思う。シロは背中にかかる長い髪を肩から前に垂らした。
なにもしていないのに、すごく目のやりどころに困る。九十九は顔が真っ赤になるのを感じ、両手で覆ってしまった。
これ、どういう意味!?
なにするの!?
「一枚、取るとよい。あとで田道間守に届けてやれ」
「は……はあ……」
どこから、なにを?
そう問おうと口を開いた瞬間、九十九は閉口した。
「え」
シロの背から、翼が生えていた。
純白で混じりけのない……まるで、西洋の天使のようだと感じる。白鳥? いや、白鷺だ。白鷺の翼が、シロの背に片方だけ生えていた。
「……綺麗……」
つい、ぽつんと呟いてしまう。九十九は呆けたように、その光景に魅入っていた。
シロが綺麗なのはいつものことだ。
けれども、いつもと違う。
触ることもはばかれる。九十九は息を呑んで、静止してしまう。
「疾くせよ」
「あ、すみません……つい」
シロに急かされて、九十九はようやく動いた。畳の上をじりじりと近づき、恐る恐る、白い羽に触れる。
これ……シロ様の神気じゃない……。
触れた瞬間に、違和感を覚える。
たしかに、シロのはずなのに、なぜか違って感じた。神気の質は同じだ。だが、圧倒的に違うと感じるのだ。
神気が強すぎる。
九十九の知っているシロではない。こんな神気、九十九は知らなかった。
羽根が二枚、畳に落ちる。
触れただけなのに、花弁が散るように羽根が落ちてしまった。
白にも銀にも見える不思議な輝きだ。繊細で、触れるのが怖いくらい美しかった。
九十九は落ちた羽根を拾おうと、手を伸ばす。
「…………」
伸ばした九十九の手に、手が重なった。いや、つかまれた。
ぎょっとして視線をあげると、シロが九十九の手首をつかんでいた。
目があって、九十九は身を強ばらせる。
「……誰……!」
そこにあったのは、いつもの琥珀色の瞳ではない。
美しい水晶のような輝きを持った紫色が、こちらをのぞき込んでいた。絹束のような白い髪は、墨色の黒に染まっている。
紅を引いたみたいに赤い唇が、薄く弧を描いた。
顔立ちはシロなのに……シロは、こんな顔をしない。
この人は、誰だろう。
息苦しい。気がつけば、喘ぐように肩で息をしていた。まるで、水の中のように、ままならない。めまいを感じて、意識がもうろうとしてきた。
背中に汗が流れるのを感じながら思い出したのは、五色浜で九十九を助けた人物だった。
あのときの……?
「九十九」
名を呼ばれて、意識が急に鮮明になる。
めまいがおさまり、視界がはっきりとした。水中のような息苦しさもなく、深呼吸できる。
全身の汗だけが、冷たく体温を下げようとしていた。
「あれ……シロ様だ……」
九十九の顔を心配そうにのぞき込んでいたのは、神秘的な琥珀色の瞳だった。絹束のような白い髪が揺れ、顔が近づいてくる。
息が交わるほど近づかれ、九十九はとっさにうしろへ逃げた。
「シ、シロ、様! ち、ちちち近っ!」
「やっと帰ってきたか……何度呼んでも息苦しそうだったからな。人工呼吸をしなくてはならないと思ったぞ」
「え?」
何度も呼ばれてなどいない。
九十九が羽根に触れてからシロに名を呼ばれたのは、一度だけだった。
夢でも見ていたのだろうか。なんだか、狐につままれたような心地である。
「あの」
あれは、誰なんですか?
そう問いたかったのに、九十九は言葉が出なかった。どう問えばいいのかわからなかったし、シロは聞かれたくないのではないかと思ったのだ。
「すまぬ」
九十九の顔にシロの指が触れる。なでるように優しい手つきで、心の中にわだかまる霧を吸ってくれているような気がした。
「いえ……こちらこそ、すみません」
九十九は手元に残った二枚の羽根を見おろした。
シロの翼は、なんだったのだろう。
あれは、誰だったのだろう。
「一枚は、九十九にやろう。好きに使うといい」
そう言いながら、シロは羽根を九十九に持たせた。
羽根のように軽い、という比喩があるが……羽根には重量など存在していないかのようであった。雲みたいに、ふわふわと手にしている感覚がない。重みが感じられず、不思議な気分だった。
強い神気が宿っているが、どうやって使えばいいのだろう。いつも肌守りに入れている、シロの髪の毛とは、別の用途だと思った。
「ありがとうございます」
九十九は返答しながら、シロをもう一度確認した。頭の上で狐のピクリと動き、尻尾がふわりと揺れている。いつも通りであった。
「わたし、シロ様に聞きたいことがあるんですけど……今は、やめておこうと思うんです」
九十九は待つと決めたし、シロはそんな九十九に期限を提示してくれた。だから、今、いろいろと問うのはフェアではない。それは約束に反すると思うのだ。
「でも、一個だけ言っておきたいんです」
シロは黙って九十九の言葉を聞き、続きをうながした。
「わたし、シロ様のこと、なかなか嫌いにならないと思いますから……大丈夫です」
シロが、好きだ。
本当は、そう伝えたいのだと、心が叫んでいた。
胸の奥がきりきりと痛んで、骨まで軋んでいる気がする。身体中の血液の流れが止まってしまいそうなくらい胸が痛い。先ほどまでとは、違った息苦しさを感じる。
「だ、だって、シロ様は旅館の手伝い、全然してくれませんし……いつも、松山あげ食べて、お酒ばっかり飲んで。酔って絡まれたときなんて、最低です。ときどき、寝てるときに不法侵入して神気の匂い嗅いでいくのなんて、気持ち悪いです……」
「さすがに、その言い草は傷つくぞ? そのような言われ方、まるで、儂がろくでなしのようではないか!」
「今更、気づいたんですか?」
「……嫌われた……九十九に、嫌われておった……」
シロはシュンと表情を崩して、膝を抱えた。畳に「の」の字を書いて、いじけているようだった。
九十九は、「はあ」と息をつく。
「だから、今更、嫌いになんてなりませんよ。ちょっとくらいマイナス要素が増えたところで、シロ様がどうしようもないのは変わりませんから」
逆に、どうして九十九はシロを好きになってしまったのか考える。
思い出す姿は、いつもダラしない。過剰なスキンシップも、結構迷惑だ。学校まで使いまでストーカーするのも、やめてほしい。
それなのに……気がつけば、シロのことを考えている。
どうしようもない駄目夫。
だけど、九十九のほうも、どうしようもないくらいシロが好きなのだと思う。
シロは気づいていない。
九十九がこんなに、シロを好きなのに。
伝わっていないのだと思う。伝えたいとも思う。
……伝えても、いいのかな?
九十九はシロの妻。けれども、それは、湯築の巫女はみんなそうだった。シロは、ずっとずっと、巫女に平等だ。
九十九だけを好きになどならない。
伝えれば、きっと、迷惑だ。
「と、とにかく……ありがとうございました。羽根、ちゃんと田道間守様にお渡ししますね」
九十九は二枚の羽根をしっかり持って、頭をさげた。




