6.こちらはお客様ですか?
「……おタマ様……?」
九十九の呼びかけにふり返ったのは、おタマ様だった。おタマ様は黄色い両目をまんまるに見開いている。
口には、橙に実った橘がくわえられていた。
少彦名命は、境内を通り過ぎたのは小さな生き物だと言っていたのを、九十九は思い出す。それゆえに、田道間守も気がつかなかったようだ。
今日、おタマ様から道後温泉の神気が漂っている気がした。あれは、気のせいではなかったようだ。
田道間守の橘は道後の神気を取り込んでいる。その名残だったのかもしれない。
「おタマ様、だったんですか?」
恐る恐る問うと、おタマ様は観念したように橘を足元に置く。
「やあ、稲荷の妻。それから、稲荷神」
おタマ様の口調は、いつもと変わらなかった。朝、「おはよう」と言っているときと、同じような調子である。
悪びれたり、言い訳する様子も見られない。
「――結界に侵入した形跡があると思ったら……これは、どういうことですか?」
九十九のうしろからも、声が聞こえた。
結界に入った九十九たちを見ていたのは、田道間守であった。九十九は田道間守とおタマ様を交互に見て、言葉につまる。
田道間守の声はおだやかだったが、表情は困惑していた。
「とりあえず、話を聞いてもよいか?」
シロの使い魔が前に出た。
「ええ、稲荷神の言うとおりですね」
田道間守が息をつき、結界内に入った。彼はおタマ様の姿を確認するが、特に嫌な顔はしない。話を聞いて判断するということだろう。
「そうであるな」
おタマ様の声音は変わらなかった。
普段通りのまま、こちらへ歩み寄ってくる。
シロの使い魔を間にはさむように、両者が視線をあわせた。
「まずは、謝罪しておこうか」
おタマ様はそう言って、小さな頭を垂れた。
「おタマ様、どうしてですか?」
田道間守の橘がどういったものなのか、おタマ様も知っているはずだ。それなのに、どうして、このようなことをしたのだろう。
「ふむ。なにから話せばいいものか……断っておくが、吾輩が食べるためではないよ」
「そのようですね」
田道間守には、おタマ様が橘を食べたかどうかがわかるようだ。九十九も、それは違うと思っていた。今のおタマ様に、橘の強い神気など感じられない。
誰かのため。
必然的に、そうなった。
「吾輩が世話になる定食屋の息子が、手術をひかえているのだよ」
「え! 人間に与えたんですか!?」
田道間守の顔色が変わった。
あれは不老不死の霊薬だ。人間に与えることはできない。それは、自然の摂理に反することだからだ。
与えれば、その人はもう人間ではなくなる。
神や妖、または、別の存在となるかもしれない――。
「話を聞きたまえ。まったく、神のくせに、せっかちであるな……その息子が好きな柿があるのだ」
「柿……?」
おタマ様は順を追って話した。
定食屋の息子――晃太は大きな手術をひかえている。人間の病気には理解のないおタマ様には、心臓の病気らしいという話しかわからない。
晃太はずっと入院しており、あまり実家である定食屋に帰れないらしい。彼がいつも楽しみにしているのは、家の庭に生っている柿を食べること。
だが、その柿には、――。
「柿の木は枯れる寸前なのだ。放っておくと、今にでも折れるであろうな。そして、運がいいのか、悪いのか……柿には、君たちが堕神と呼ぶ存在が憑いている」
「堕神が……?」
神様の寿命は無限のように長い。人々の信仰がある限り、死ぬことなどない。
消えるのは、人々が信仰をやめ、神の名を忘れた瞬間――名を忘れられた神は、堕神と呼ばれる。堕神となれば、彼らはただ消えてゆくだけの存在だ。
抗う堕神もいる。五色浜に棲む鬼の蝶姫を脅かした堕神の存在を、九十九は覚えている。
「まさか……堕神に……?」
田道間守が露骨に声音を変えた。さきほどまでは、おだやかとは言えないが、比較的、落ち着いていた。しかし、今ははっきりと嫌悪の色が見てとれる。
「いかにも」
おタマ様は事もなげに返答した。
すると、難色を示していた田道間守の顔がみるみる崩れていく。怒っている――いや、皮膚を真っ赤に染めて、目に涙を溜めていった。
田道間守のスイッチは怒りではなく、涙のほうに入っているようだ。いや、彼は怒るときも、号泣するのかもしれない……。
「どうして、堕神などぉぉッ! 私の橘は……私の橘は……ッ! そんな……そんなぁぁあああ! そんな、あまりに醜い……」
田道間守が大声で泣きはじめて、シロの使い魔が息をついた。予想通り、という反応だ。ずっと黙っていた将崇も、「あーあ」と腕組みしている。
九十九だけが、あたふたとしていた。
「お、落ち着いてください。田道間守様……」
「まあ、そういう反応になるだろうと思っていたさ」
おタマ様は他人事のように言った。
「おタマ様、そんな言い方しなくても……」
「事実である。神に、人の感情を汲めというのが間違っているのだよ」
九十九には、おタマ様の物言いは、突き放しているように思われた。あきらめている。そんな声音だ。
「吾輩は定食屋の息子に、柿を食べさせたい。手術まで、木が生きていれば、それでいいのだ」
定食屋の晃太は、手術をひかえている。
それまで、大好きな柿を食べさせてあげたい。そう主張するおタマ様の心情は汲める。
「でも、おタマ様……柿は買ってきてもいいじゃないですか?」
今の時代、スーパーや果実店で柿を買うことはできる。
しかし、それでは駄目なのだと、おタマ様は首を横にふった。
「あれは、定食屋の息子が母親と一緒に植えた木なのだ。身体が弱かった自分と一緒に、健やかに育つようにな……だが、その木も病に罹って枯れかけている」
その言葉に、九十九は閉口する。
健康を願って植えた木が枯れてしまう……そんな現実を目の当たりにしたあとで、おタマ様は晃太に手術を受けさせたくないのだと思う。
なんとなく、昼間に定食屋の前で見たパジャマ姿の男の子を思い出した。彼が晃太なのだろうか。
柿の木も、堕神も、もう長い命ではない。互いに、どちらかが消えれば、存在できなくなるのだ。バランスは崩せない。
「禁忌だとはわかっていたつもりだ。勝手に盗ったのも謝罪しよう。だが、神々から見れば、愚行であろうな。承認が得られるものとは、思っていなかった」
田道間守だけではない。
天照やシロも、堕神に対しては、理解を示さない様子であった。
元は同じ神々であったはずなのに。
神様たちから、近年の堕神の増加を危惧する声を、九十九はときどき耳にした。人々から信仰の心が薄れている。自分たちの存在を脅かしている、と。
しかし、堕神となった神が延命しようと、もがくことを、彼らは醜いと思っている。
すでに、神ではない存在だ。
潔く消えるべきなのかもしれない。
そう考えている神様たちの心を、九十九は理解できないわけではなかった。
説明されれば、わかる。
けれども、それは……共感できないと思ってしまう。
「あの、田道間守様……」
ただ黙って見ているだけだった。
けれども、九十九は細い声をしぼる。
「その……晃太君の手術が終わるまで……橘を提供することはできないでしょうか?」
九十九の提案に、田道間守は「ええ!?」と情けない声をあげている。流れていた涙が止まり、「どうして、そんなことを言うんです?」と、眉を寄せていた。
「おい、さすがに、それは俺もどうかと思うぞ……」
将崇が、「撤回しろ」と言いたげに九十九の肩をつかんでいる。彼は神様の側ではないが、おタマ様がやったことは「悪いこと」だとわかっているのだ。
もちろん、九十九だって、いいことだとは思っていない。
これまで態度を変えなかったおタマ様でさえ、驚いた様子で九十九を見あげていた。
「九十九」
シロの使い魔が、一言。
「それは理に反することだ。神とて、無償で加護など与えぬ」
おタマ様は田道間守の橘を盗んだのだ。その対価を支払うべきだと、シロは言っている。
九十九に払えるものは、ない。
どうしよう。
震える九十九をよそに、シロの使い魔が田道間守を見あげていた。
「儂の羽根でよいか?」
「!?」
羽根……?
使い魔が猫の姿をしているせいで、シロがなにを言っているのか、九十九には意味がわからなかった。
だが、田道間守には、すぐに理解できたようだ。ただただ驚愕という表情で、シロの使い魔を見ている。
「それは……いただきすぎです! 私の橘に、そこまでの価値は――」
「他に出せるものがない。今は用意できぬから、あとで取りにくる手数料分だと思えばよかろう?」
「近所すぎて恐縮ですよ! あなた様、正気です!?」
会話の内容を聞いているうちに、なんとなく、「シロが田道間守に対価を払おうとしている」のがわかった。
その段になって、九十九もあわてて声をあげる。
「シ、シロ様!? そ、それは……たしかに、わたし未熟ですけど……!」
「なにを言っておる。九十九も手伝うのだ」
「へ!? あ、は、はいっ!」
なにをどう、手伝えばいいのだろう。
九十九は混乱しながら、シロに返事をした。
「稲荷神、稲荷の妻……恩に着るよ」
おタマ様は九十九とシロの前にちょんと座ったかと思うと、深く頭をさげた。




