③-5
033
甚六の全身から生ぬるい汗があふれた。深夜の職員室、教員のPC前、そんな状況で後ろから担任の声が聞こえた、そんな状況であれば滝のような汗も流れよう。
「弁明ぐらいはさせてやろう」
PCの前で固まる甚六に古海はさらに声を掛ける。しかし、古海の厳めしい声はさらに甚六を委縮させた。
「………」
弁明を聞く、と言われている。普通ならもう降参であろう。しかし、甚六は諦めの悪い男であった。
…………
数秒の静寂ののち職員室からは取っ組み合いの音が聞こえてきた。そして、男二人の野太い声が聞こえたのち。
開け放たれていた職員室の扉から甚六が毬玉のごとく放り出された。
そしてピクリとも動かない甚六を追って、古海が呆れ顔で出てきた。
「普通は見つかったら諦めるもんだ、どこに教師を襲うバカがいるんだ」
「ふ、古海先生は、勝ったら許してくれそうだったし」
「…バカもん」
古海は深い嘆息を吐いた。しかし、そこには思っていたよりも怒りがないようにも感じた。
夜の職員室、床に正座させられていた甚六の前に紙コップの麦茶が置かれた。
「飲め」
古海の言葉に甚六はビクつきながらも麦茶を受け取り、一口飲んだ。
「……テストはヤバいのか?」
「…はい」
「それでテストを盗みに来たと」
「…そうっす」
甚六は俯きながら、そう言った。もうテストは絶望的であるが、それでもまだやることがある。自分が単独犯であると古海に思わせることである。
「ホント、魔術のことしか考えてなくて、それで勉強のこと忘れてて、間に合わなくなっちゃって、自分一人で校舎に忍び込んじゃいました」
甚六のその言葉を古海はどんな表情で見ていただろう、俯いている甚六にはわからなかったが。
「…寸分違わずその台詞を言った奴がいる」
その言葉に甚六は顔を上げた、そして、古海の顔を見た。
その顔には回顧の念があった。
「お前の母が、同じことを言って、同じことをやろうとしていた」
そして、古海の顔にはそれに加えて。
「そして、それに加担した奴もいた。俺だ」
羞恥の念も入っていた。
「実行犯だったお前の母、奈桐は決して俺の名前を出さなかった」
「だから、俺はお前を叱る権利はない」
古海はそう言い、膝を叩いた。
「無罪とは言わんがな、奈桐と同じ罰を受けてもらおう」
「…はい!」
「あと、お前学内で魔術使っただろう?」
「……はい」
「その分も追加しておくからな」
「……………はい」
「あと、アイツは死ぬ気で勉強してテストをクリアしたからな、お前も一点でもボーダーを割れば、補習だからな」
「………………はいぃ」
甚六はげっそりしながらも、最悪の事態を回避したことに安堵していた。
「守衛には話を通してやるから、すぐに帰って勉強しろ」
古海は腕を組み、そう言い放った。
「まあ、大体ざっとこんな感じになったわ」
「―――――――――――まったく、詰めが甘いんだから」
甚六は家に帰り、素直に勉強を始めつつ、電話越しに桐島に結果を報告していた。
「―――――――――――まあ、罰はテスト終わったあとでしょ?じゃああとは勉強頑張るだけね」
「…そこなんだよなぁ」
「―――――――――――なに?まだ手伝ってほしいの?」
「いや、もうどれだけ覚えられるかどうかの勝負だし、助けはいらねえや」
「――――――――――あっそ、じゃああとは寝ないように頑張んな」
「へいへい」
携帯の通信を切り、甚六は鼻を鳴らした。
「さて、やれるだけやるかね」
期限というものは全てのものに存在する。期限という制限、それがあるからこそ、その制約の中で人は努力するのだろう。
そして、期限が切れれば訪れるもの、避けられない戦い。それは学力試験である。
各々が努力の成果を発揮するその場所。道を逸れながらも努力を重ねてきた井藤甚六はといえば。
「………………………」
甚六は青天の霹靂にいた。努力はした、が、圧倒的に時間が足りなかった。馬鹿なことをしていた代償であった。
科目は数学。甚六は南無三と心の中で唱え、頭に浮かんだ数字を書いていこうかと思った。そんなとき。
『……そこ8』
天からの声が聞こえた。
「………っッ」
甚六は酸欠の鯉のように口をぱくぱくさせていた。
『なにいってんのかわかんないけど、大体わかるから、ほら次のとこ行くよ』
甚六は神様の声に何度も頷くと、ペンを握り直した。
『そこ3、そう次二分の一ね、その問題はあんたでもわかんでしょ?』
テストの最中、表情をころころ変える甚六を試験官の笹島は不思議そうな顔で見ていた。そして、甚六のしているほぼ黒のグレーな不正は誰にも悟られることはなかった。
こうして激動のテスト期間が終わった。甚六は見事に合計点を赤点ボーダーに乗せ、補習を免れた。
そして、古海から課せられた罰は学校が夏季休暇に入ってから3日間の学校清掃であった。
長い廊下の雑巾がけを終え、甚六は一息ついた。
『馬鹿なことしなけりゃ、掃除なんてしなくて済んだのに』
甚六の頭の中でリリィの声が響く。
「…それを言われると、なんも言えないけどさ、まあこれもとトレーニングになるから」
『…筋トレ馬鹿』
リリィはまだ文句を言い足りないようであったが、階下からの足音を聞き、口をつぐんだ。
階段を上ってきたのは、橙のサイドテールを揺らしている桐島であった。
「…今誰かと話してなかった?」
「……気のせいだろ?」
桐島は不思議そうな顔で甚六を見るが、甚六はすっ呆けた顔で答えた。
「下の階掃除終わったよ」
「おう、ありがとな」
「ふん、一応共犯者だからね、こんぐらいはするわよ」
桐島は雑巾をくるくる回しながら、そっぽを向いてしまった。
「ま、よかったわね、どーにかなって」
「ん、ああ、まあな、これでまた魔術に集中できる」
「………そんなに魔術師に、ウィッチャーになりたい?」
「そりゃ、そうだろ」
「…どうしても?」
桐島の問いはただの軽い問いかけであった。だが、甚六はふと、考えてしまった。自分がそれほどまでにウィッチャーに執着する理由を。
「憧れ、小さいころから、ずっと憧れてたから」
甚六は思い出していた。遠い日、心の底からカッコいいって思えた人の言葉を。
『あたしがウィッチャーやる理由は二つ、力ってのは絶対に必要なもんじゃないけど、いざというとき大切なものを守りたいとき、後悔したくないなら持つべきものよ、そして今一番力持ちなのがウィッチャーだしねぇ』
甚六は母の得意げな笑顔を思い出して、少し笑んだ。
『そんで二つ目、あたしは人助けして、「ありがとう」って言われるのが好きなの、それでウィッチャーってのは一番ありがとうが集まる仕事なのよ』
今思い返せば、少々誇張の入った発言であったな、と気づいたが、それでも自身の中にある熱は冷めることなどなかった。
「そうだな、なりたいよウィッチャー」
「…あっそ」
そう言い、桐島は踵を返したが、階段を降りずその場で止まった。
「アンタ見てると、あたしもちょっと真面目に頑張ろかなって思えたわ」
「……勉強か?」
「魔術!!」
桐島の突っ込みが真夏の空に響き渡った。二人も掃除を終えれば、三日遅れの夏休みがスタートするのだ。
「……ただいま」
学校清掃と鍛錬場の使用を終え、重たい自転車を漕ぎ、家に帰った甚六は何故か玄関で待ち構えていた父、井藤甚悟に小声でそう言った。
「…どうしたの、父さん」
呆け、というより放心状態といった風体の父に恐る恐る尋ねると父はぼそりと言った。
「母さんが、帰ってくるって」
一般家庭であれば、それは普通の発言であっただろう。しかし井藤家で考えてみるとどうだろう。甚悟の発言が真実であれば、母の帰宅は実に6年ぶりとなるのだ。
それを踏まえれば、甚悟の表情も、それを聞いた甚六の表情も
「…………マジで!!?」
仕方のないことであろう。
第三章前章 避けられない戦い 完




